美術における「リアル」とは何か? 近代以前の宗教画が中心だった時代、目には見えない神の姿やとてつもなく過去であるイエスやマリアを画家は描いたが、それは彼らや見る者にとって「リアル」であった。近代に表現主義の時代が訪れると、具象と抽象という概念が席巻した。美術の中でこの具象・抽象を説明する最も簡単な分類として具体的な対象物の再現性にこだわるのが具象で、そうではない作者の構想の方が重視されるのが抽象と説明されることがある。大筋で合っていることもあるが、ことはそう単純ではない。
例えばルーマニア生まれの彫刻家コンスタンチン・ブランクーシ。抽象彫刻の代表作家とされるが、彼の主要モチーフである鳥のシリーズは、《雄鶏》《空間の鳥》といった具体的な作品名が付けられ、作家にとっては「具象」であるのが明らかである。しかし、それら作品をブランクーシについての知識なく見た者の多くは「抽象彫刻」と思うだろう。徹底的に削ぎ落とされた矩形の塊は幾何学的抽象の範疇に捉えるだろう。
では対象物をできるだけホンモノらしく描けば「リアル」なのであろうか。実は、西洋画が入ってきた開国以降の日本で、そのリアルと格闘したのが日本美術史でもあったのだ。本展はその歴史と、近世における日本画(この呼称も近代以降のものだが)の試みにも言及しながら、その発展性とその後を読み解く。
江戸時代末期油彩画の魅力にとらわれた高橋由一は、まだ日本人の多くが扱い慣れていなかった油彩でリアルを追求した。《鮭図》(19c後半)はいくつもの作例があるが、支持体の木目と見事に調和し、見る者を驚かせたに違いない。20世紀に入ると岸田劉生の筆力はまた日本での“リアルな”油彩画の発展に寄与したことであろう。それらと並行するように日本画もより写実力を増していく。しかし、画材が違うとはいえ、江戸時代から円山応挙ら写生の魅力に画期をなした画家らをはじめ、岩絵具など画材で油彩画の表現力と格闘した者も多い。日本における「西洋画」濫觴と言われる司馬江漢や秋田蘭画を想起すれば理解しやすいであろう。
本展では、近代美術を席巻したキュビズムやシュルレアリスムを「リアル」の追求形として俎上に載せる。つまりキュビズムは多角的視点で対象物を見、描くことにより、私たちがすでに知っている「現実」とは違う「現実」がありうることを見せつけた。さらに、「シュルレアリスム=超・現実主義」は、「現実」を描いている(はずである)のに、違和感を催す一つの傾向がある。西洋画ではマグリットやキリコなどが想起されるが、日本のシュルレアリスムは、むしろその傾向が強い。古賀春江《海》(1929)は、実在の対象物ばかり描きながら、それらが併存している近未来のような不可思議さに溢れているし、三岸好太郎《海と射光》(1934)は、その一つの到達点と言えるかもしれない。
多分展示の全体統括をした尾崎信一郎館長の特徴がでているのか、章ごとの説明文は少々難解である。尾崎館長は近・現代日本・西洋美術が専門であり、キュビズムやシュルレアリスに関する著作や図録監修も多い。館長の展示意図を全て咀嚼し、ここで屋上屋を重ねるような稚拙な解説は控えるが、リアルの追求の観点から西洋と日本を行き来し、また、その先に「境界を超えて」として「分断された現実を超えゆく力としての美術、未来に向けた一つの希望を展示する」と終章をしめる。作品にはジェンレレーションやトランス(ジェンダー)に触れたもの、まさに《ここに境界はない》(シルバ・グプタ 2005-2006)と曽爾とズバリと宣言した作品もある。
そして、鳥取県という郷土が誇る早逝の画家・前田寛治の作品がいくつも取り上げられていることに注目したい。前田は、東京美術学校卒業後、渡仏、帰国後里見勝蔵らと「1930年協会」を創立しこともあり、フォービズムの騎手と目されることも多いが、それはあくまで表現手法であって、前田が目指したものはやはりクールベばりの「リアル」であったのであろう。それがよくわかる展示であり、また、日本全国から集めた逸品も素晴らしい。そして話題になったアンディ・ウォホール《ブリロ・ボックス》(1968)ももちろんある。
日本で一番新しい公立美術館の今後に期待する。