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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

日常から跳躍してみよう、横浜トリエンナーレ

2005-10-24 | 美術
2回目となる本トリエンナーレのコンセプトは「アートサーカス(日常からの跳躍)」。総合ディレクターの川俣正は「ポリティカルでシステム論的な動向の改変を大前提に展覧会を組み立てて行くことをあえて拒否し、アートそのもののもつ根源的な喚起力を、どうすれば見る側、参加する側(観客)に受け止めてもらうことができるか、この設定にこだわりたい」と述べる。そう、今回のトリエンナーレでは観客は見ているだけでは済まされない、参加が前提なのだ。
アートの可能性は無限である(多分)。「美術」の時代は、観客は見るだけ、制作者の技量、技巧の巧緻に感嘆しておればよかった。が、「アート」になり、観客は観客で済まされなくなった。川俣は本展の切り口として「モノローグからダイアローグへ」、「参加する(パーティシペーション)」「人とかかわる(コラボレティド・ワーク)」「場にかかわる(サイトスペシフィック・ワーク)」「運動体としての展覧会(ワーク・イン・プログレス)」をあげる。なるほど、実物大?のサッカーゲームはゲームとは言え、ほとんど本当のスポーツばりだ(「参加する」たとえばKOSUGE 1-16+アトリエ・ワン+ヨココム)。他にも、ブランコを漕げば発光したり、自分でぬいぐるみを裁縫したり。「かかわる」という本展の狙いはほぼ達成されたのではないか。しかし、アートは若い人、活動的な人、「健常者」ばかりがかかわるのではない。「見(てい)る安心」というものもありはしないだろうか。
「安心」ではないが、惹かれた作品の一つに南アフリカ出身のロビン・ロードの映像作品がある。裸の男がシャワーをひねると浴びるのは黒い水。見る見るうちに黒く染まる白い裸体は、シャワーは汚れを落とすものという固定観念を砕き、アパルトヘイトの国で黒人が味わった歴史への逆説的表現、そしてシャワーを浴びることによって生が危機に晒されるというのは、まぎれもなくアウシュビッツを表している。
他にも、社会問題提起としての現代アートの役割はいくつも果たしている。カンプチアはポル・ポト派の時代の衣類考察、様々なビデオインスタレーションなど。しかし、多くは参加型の展示は、今まで「美術」は触れてはいけない、声を出してはいけない、ましてやそのものの原型を変えてはいけない、といった堅苦しさからの解放としての日常から「跳躍」させてもらえるところにとどまる。いや、「跳躍」した後に残らないことを目指しているのではないだろう。
ああ、面白かった、では済まされない何かを個々の作品は追求してるように見えるのだ、それぞれの作者の意図はさておき。そう、これはサーカスなのだ。サーカスは余韻を残すが、いつまでも残るものではない、けれど、忘れてしまうものではない。
日常からの跳躍とは結局、非日常のことだ。しかし、非日常も想像力の幅を拡げれば日常になりうる。気づかなかった、思いもよらなかった問題提起。アートにおけるグローバリズムとは、踏み越える勇気と踏み越えた先への理解、そして踏み越えた後の承認を同時に欲する欲張りな思想なのかもしれない。
その場限りで楽しかった、なんて川俣は多分発想しない。なにせ、彼のワークは廃材を使った自然環境との共生などおよそ刹那とは対局にある仕事をこなしてきたのだから。インスタレーションであっても参加することによって身体のどこかに刻まれる記憶。問題提起のありかたはいろいろあるなと考えさせられた。

