戦争を経験した世代がどんどん少なくなっている。ただ、そういった世代の多くが戦争を語ったり、その経験ゆえ反戦運動に関わったりしたわけではない。むしろ少数だろう。亡くなった私の父も中国戦線での軍隊経験があるが、その体験を語ったことはほとんどないし、戦争はいけないと言いながら靖国神社参拝への憧れを口にし続けていた。
四國五郎はその生涯を反戦表現に捧げた人だ。職業画家ではないが、数えきれないほどの作画をなし、文を紡いだ。その姿を最も間近に見てきた子息の四國光さんが父の詩画人としての活動、それにかける思い、背景と一生をまとめ上げたのが本書だ。光さんもプロの伝記作家ではないし、いわばアマチュア画家を素人作家が評伝に著したように見える。しかし、五郎のアマチュア性は、市井に生きる従軍経験のある一人の広島出身者ゆえの責務を体現しているし、光さんは等身大の父を描くことで画業にとどまらない四國五郎の姿を読む者に教えてくれた。アマチュアと言ったが、幼少の頃から画才に秀でた五郎の技量は著者のみならず、多くの認めるところだ。けれど画家への夢は招集、満州へ、そしてソ連軍の侵攻によりシベリアに抑留されたことにより絶たれた。ラーゲリでの生活は3年以上に及び、広島では最も愛したすぐ下の弟直登を原爆で失う。やっとことで帰国した五郎を迎えたのは破壊された故郷と弟の死だった。
戦後、市役所に職を得ながら、反戦活動に従事する。ともに活動したのが峠三吉。原爆詩人の峠と、画と詩を組み合わせた「辻詩(つじし)」=反戦反核のポスターをいく枚も書き上げる。しかし時代はまだ占領下。そして朝鮮戦争でGHQの言論統制も厳しい。それでも辻詩のほか、『反戦詩歌集』の発行など戦争と原爆への告発をやめなかった。ところで「辻詩」とは著者によるとバンクシーのような活動、神出鬼没で違法の抵抗アートのことだ。広島に原爆を落としたGHQ=アメリカが最も統制、弾圧の対象とする運動を繰り広げていたのだ。
やがて、占領下は終わるが、今度は逆コースの時代。日本にまた軍隊が、後の自衛隊が創設され、レッドパージも吹き荒れる。その中にあって、五郎は次々と活動の幅を広げ、市民に戦争の記憶の継承に道筋をつけた。1974年から始まった被曝体験者による「原爆の絵」募集や『絵本 おこりじぞう』(初出は1973年)の挿画などはその代表的な活動であろう。なぜ、五郎はそこまで反戦反核運動に生涯を捧げることができたのか。それは軍国少年としてそういうものだと従軍し、無知であった自己、そして不合理極まりない軍隊経験と仲間が次々に斃れ、次は自分の番と死を覚悟した収容所生活、そして原爆が落とされたその時広島にいなかった悔しさなどが合わさって作り上げられたものだろう。けれど思いだけで運動ができるものではない。若い頃から日記やすぐに絵にする画才、そして収容所ではソ連軍に隠れて記し、描き持ち帰った綴りものなど。飯盒に引っ掻いて描いたものまである。
父の生涯を丹念に追った光さんの筆致は正確で、あたたかい。それは光さんが何よりも父を尊敬しているからに違いない。尊敬できる人であったということだ。実は、身内、それも親を尊敬できるというのは難しい。世襲政治家が「父を尊敬します」というきな臭さとは正反対の尊敬のあり方だ。父としての実際の五郎は穏やかで声を荒げることもなく、いつも絵を描いている姿ばかり思い出されるという。近年、戦時トラウマの存在がクローズアップされる中で、己を律し、終始冷静かつ大胆に活動した四國五郎の凄さが改めて思い知らされる。
尊敬する戦争世代の中で「戦争出前噺」の本多立太郎(1914〜2010)さんがいる。本多さんは中国人を手にかけたこと、シベリア抑留の経験話を行脚なさっていて、一度話してもらったことがある。本多さんもシベリアから帰国後、ベ平連運動などずっと反戦活動に従事された。本多さんに四國五郎が重なって見える。ただ一点違うのは、本多さんが天皇(制)にたいする反駁を語っていたことだ(だから、「ムラの靖国」である箕面忠魂碑違憲訴訟をずっと支援されていた)。本書では、五郎にはあの戦争の一番の首謀者である天皇に対する思いがほとんど出てこない。本多さんもそうであるが、ソ連帰りということで実際以上に目の敵にされていたのではないか。右翼勢力からすれば「アカ」の頭目として。
闘病と執筆と。大変なお体で光さんが書き上げた四國五郎の実像とその執念に改めて敬意を抱く。(『反戦平和の詩画人 四國五郎』2023.5 藤原書店)