kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

美術の価値は誰のためか? 「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」

2021-12-11 | 映画

美術品の価格というのは一体どのようにして、どういう理由で決まるものなのだろうか。バブルの時代、安田火災(現・損保ジャパン)がゴッホの「ひまわり」を当時のレートで史上最高額の53億円で競り落とした時は、日本の金満ぶりとともに、美術品はある意味天井なしの価格をつけていいのだと知らしめる機会になったことだろう。その53億円がかすむ価格がついたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる「サルバトール・ムンディ(世界の救世主)」、510億円である。そのカラクリが本作によって明かされる。

ニューヨークの美術商が無名の競売会社のカタログから見つけたレオナルドの「失われた絵」を見つけ、買い取った額は1175ドル(約13万円)。それがロシアの富豪などを経るうちにサウジアラビアの王子が入手した時には件の価格にまで跳ね上がっていたのだ。しかし、その間「真作」としてロンドン・ナショナル・ギャラリーでの展示。ルーヴル美術館でのダ・ヴィンチ展では、サウジが「モナ・リザ」の隣に「真作」として展示するよう要求したが、ルーブルの鑑定では「科学的な知見ではダ・ヴィンチは“貢献した”だけ」との見解で、結局展示しなかった。ならば、サウジとフランスの関係が悪くなったかといえばそうではなく、文化大国としての偉業を将来見せつけたいサウジに、フランスが大きく援助することで関係は保たれた。世界的に脱炭素の高い目標が掲げられる2030年に産油大国のサウジが巨大プロジェクトを完遂させるために、フランスに貸を作りたかったからとも憶測されている。では、結局ルーブルに貸し出されなかった絵はどこに行ってしまったのか。UAEに建設されたルーヴル・アブダビに常設展示されるとの報道もあったが、結局されずに再び所在不明となっている。そこまでの経緯がスリリングで、美術商や蒐集家のみならず、国家の思惑まで描きこんだドキュメンタリーが秀逸だ。

そもそも美術品の値段はあってないようなものだ。美術市場が富裕層の地位の誇示やマネーロンダリングなどの場となり、そういった実態が作家の思惑からかけ離れていく様をアンチテーゼとして示したかったバンクシーの作品が、オークション会場で落札と同時に切り刻まれたことにより、その価額より何倍も跳ね上がったのは皮肉な出来事だった。街に落書きし(グラフィティ)、金銭的評価とは無縁、むしろそういった美術作品が扱われる現状を否定していたバンクシーもその価値観からは逃れられないということであろうか。もっとも、これこそがバンクシーの戦略という見方もあり、「サルバトール・ムンディ」をめぐる狂騒とは違ったところで、どの美術作品も市場と無関係なところでは存在し得ない。

値段があってないようなのが美術作品と書いたが、「モナ・リザ」や他にもそもそも値段がつけられない美術作品というのは多数ある。ミケランジェロやベルニーニの彫刻、ファン・アイクの宗教画など、現在となっては流通することがあり得ない作品群だ。そういう意味では流通こそが価値を左右するが、それはあくまで現在の貨幣としての価値である。だから流通を盛んにすることによってその価値をどんどん上げていくことは、その「名作」を見たい者にとっては見られるかどうか分からないという意味で迷惑であり、作品にとっても不幸なことではないのか。

「モナ・リザ」(現在の表記は「ル・ジョコンダ」)も随分昔に日本に来たことがあったが、ルーヴルはもう外部に貸し出しはしないという。「真作」「実作」を見たければ、その場所まで行くこと。その出逢える過程までもが美術鑑賞の楽しみの一つで、「サルバトール・ムンディ」が所在不明で見られないままであるのは、やはり悲しいことだ。

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ジェンダー規範の問題点は? 「三岸好太郎・節子展」

2021-12-01 | 美術

若くして亡くなった三岸好太郎は天才と呼ばれ、妻の三岸節子より圧倒的に知名度が高い。しかし、好太郎がわずか10数年稼働したのに比べて、94歳で逝去した節子の画業はとてつもなく長い。しかし、好太郎が戦前のシュルレアリスム絵画の一端をになったとの評価も含めて、好太郎の画業の変転に光を当たられることが多く、節子は「好太郎の妻にして画家」と紹介されることが多かったのではないか。しかし節子は「好太郎の妻にして画家」には収まらないし、少なくとも本展ではそうではない。しかし、ではなぜ「三岸好太郎・節子展」であるのか。

展覧会は少なくとも好太郎の画業に比して、節子のそれを軽んじているようにも見えないし、そして好太郎死後の節子の画業にもスポットを当てているのでバランスを取っているようにも見える。そうであるなら展覧会名の夫と、妻が付属物との表記がますます安易であったとしか思えない。「三岸好太郎・三岸節子展」であるならまだしも、画業の長さと没年齢を考えるならむしろ、「三岸節子・三岸好太郎展」ではなかったのかと。

しかし、好太郎が「天才」と呼ばれたほど時代の先端を切り取るほどの作品を発表したのは事実であるし、節子は戦前、それほどの業績を残していないのも確かである。では、節子の画業を好太郎のそれと比較して、正当に評価することは可能なのであろうか。

好太郎の画業は短かったが、大正期新興美術運動と並走し、西洋由来のさまざまな表現主義の息吹を捉え、取り入れ、作品に昇華した。有名な好太郎の「蝶と貝」をモチーフにしたシュルレアリスム作品は晩年の短い時期であって、それまでの変転こそが好太郎の真骨頂であることに見開かさせられることだろう。それほどまでに1920年代、西欧の「前衛」美術を取り入れようと格闘した三岸好太郎らの世代は、フォービズムもキュビスムも、挑戦できるものであればなんでも取り入れようとしたのである。日本で最も早い段階で抽象画に挑戦し、フォービズムもキュビスムをも体現したとされる萬鐵五郎は、その後南画に傾倒しているし、20年代にシュルレアリスムなど前衛的な作品を発表した画家たちは、戦時の国家体制という時代状況もあり、そのスタイルを変えていった。そういう意味では、美術の世界にまで国家主義が完徹する時代の前に亡くなった好太郎は、むしろ幸せであったのかもしれない。しかし、その後衛には同じ画家でありながら家事、育児に追われ、画家としての業績を重ねることもできずに奔放な好太郎の尻拭いに追われた節子の存在があった。同展では触れられていなかったが、同展の表題「貝殻旅行」、好太郎と節子が好太郎の死の直前、珍しく「睦まじく」旅行した際に、好太郎だけ名古屋に留まり、節子だけ先に東京に帰したのは、好太郎が名古屋の愛人の元に寄るためであった。その事実こそが、好太郎と節子の関係性を物語るし、好太郎がその愛人の元で客死したことを知るにつけ、節子の感情はいかばかりであったろうか、と考えずにいられない。

画家同士、夫婦である例は珍しくもないし、まさに「同志」であったからこそ紡がれた豊かな関係性もあるだろう。体調不全に悩まされた具体美術協会にも籍を置いた田中敦子は、同士で夫の金山明の支えがあったが、おそらく、金山より田中の画業の方が有名である。美術の中身の話ではなく、ジェンダーの話になってしまったが、美術の世界のジェンダー規範は、問うても問いきれていない問題でもあると思う。(「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」は神戸市立小磯記念美術館 2022年2月13日まで)

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