kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「豊かさ」はどこにあるのか、あるのだろうか? ブータン 山の教室

2021-06-22 | 映画

「国民総幸福」の国、ブータン。国民が実際どれだけ幸せであったり、幸せを目指しているのか本当のところは分からないことが多い。ましてや、首都ティンプーからバスと山越えで8日もかかる最僻地では。

ブータンは英語教育に熱心という。だから教員免許を持ち、それなりに首都で教員として働くウゲンは、本当はオーストラリアに渡って歌で身をたてたいと考えている。ダラダラと過ごしてきたウゲンは、いきなり山岳の僻地ルナナ行きを命ぜられる。iPodにヘッドフォンを離さないウゲンの行先は、バスを降りて峠を野宿で越えて向かう電気も水道もないところ。標高4800メートル、人口56人の村民全員で迎えてくれたが、ウゲンは自分には無理、すぐ帰りますと村長に告げる。帰るまで村人やロバの準備が必要なため、滞在中仕方なしに授業を始める。小学校中・低学年くらいの子どもが9人。高学年以上の歳になると町に出るのだろう。そして帰ってこないのだろう。若者がいない。村に残る男性も少ない。生徒に将来何なりたいか訊くと「先生です。先生は未来に触れられるから」。学ぶことに飢えている子どもらと付き合ううち、「教育」にきちんと向き合ってこなかったウゲンの心にも変化が現れる。

村の現金収入が少ないのは明らかだ。高地に生息するヤクとともに生きる。ヤクはミルクや肉、毛皮のみならず糞は燃料になる。村人はみな「ヤクに捧げる歌」を朗することができる。ヤクは生活そのものであり、命を繋げてくれる恵であり、そして神である。ウゲンに村長が告げるのは「先生はヤクでした」。ウゲンはそれに応えられるだろうか、応えるだろうか。

総幸福の国・ブータンもので、それも汚れていない村の話、と聞けば、現代人が忘れた心の「豊かさ」への回帰と覚醒のお話、と決めつけそうになる。しかし、都会しか知らない、チャラい、ウゲンの姿はブータンが抱える現実そのものの姿でもある。ネットにスマホ、ひとときもヘッドフォンを離せないウゲンは国民総幸福の国から出ようとしている。事実、オーストラリアなど英語圏で働くブータン人は多いという。技能実習生として来日している者もいる。少なくない数の若者が国を離れようとし、離れているのだ。技能実習生は将来帰国するかもしれないが、一度流出した若い頭脳は2度とブータンには帰らないかもしれない。村長は「この国は世界で一番幸せな国と言われているそうです。それなのに、先生のように国の未来を担う人が幸せを求めて外国に行くんですね」とウゲンに言う。もちろんウゲンは答えられない。

本作はウゲンら主要な登場人物以外は、映画を見たこともない村人が出演しているそうだ。学級委員を務める9歳のペン・ザムは村の子どもで、愛らしく利発だ。子どもらが熱心に学ぶ姿にウゲンが心動かされたことは間違いない。そう、学ぶことは教えることと同義で不可分なのだ。教えるものが学び、学ぶものが教える側に回る。そこに気付いたからこそ、冬を前に村を離れるウゲンの大きな心残りが生じたのだ。しかし、ウゲンは結局村の子どもたちを「捨て」、自分の夢であったオーストラリアに渡り、歌う。けれど歌ったのは「ヤクに捧げる歌」。素朴で都会の現代人が夢想し、希う古き良き桃源郷の世界ではない。キツく、ある意味イタい作品であるのだ。

新型コロナウイルス禍で、日本の子どもらには一人ずつにタブレットが備えられ、自宅でも学習できるとの環境整備が進むという。手作りの黒板に、希少な紙を使ってアイウエオ(ではないけれど)、a、b、cを学ぶブータンの僻地の子ら。どちらが「豊か」なのか分からなくなってくる。

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噛みつく、突っ込む、逃がさない   武田砂鉄『偉い人ほどすぐ逃げる』

2021-06-19 | 書籍

武田さんのスタンスは一言でいうと「どっちもどっちだよね」という姿勢に落とし込まないでおこう、「まだ、追いかけているのはどうか」という冷笑的、「大人」な対応をやめようということであると思う。

そういった武田さんの姿勢を理解するには、武田さんが批判や議論の俎上に載せる人たちの「右派VS左派」や「保守VSリベラル」、「(安倍)政権擁護VS政権批判」などいとった「分断」の一言で分かったことにしようとする粗雑なカテゴライズでは済まされるなということだ。武田さんはよしとはしないかもしれないが、そこにあるのは「まず、疑う」「その疑いに偏りがないかどうかを疑って」「発言した人の過去の文脈や整合性を確認して」「偉い人や力のない一介の個人の発言かどうか物差しとしない」ことくらいだろうか。これは単に、誠実に発言しているか、その誠実さにきちんと向き合う誠実さはあるか、それらを言論の自由や批評精神と照らして矜持はあるか、ということであると思う。

政治の世界で残念ながら進行した事実は、ウヤムヤが勝利するということである。森友問題では、公文書を書き換えさせられて自死に追いやられた赤木俊夫さんの妻雅子さんが、真相究明を求めて佐川宣寿元理財局長と国を相手に訴えを起こしているが、報道はその裁判の話が触れられるくらいである。佐川局長は「論功」で国税庁長官となったが、その昇進を決定した政権(安倍晋三首相や菅義偉官房長官)への追及は何らなされていない。さらに加計学園問題では、その「行政を歪め」た経緯を暴露した前川喜平元文科省次官への攻撃を主導した犯人も明らかになっていないし、桜を見る会問題では、金銭の出どころやシュレッダー破棄などほとんど何も明らかになっていない。要するに「知らない」「関係していない」「もう終わったこと」が通用してきたということだ。

