kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

アキハバラ発 〈00年代〉への問い(岩波書店)     「語る」誠実さへの希求

2008-10-26 | 書籍
話す、語るべきことが多すぎると感じたのが一方、自分とは何の関係もない、だからもう話題にするのは止めてというのが一方。多くの人は消費される犯罪(報道)の一つとして。
しかし前者の語るべきものがある、多すぎて、どこから語っていいのか分からない、あるいは「分からない」を手がかりに解きほぐそうとする営みによって、現実を、逃れられない今を直視しようとする試み。『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』は大澤真幸を編者として東浩紀など秋葉原の事件を何らかの形で語ろうとした、そこから派生する(と各々の表現者が感じた)問題を、それぞれの感性や専門分野の領域から誠実に対応しようとした証である。
東は言う。「異常性を備えた事件を通して社会全体を理解するという、社会的包摂の回路そのものが弱体化して」いると。東は事件の直後に新聞に「自爆テロ」と寄稿したが、容疑者の自暴自棄性が秋葉原というオタクのメッカ(でももはやないというのが東の現状認識)とされる場所で、歩行者天国で、罪なきフツウの人たちを殺めたという驚愕性の背景を読み解こうとする営みを「テロ」と名付けることによって、逆に問題提起しているようだ。そしてその背景には派遣労働があり、ネット(携帯)依存があり、モテナイという恋愛至上主義の世界での過剰な自己否定がある。
派遣労働など非正規雇用の不安定さからくる将来への絶望の萌芽は竹信三恵子さんの論考で読み解け(「「排除」のベルトコンベアとしての派遣労働」)、存在としての自己否定が収斂した形での暴発という見立ては、いくつかの論者の観点から読み解けるだろう。
けれど、本書の要諦はやはり大澤、平野啓一郎、本田由紀の対談「〈承認〉を渇望する時代の中で」で語られている希望(とあえて言うが)であると思う。
〈承認〉は時に居場所である。ホームレスなどの支援を続け、雇用から放擲された生活困窮者の問題を告発している湯浅誠さんは、人が社会から脱落しないセイフティネットを「溜め」と表現しているが、〈承認〉とは自意識としての「溜め」である。
雇用、人間関係、そして未来への渇望とすべての「溜め」を失ったと感じたK被疑者が今回の事件を起こした理由とするなら、「甘ったれるな」ではなく、社会こそ「辛すぎるな」である。
語ることの多さは、それが自覚される人が多いと、そして「忘れない」という被害者(遺族)が感じる痛みとは別のところで「痛み」に自覚的であろうとする試みのバランスによって事件としての消費を免れる。
アキハバラから発せられた現実の救いようのなさはアキハバラと関係のない者までもすでに浸食している。
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主役はスペイン史   宮廷画家ゴヤは見た

