2025年の3月末で千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館が休館するので、足を伸ばしてきた。京成佐倉からバスに揺られ、あの素敵な空間へ。休館というが、この地で見えることができるのはこれが最後。実質閉館と言っていい。であるからかたくさんの人出だ。
人の波を抜けてロスコ・ルームに至る。静謐な空間とはこの部屋のためにある表現である。ロスコの作品を前にすると自身が吸い込まれていくような感覚になる。赤茶けた四角の画面が7点からなる〈シーグラム壁画〉は、世界で3カ所かしか臨めないという。7点の「赤茶けた」は同じではない。そこにリズムもある。さらに吸い込まれるのは自分の時間もだ。一体、このペインティングにしか見えない画面になぜそのような力があるのか。ロスコは作品展示の仕方にとてもこだわり、いったん契約したこれらを飾る予定であったレストランとの契約を解除した。空間そのものを手に入れたいとしたロスコらしい。今、その眼福に与れるのは至福の極みだ。2階にはフランク・ステラが贅沢な距離で観る者を囲み、順路の最後に位置するホールは昔モーリス・ルイスの1点のみがあった。今回は、残念ながら展示されていなかったが、窓の外に広がる木々はマグリットの絵のようだ。この空間に二度と身を置けないのかと思うと自然に涙が出てくる。さようなら、川村美術館。
都内に出て、東京国立近代美術館へ。企画展はスウェーデンが生んだ抽象絵画の先駆者ヒルマ・アフ・クリント。若い頃にキリスト教神秘主義に触れ、以後キリスト教の世界とスピリチュアルを混合、融合した作品を編み出した。20世紀抽象芸術を代表するカンディンスキーやモンドリアンも一時神智主義に傾倒していた。クリントの図案もカンディンスキーを彷彿させると見ていたら、クリントの時代が先である。彼らより「先駆けた」意味が納得できた。
東京近美はコレクションが素晴らしい。今期(2025.2.11-6.15)でも、美術書で会ったことのある名品が居並ぶ。いや、美術史を学ぶために必須のラインアップと言えるだろう。美術史や作者・作品の背景を知るだけなら、書籍やネットに頼ればよい。しかし、美術館に来る意味は、知識として得ていたものが実作と相対することによって、言うならば理論と実際が合体する、できるということである。そして、これら作品群に触れることにより、美術史が腑に落ちる。それは、日本と海外の作品が綿密に考えられた上に配置され、その連関性が推し測ることができるからだ。開国、明治以降怒涛のように持たらされた西洋文化(美術)は、それを受容、模倣するのに躍起だった時代①を経て、明治中期には東京美術学校油画科の設立など、自前の洋画を確立②、20世紀に入ると留学する者も増え、また西洋の前衛にどんどん触れた③。大正期には、日本自らで前衛を模索、構築する。同時に日本的な西洋画を追求する者も出た④。しかし、昭和期には自由な表現活動はどんどん圧殺され、やがて実績、腕のある画家ほど「彩管報国」に加担し、従軍画家も数多く出た⑤。そして戦後。占領期、アメリカ一辺倒の時代、さらにヨーロッパの息吹を得て、独自の前衛を生み出していった。そして現在に至る。展示に沿って言えば、①は浅井忠《山村風景》(1887)、②は原田直次郎《騎龍観音》(1890)、③は恩地孝四郎《抒情『あかるい時』》(1915)、④は飯田操《風景》(1935)や靉光《眼のある風景》(1938)、⑤は藤田嗣治《血戦ガダルカナル》(1944)などにその一端を見ることができるだろう。これらを補強する時代時代の西洋の作家、エルンストやロベール・ドローネー、ジャン・アルプなども展覧される。
東京近美のコレクションは美術史のコレクションである。
アーティゾン美術館の「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」展を帰阪前に見た。アルプといえば多分ジャンだけが想起されてきたように、妻ゾフィー・トイバーの名は置き去りにされてきた。確かにゾフィーは1943年不幸な事故で早逝したため、その画業に注目されてこなかったのは事実であろう。しかし、ゾフィーはジャンの付属物でも、その芸術的功績はジャンの模倣やトレースでもない。ジャンと出会う以前からスイスで自己の地歩を固めていたゾフィーは、早くから構成主義的デザインに才をなし、その発想はマレーヴィチなどより早くに実現していた。それは絵画にとどまらず、建築やポスターデザインなど驚くほど多岐にわたる。リンダ・ノックリンの『なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?』を引くまでもなく、芸術家イコール男性というウルトラ・ジェンダー・バイアスの元に女性芸術家に光が当てられず、言及もなかった。それが変わりつつある。
首都圏への遠出は色々負担も多い。しかし、川村美術館、東京近美に行って本当に良かった。川村美術館は、六本木に国際文化会館の別館として再出発するという。だが、コレクションの4分の3は売却する。