武田さんの追及の矛先は、政権の中枢に止まらない。2019年のあいち・トリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」をめぐって、すでに決まっていた支出をやめ、トリエンナーレ主催者の大村秀章愛知県知事のリコール運動を主導した河村たかし名古屋市長の粗雑な弁舌も切る。リコール署名が偽造されたものであって、リコール運動を取り仕切った田中孝博元県議が逮捕された現在、河村氏や高須克弥氏は「知らぬ、存ぜぬ」である。政権のやり方を学んでいるとしか思えない。

政治家以外の他の言論人らにも武田さんの噛みつきは続く。出演者が麻薬取締法違反で捕まったからといって後付けで助成金不支給を決定した文化庁(所管の独法)、ファンに襲われて怪我をしたアイドルの側から謝罪させるおかしさに気づかないフリの秋元康、目下の芸能人を怒鳴りつけることをキャラとする坂上忍と、その坂上に目上の者を配しない番組制作者など。そして極め付けは「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」と書き散らかして、「生産性がない」発言の水田水脈議員を擁護した文芸評論家・小川榮太郎に対する「論」以前だという指摘である。武田さんはこの「LGBTという概念について私は詳細を知らない」発言を何度も引用する。それくらい、ひどい発言であり、論争を始める以前の前提認識(が誤っている)と考えるからだろう。要するに粗雑なのだ。

編集者として様々な作業に従事した武田さんは現在「ライター」と名乗る。そこには、言葉に対する人並みならぬ思い入れと、それを操る人間の品性にも気にかけてしまう性癖もあるのかもしれない。けれど、最高権力者が「やぎさん答弁」を連ねて済んでいる時代であるからこそ、武田さんの「噛み付く、突っ込む、逃がさない」姿勢に快哉を送りつつ、自身の言葉の劣化にも自覚的でありたいと思う。(『偉い人ほどすぐ逃げる』2021年 文藝春秋)

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鬼才、異才は、「クールジャパン」の戦略か   HOKUSAI

2021-06-01 | 映画

「飢えている子どもの前で文学は何ができるか」

サルトルの有名な言説に思い至ったのは、阿部寛演ずる版元の蔦屋重三郎が「絵で世界は変わる」と宣ったからだ。時代は寛政の改革で奢侈禁止。しかし喜多川歌麿、東洲斎写楽、そして葛飾北斎と浮世絵文化を彩った錚々たる面々が活躍する時代でもある。弾圧と自由な表現と、近代法制の整う以前に表現者と、それを支える民、そして取り締まる側との攻防が時代の息吹を伝える。

それにしても北斎人気は度を越している。確かに米LIFE誌で「この1000年で最も偉大な功績を残した100人」に日本人でただ一人選ばれたことがある。しかし、数年前の若冲人気といい、東京オリンピックを盛り上げるための「クールジャパン」戦略の一角かと思うと鼻白む思いもする。とはいえ、北斎の偉業は度を越している。仔細は語るまい。90歳で斃れるまで画狂を貫き、富嶽三十六景、北斎漫画、男浪・女浪‥。偉業・異作の出ずる根本は、「描きたい」「描くのだ」という思いのみ。

若い頃を柳楽優弥、晩年を田中泯が演じるダブルキャストの手法は成功していると見える。史上最年少でカンヌ映画祭主演男優賞をとった柳楽は、その後、若年で傑出した俳優は成功しないというジンクスを跳ね除けて着実に伸びている。一方、田中は最近役者として名が売れているが、本来は身体で全面に勝負する世界的な舞踏家である。だから田中はインタビューで繰り返し自分がダンサーであることを強調しているし、その真骨頂が画面の節々にまみえる。例えば、ベロ藍を粉の状態で入手し、雨の中それを浴びるシーン。そして北斎の挿画を弾き立たせた戯作者の柳亭種彦が刺殺される場面を想像するシーン。いずれもスクリーンいっぱいに北斎、田中の形相が映し出される、なんという迫力か。ここでは身体をはって踊る田中が顔だけで勝負している。そしてそれは眼球だけでも。

民の自由な表現を担保する芸術は、時に権力批判も内包する。そして芸術家自身が、そうでなければ自己が目指す芸の極地に達し得ないと、権力と直接に対峙する。さらに柳亭のように秘されたまま消されることもある。しかし「出る杭は打たれない」と、蔦屋重三郎は言い放つが、それは酷薄な時代と無縁であったからではないか。というのは、寛政の時代、幕府も庶民に広がった戯作や浮世絵人気を本当に押さえ込もうとしたのかどうか、腰が座っていなかったという嫌いもある。商人なくしては武家社会も保てないことは明らかな時代であったからだ。明治以降の日本では、天皇制のもとに容赦無く消された表現者はいくらでも数えることができる。

北斎を持ち上げる理由に、西欧、主にフランスでの浮世絵などジャポニズム人気の嚆矢とする解説がある。確かにそういった部分もあるかもしれないが、北斎の生きた時代、フランスはヤワな貴族趣味のロココを脱し、新古典主義、ロマン主義と質実に立ち返った時代である。また、その後の印象派は反アカデミー趣味を重んじた。ゴッホが浮世絵を好み、エミール・ガレが浪の流線型にヒントを得たとしても、それは歴史的必然性の範疇とは言えはしまいか。

坂本龍一は「音楽で勇気を与える、なんて、音楽家としては一切思わない」旨述べる。絵で世界を変えることはあり得ない。後付けで言いつのることはあったとしても。

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