kenroのミニコミ

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加害の告白をどう引き出すか  「アクト・オブ・キリング」の回答

2014-06-13 | 映画
戦争については4つの位相があると思う。戦争を知ってることとし知らないこと。戦争を知っている人を知っていることと知らないこと。だから戦争を知っている人を知らない人はもっとも戦争に対する感受性や想像力をはぐくむ機会に遠いと言える。
日本ではもう戦争を知っている人はかなり高齢で、戦争を知っている人から話を聞いたことがあるとか、戦争を知っている人を知っているかどうかの世代になった。さらに戦争を「知っている」という場合、実際に戦場に行ったとか、中国や朝鮮半島、台湾など日本が植民地支配あるいは日本軍が行った行為について直接聞いたことがあるかどうかも「知っている」の範疇に入るかどうかも重要だ。なぜなら、戦争中戦場に行ったこともない、戦場の出来事を知らない一定の立場にあった人の子孫は戦争を知っている人を知っているとは言えないからである。もうおわかりだろう。ここまでの迂遠な説明は、岸信介の孫の現在の首相、安倍晋三をして戦争を知っている人を知らない人と明確化するためである。
安倍晋三の話はおいておくとして、本作アクトオブキリングである。日本語に訳すと殺人実演か。本作の並外れた着想は、普通戦争犯罪を描く作品は被害者の聞き取りを延々と描くものであるのに、加害者に「殺した場を再現してくれ」と頼み、それを嬉々として受け入れ、あろうことかその映画を自分らでつくろうとすることである。
1000人を殺したというアンワル・コンゴは現在も英雄である。映画館のダフ屋だったアンワルは、民兵組織のリーダー(プレマン=フリーマン、自由人のことだという)として「共産主義者」を片っ端から拉致・拷問し、そして殺していった。最初は刺し殺していたが、出血がひどいので針金で首を絞める方法を思いつき、実演する。アンワルの手下ヘルマン・コトはその演技力で虐殺のシーンを再現し、また、アンワルが虐殺される側を演じたときの尋問役を買って出る。
インドネシアでは映画の背景となった1960年代100万人とも言われる虐殺の実行役とそれを後ろ押しした勢力がいまだ権力側にいるため、アンワルも平穏・裕福な暮らしを得、映画に出演、自ら映画実演にまでなったのだという。そう、権力の側からおち、責任追及を受ける立場にあれば謝罪一辺倒でむしろ事実を語らないかもしれないが、アンワルらはいまも英雄だ。インドネシアのすさまじいまでの反共主義(もちろん反「共産主義者」ではなくて、反体制すべてが共産主義者となる。)のなせる業だが、それらスハルトら反共主義者の開発独裁を支えたのがこの日本でもある。
さて、日中・太平洋戦争時代の日本の加害者側に饒舌にしゃべらせ、加害行為を実演させることは可能だろうか。もう高齢の人が多く難しいが、映画『日本鬼子(リーベンクイズ)日中15年戦争・元皇軍兵士の告白』が数少ない加害者側の告白で、野田正彰さんの『戦争と罪責』(1998年 岩波書店)で克明に語られたように、中国は旅順で戦犯として収容された日本人が信じられない厚遇で自分のしたことと向き合うことができた「(旅順の)奇跡」であったからでレアケースである。
日本鬼子(リーベンクイズ)は悪魔ではなかった。そして孫を抱く好々爺のアンワルも悪魔ではない。普通の人が普通のまま「鬼子」になる過程こそ、戦争の犯罪たるゆえんだ。アーレントは悪魔と措定したかったユダヤ民衆に反してアイヒマンを「凡庸な(公務員)」と普通の人であったことを示した。戦争はかくも普通を「鬼子」に変えうるし、戦争の準備段階で人は徐々に「普通」の座標軸が狂っていくのだろう。
集団的自衛権行使を解釈改憲でいけると戦時の「普通」を広げていこうとしてる安倍首相。あなたはそうだろう、戦場には決して行かないから。
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