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糸は針から抜くより通す方が難しい  ヴェラ・ドレイク

2005-10-10 | 映画
マイク・リーの描く家族はいつも労働者階級、幸せそうに見える場合もそうでない場合も何か問題、あるいは秘密を抱えている。「秘密と嘘」で血縁と絆、それにすがることも拒否することも痛みが伴うからこそ、自分の関係した他者そして自分に優しくなれることを希望として描いた。そのリーの最新作は平凡だが優しく、愛想を忘れない主婦ヴェラの犯罪と、それが明らかになることによってバラバラになりそうな家族に結束はあり得るのかという深い問いを含んだ物語。
ヴェラがしたことは闇中絶。カソリックのそれほど強くないイギリスとは言え、1950年では母体に悪影響が認められる場合だけ中絶は合法で、しかも手術費用は庶民の払える額ではなかった。ヴェラは困った女性たちを「助けるため」無償で何十年も体内に石鹸水と薬品を注入するという原始的な方法で施術していたが、若い娘の容態が急変、母親がヴェラの名を出したため捕われることとなった。興味深いのは当時の刑事裁判制度。陪審制度の国だが、罪状を認めている場合は裁判官だけの裁判となり、検察官制度も不備だったため捜査、逮捕、取り調べをした警察が起訴。適正手続き、公判における対等な当事者主義という観点からは非常に問題のあるところであるが、取り調べはいたって丁寧、かつ女性警察官も同席して終始ヴェラを労っていた。黙秘権の告知、弁護人選任権、告知聴聞の機会の保証など近代刑事法の常識から当然と言えば当然の手続きだが、同じ時代に日本で自白偏重のためいくつもの冤罪事件を引き起こしたことを考えると新鮮であった。もちろん、イギリスでも堕胎事件ではなく殺人事件、そして被疑者が一定の偏見を持たれる(捜査官が持つ)グループの人間であった場合はどうであったかわからないが。
マイク・リーは家族は再生する、捨てたものではないと楽観主義のようにも思える。と言うのは、前作「人生は、時々晴れ」(2001年)でもばらばらになりかけた家族も結局は小市民としての幸せな結合を確認するし、「秘密と嘘」も「赦す」ことに主眼を置いているように見えるからだ。もちろんリーが血縁にこだわったり、夢想主義的なハッピーエンドにこだわっているからでもないだろう。そこにあるのは「身の程」ということと、それを知った上での幸せの探し方、そして「信じる」とか「赦す」といった簡単だけれども難しい、しかし性差、階級、階層に関係なく示すことのできる本来人間に備わっている(とリーは思っている)資質を再確認するということだろう。
労働者階級の日常の「キツさ」を描かせたら随一のケン・ローチから見れば、リーの描く結末は甘ちゃんで以外の何ものでもない。しかし、ローチ流のアンチ・クライマックス(=誰も幸せにならないし、何も解決していない)ばかりではリアリズムとは言え、やはりキツイ。
ローチは最近、アメリカの成功した労働運動(ブレッド & ローズ)や移民社会の困難の超克(やさしくキスをして)を描き、なんとなく昔のキツサから遠のいているように見える。しかしリーは相変わらず、労働者階級の成功しない日常を丹念に描いているのは、英国フィルムのリアリズム健在でうれしい。
大切そして大事なことは、家族であれ何であれ絆を失うことではない、切れかかった絆を切れないように努力することなのだ。そして、それは絆を作り上げてきた努力より、痛みと困難が伴う。リーのヒューマニズムはそこに答えを待っている。
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触れる造形、手探りの魅力 杉浦隆夫展

2005-10-02 | 美術
9月の連休の日曜日だったかに企画展の「シルクロード展」に行った際に寄ったら、体験には1時間以上待ちとのことで断念。土曜日の朝一番に行ったら自分以外誰もいなくておかげで「みんな手探り」を満喫できた。
杉浦隆夫は「体験型の作品でユニークな活動を続ける愛知県豊橋市在住の美術家」だ。1995年に初めて発泡スチロールの粒を使い、それに鑑賞者自身が埋まるという作品を制作。10年ぶりの今回の作品は、美術館の一室をまるまる発泡スチロールで埋め尽くし、中に兵庫県立美術館所蔵のブロンズの彫刻5点を並べ、観客は発泡スチロールに埋まりながら、かつ普段触れることのできない美術作品を直接触れるというもの。
体ごと発泡スチロールに埋まるというのも愉快なら、上部が少し出ただけの彫刻を手を潜らせて触ってみるのも面白い。そう、本作には二つの魅力がある。人間は発泡スチロールを使い、普段梱包する側に回るが、ここでは人間が梱包(というのかどうか)される側に回り、外からの衝撃を和らいでもらう立場になるという逆転の発想。そして触れてこそその醍醐味がわかるのに普段触れることのできない彫刻に触れるということ。発泡スチロールは断熱材になるくらいだからさしずめ「スチロール温泉」はほんわりと暑く、一方ブロンズのひんやり感が心地よい。そして、今回のブロンズ作品は制作者の手、みたいなものが感じられるもので、その意味でも遠くから見てるだけの作品ではなくて実際触れて初めてわかる、実感できる彫刻のカタチに納得できるのだ。
屋外彫刻ではもちろん触ることはできるが、館内展示の作品はまず触ることができない。メインテナンスなどの点をクリアできれば、美術館も作品に触れられるようにしてほしいと思う。そして、「発泡スチロール温泉」も年中あれば。
軽い発泡スチロールといっても、抵抗はある。プールほどではないが、動くには少し体力もいるのでできるだけ身軽な出で立ちがオススメ。(11月3日まで)
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