kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

女性を通して見えてくる、世界の現実  『女性の世界地図』

2021-02-27 | 書籍

「生涯で一度でも親密なパートナーから身体的な暴力を受けたことのある女性」の率、26%。「平均して女性は3日に1度親しいパートナーか以前のパートナーに殺されている」、「女性10万人あたりの乳がん発症者数」265、「1日あたり無償の家事・育児労働に費やす平均時間、男性を1とした時の女性3.6」。どこの国のことだろうか。ジェンダー・ギャップ指数(世界経済フォーラムによるレポート。政治・経済・教育・健康の4つの分野をスコア化し、そこから算出された総合スコア)121位。もうお分かりだろう、日本のことであある。もちろんパートナーに殺される、については介護殺人も入るだろう。しかし、『女性の世界地図』は語る。「女性の世界では、「先進」国はほとんど存在しない。」日本もまた「先進」国ではないのである。

世界を見渡せば、トイレや生理用品が整備されておらず、経血の処理にも困る女性、中絶が命がけで時に命を落とす女性、FGM(女性器切除)にさらされる女性、女子が教育を受けることを否定、侵害される地域、など日本では通常考えられない実態もたくさんある。それらに比べれば恵まれて、ましなのだろうか? しかし、東京医科大学の女性に不利な入学評価、非正規雇用の率と賃金格差、育休取得、ストーカーを含む性被害などなど、イクォリティには程遠い。その象徴の一つが、婚姻後の姓を男性のそれを選択する率97%と、その前提の夫婦同氏強制の民法の存在ではないか。

2020年、長らく改正されてこなかった民法が大改正され施行された。しかし、この改正は債権法に限られ、親族・家族法の部分は手付かずだった。福島瑞穂社民党党首がまだ議員になる前、弁護士だった30年以上前に「夫婦別姓はあと5年で」とかおっしゃっていたが、もう30有余年。先ごろ出された男女共同参画基本計画では「夫婦別姓」「検討」も削除された。枝野幸男立憲民主党党首は政権をとったら夫婦別姓に真っ先に取り組むと言う。

男女共同参画基本計画が与党内で議論されていた時に、夫婦別姓に強硬に反対した議員たちの意見・理由は「家族の絆が壊れる」「子どもがかわいそう」という論証のまったくない、もう次世代を作らないであろう旧世代の一部の受けを狙った(要するに票田)感情論だけだった。要するに思考の前近代性を顕にしたことである。もちろん「近代」が全て正しいわけではない。それは資本主義や、それを持続・膨張させる工業的「発展」と無縁ではない。そこに必然の「搾取」のターゲットは女性だろう。しかし、少なくとも女性の身体的安心や政治的地位の確保にはある程度近代化の必要性も不可欠だ。さらにそういった近代化には、フランスのライシテ(政治から宗教を排した世俗主義)に見られるように、信仰も含むアイデンティティと政治・社会的要請との衝突も当然ありうる。

自分のことを自分で決められること。これは近代的自我の価値であることは疑いない。ところがそうではない実態は多く、そのハンディは圧倒的に女性が引き受けている。いや、課せられている。『女性の世界地図』は、アトラスという形であるからこそ、全地球上に置かれた女性の位置と、反対の性である男性とのその格差を「総合的」「俯瞰的」に明らかにする。ならば二分したセクシャリティから漏れる人の地位はもっと危うい。想像力を駆使して向き合う世界がここにある。(『女性の世界地図 女たちの経験・現在地・これから』は、ジョニー・シーガー著 2020年10月刊 明石書店)

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近代化の波とともにフェミニズムも行き渡る  羊飼いと風船

2021-02-25 | 映画

「女三界に家なし」はもう言わなくなったけれど、実態はまだ残っているのではないか。つい最近も森喜朗東京五輪組織委員会会長が「女性がたくさんいると理事会(の会議)が長くなる」「女性は競争意識が強く、発言しなくてはと思う」旨、のたまってその女性差別意識、あまりにも古い価値観が露呈したばかりだ。では、一人っ子政策の下にありながら、「転生」を大事な価値観とし、中絶を許さない環境である、女性の選択権を奪われたチベットではどうであろうか。

牧羊に従事し、羊の扱いに慣れた父タルギェは雌羊に種付けするため、強い雄羊を借りてくる。猛々しい雄羊の姿を見て、妻であり、3人の男の子の母であるドルカルは「あんたみたい」。だから二人の性生活には無償で配布されるコンドームが必須なのに下の子らが膨らませて風船として遊んでしまうのだ。寄宿舎に入っている長男を迎えに行って、ドルカルの妹で尼僧のシャンチュが帰ってくる。シャンチュは恋に破れて尼僧になったようだ。一つしかなかったコンドームをまた子どもが遊んで使ってしまい、ドルカルは4人目を妊娠してしまう。ちょうど祖父が突然亡くなり、その「転生」を高僧より告げられたタルギェはドルカルの妊娠に「産んでくれ」。少数民族ゆえ3人までは許される子どもも4人目には罰金が課せられる。それに妻、母、羊の世話と、働きづめのドルカルはもういっぱいいっぱいなのだ。

映画ジャーナリストの久保玲子は「羊飼いの暮らしの中にもフェミニズムの波が押し寄せ、女性が目覚め始めていることを鮮やかに描き出して見せた」と評する。

ドルカルを窮地に追い込む3界。1つは、少子化政策という国家が産児制限するという問題、家父長的価値観の下、家事は全て女性がするものと考え、また避妊に非協力な夫、そして「転生」の思想のもとに自分を一番理解してくれていると考えていた妹にまで中絶を反対される宗教的因習。どれもがフェミニズムが問題にしてきた克服すべき課題であるが、それは社会的に解決を目指す課題であるとともに個人の生き方がどうか、という極めて個人的な課題でもある。「個人的なことは政治的なことである」は、フェミニズムの目指す道とその必要性を象徴するスローガンだが、この映画では、その3界がドルカルを追い詰めていく様を羊が群れなす高原という一見牧歌的に見える風景の中で緩やかに静かに描く。しかし、羊を運ぶのは馬ではなくバイクで、テレビや携帯電話、住居もテントではなく建物である。近代化の波は確実にチベットの地にも及んでいる。だからフェミニズムという言葉を知らなくても、ドルカルの心にも確実に選択権や自己決定といった個の尊厳を担保する自立心が芽生えているのだ。

チベットといえば、中央政府によるその民族圧迫、人権蹂躙状況がある。欧米側の人権感覚から中国を非難しているが、中国は内政の問題として頑としてその批判を受け付けない。アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体が、少数民族の故なき収容・思想改造を発表していることからも、その人権抑圧状況は事実であろう。ペマ・ツェテン監督も小説を書き上げた当時は検閲を通らなかったという。それで、映画化にあたっては登場する人たちそれぞれの思いを赤い風船に託した叙情的、シュルレアリスム的とも言える風景に落とし込んだそうだ。

DVまでする夫を見限り、とりあえずシャンチュの僧院に身を寄せることにしたドルカルはこの後、どのような選択をするのだろうか観客の想像に委ねられている。このエンドも曖昧な脚本でしか、映画化が通らなかったのかもしれない。中国の映画人の苦労と工夫がしのばれる。

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