2008-10-19 | 美術
異端審問というと何かおどろどろしい不吉なイメージが浮かんでしまう。魔女狩りなどキリスト教世界の負の歴史を思い浮かべる場合、異端審問もそれとごっちゃにしてしまうからだ。もちろん、魔女狩りと全然関係ない訳ではないが、ヨーロッパ世界、近代勃興直前の時代においてすでに禁止されていた異端審問がカソリックの強いスペインでは18世紀末にもまだ行われていたとうことが本作の要諦の一つだ。
異端審問。それはキリスト教信仰を持たない人を、その信仰を明らかにするために拷問して無実の自白をさせるということである。裕福な商人の美しい娘イネスも豚肉が苦手ということだけで審問を受け、「ユダヤ教徒です」と虚偽の自白をしてしまう。もちろん拷問の末。拷問に傷つき、衣服もつけていないイネスを助ける振りをしながら(異端審問を強化した張本人でもあるのだが)、抱くロレンソ神父。娘を助けたい一心でロレンソ神父に恥をかかせた父親トマスだが、イネスを教会への多額の寄付でも助け出せなかったロレンソは出奔。15年後、フランスはナポレオン軍がスペインに侵攻。フランスの革命に共鳴したロレンソは今やフランス軍の検察官として戻ってくる。スペイン国王は逃亡、異端審問が廃され、変わり果てた姿で出獄したイネスはロレンソに孕まされ、牢で産んだ我が子を探し回る。
王の画家としてこれらの時代、歴史をずっと見続けてきたゴヤ。
ゴヤというと、もちろん宮廷画家なのでカルロス4世に寵愛され、数々の王室画を描いているが同時に圧政、軍政に苦しむ庶民の姿も描いている。ナポレオン戦争に倒れる反乱民(ナポレオン軍に銃殺される姿)を描いた「1808年5月3日」はあまりにも有名である。晩年聴覚を失ったゴヤは王室の仕事もなく、ますます宗教的、深く、厳しい画を制作していく。その集大成が「わが子を食らうサトゥルヌス」(1820~24年)である。
ゴヤは王制の時代、革命の時代、反動の時代それらすべてを生きた画家である。ゴヤが活躍したのにはもちろんスペインが生んだ宮廷画家の粋ベラスケスがおり、キリスト教画ではギリシア人ながらスペインで一大画期をなしたエル・グレコらがいるからである。しかし先代の画業それ以上に多くの作品、肖像画、宗教画、大衆画をも描き分けたところにゴヤのすごさがある。映画の中でロレンソがゴヤに言い放つシーン、「あんたはいつも安全なところにいるだろ!」はそれはそうで、あるからこそいろいろな場面に立ち会い、描くことができたのであろう。
この映画はゴヤが主人公のようであるが、真の主人公は最後は裏切りの罪で処刑されるロレンソでも、今売り出し中のナタリー・ポートマンが二役を演じるイネス(またはアリシア)でもない。「ゴヤは見た」とあるように主人公はスペインの歴史でる。そしてナポレオン戦争、イギリスの侵攻を経験したスペインはやがて王制は脱したが、ある意味で王制より過酷な独裁制(第2次大戦後から近年まではフランコ将軍の軍政)を長く経験することになる。
ゴヤの見た王室の姿がぼんやりしているとまみえたのは、この頃政治を牛耳っていたカルロス王妃の愛人ドゴイの姿が出てこなかったからであろう。作品の焦点をどこに合わすかによって描いたり、描かれなかったりする人・歴史が落ちるのは仕方がないが、ドゴイなくして18世紀末スペインを描いたことにはならないだろう。(1808年5月3日部分 プラド美術館)
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短命こそ成功表現の証か?  ロシアアヴァンギャルド展(サントリーミュージアム)

2008-10-12 | 美術
ロシアアヴァンギャルドの寿命は短かった。印象主義以降、フォービズム、キュビズム、シュルレアリズムそしてシュプレマティズムと革命を経験したロシアが近代を体得するために急激に変容していった流れの中で美術もまた急激に変わっていった。しかし、ナチスとは違う形で全体主義的に表現もまた狭まれて、アヴァンギャルドの将来が途切れたからだ。
マレーヴィッチのシュプレマティズムはその後アメリカのミニマルアート、ステラやロスコなど、あるいはイタリアのフォンタナなどに引き継がれていくのではと勝手に考えているが、抽象表現主義という一言では言い表せないほど豊かで、また想像力をかき立てるのがマレーヴィッチの農民像である。そう、マレーヴィッチはロシアという凍土の農民像に拘った。カンディンスキーなどロシア出身の美術家が表現主義というロマン、印象主義に「毒された」見やすさに挑戦するかのごとくそれこそ「シュプレマティズム(至高主義、または頂上主義などと訳されるが)」で抗った二次元表現の要素としての画面への執着、がキュビズムを越えた形で現された。それがマレーヴィッチの仕事の真骨頂であると。
カンディンスキーはドイツへ、革命前後舞台美術で成功したシャガールはフランス、そしてアメリカへ、マレーヴィッチは抽象芸術を捨て具象画へ。美術表現が自由であるかどうかは時の権力が決めるという体制内美術の限界が垣間見えるロシアアヴァンギャルドの短命さである。
しかし、マレーヴィッチの力強い農民像は抽象か、具象かは全く関係ないということも再確認できた展覧会であった。そして近代絵画の理論的支柱、セザンヌが語った「絵画は円柱と、三角と四角で描け」を忠実にこなし、同時に、であっても労働者・農民の力強い像を描けたのもマレーヴィッチであった。
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