kenroのミニコミ

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積極的に?だまされてみよう   だまし絵の世界

2009-09-11 | 美術
開会直後の土曜日、かなりの人出で見られない作品もあった。会場アンケートに「エッシャーの作品は人気があるのだから、誘導ロープ(のようなもの)を設置せず、広々とした展示がよかったのではないか」旨苦言を呈したが、それくらいエッシャーの不思議なメタモルフォーゼは見入ってしまうのである。
しかし速水学芸員も指摘するように(「20世紀のだまし絵」? マグリット、エッシャー、デュシャンと「うそつきのパラドックス」図録所収)エッシャーやマグリットはそもそも「だまし絵」であろうか。たしかにトロンプルイユという時、そこには明らかに見る側をだまそう、あるいは、その作品を献上する側に喜んでもらおうという意図が丸見えである。しかし、「だまし絵」という時、「だます」という鑑賞者の一時的な反応に重きを置き、その作品を提示するにいたった制作者の意図まで与ることは少ないように思える。
「だます」という純粋に一義的な観点でいえば、2次元世界である絵画で立体的な3次元空間を表そうとした遠近法もある意味で「だまし」であるし、現実にはあり得ない図柄を鑑賞者が了解した上で提供、表現するのもある意味「だまし」である。しかし、それらは「だまし絵」ではない。
現実ではありえないという意味では、キュビズムやシュルレアリズムの絵画はもちろんその対象であるし、遠近法が確立する以前の絵画も(もっとも、キリスト教絵画は、聖書に基づく題材なので、それも非現実的といえば非現実的ではあるが)、現実を反映しているわけではない。しかし、「だまし」を企図するかどうかは別にして、制作者が鑑賞者に考えさせようと意図して描いた絵は「だまし」そのものであって、それらはマグリットやエッシャーによって十分その任を果たしている。
で、トロンプルイユである。アルチンボルドは仕え、ハプスブルク家の王や貴族を喜ばせるためにあのような果物や野菜、魚でできた顔、摩訶不思議な顔を生み出したという。当時四大元素と考えられていた地、空気、火、水を表し、同時に四季をも捉えたし、その季節感も驚くほど正確であったという。すなわち季節はずれの生物・植物は描かない、博物学的にも正確な描写につとめたことなど。
奇抜な絵を描くアルチンボルドを重用したのは、これも奇矯との評判のルドルフ2世。ルドルフ2世は首都をウィーンからプラハに移し、政治に興味を示さず、生涯独身であったが芸術と学問には庇護を惜しまなかったらしい。宗教改革が吹き荒れ、芸術家が冷や飯を食べることになるのではとルドルフのもとに参集したのである。イタリア人のアルチンボルドもウィーンに移ってから運良く歴代ハプスブルク家に引き立てられ、ルドルフ2世にまで引き継がれるのであるが、やはりルドルフ2世を描いたあのトロンプルイユが秀逸である。トロンプルイユというのはこういうものを指すのであろう。そう、アルチンボルドの描く顔には花や植物、魚を見落とすほど「だまされる」。
だまされてナンボの世界ではアルチンボルドの作品は見事そのために存在していることが分かってしまう。それくらい、作者の「だまそう」という意図も鑑賞者の「だまされよう」という姿勢も明確に反応するからだ。もっとも、アルチンボルド以降、このような博物学的に精巧な作品を遺そうとした意欲作は見あたらない。それくらい、ルドルフ2世の治世も、芸術が政治と離れて純粋に実験主義的に流れる時代も長くはなかったということであろう。
近代は政治とは離れて、あるいは、政治的であるからこそ(ロシア構成主義はその典型)「だまし」的技法が意味を持った世紀と言えるのかもしれない。さらに20世紀にはデザインの観点から様々な試み、挑戦が私たちを迎える(福田繁雄なり)。
価値反転とも言うべき20世紀の「だまし絵」は、それ以前のCGのなかった時代と分けて考えるべきであろう。そして、忘れてはならない日本の歌川国芳などにも触れるには紙幅が尽きたが、また機会があれば。

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