kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

現題はM.R.I (核磁気共鳴画像法)  「ヨーロッパ新世紀」は欧州の脳内画像を描く

2023-10-27 | 映画

藤原帰一は著名な政治学者である上に映画評論家としても名を馳せている。藤原の国際政治に関する論壇時評は正確なことを述べているとは思うが、どこか隔靴掻痒の感じを受けた。それは私の読解不足もあるだろうが、世界を席巻する反民主主義的な動きに対する客観視、双方に対する同等の理解、抑制的な書きぶりにあったと思う。それが、この「ヨーロッパ新世紀」映画評はどうだ(社会と自分に潜む差別と暴力 人ごとではない「ヨーロッパ新世紀」:藤原帰一のいつでもシネマ(ひとシネマ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/02f048b95ed205c95c69b3323977952be01b42ca)重ねて評する意味も失うほど正鵠を得ていて言葉もない。

だが、私なりに言葉を継ぐ。主人公は思い入れることのできないキャラクターである。マティアスは出稼ぎ先のドイツの工場で「怠惰なロマめ」と言われ、キレて暴力を振るった挙句、ルーマニアに逃げ帰る。突然帰ってきた夫に妻は冷たい。森で怖い思いをした息子ルディは言葉を発せなくなっているが、男ならこうあるべきとマッチョな対応しかできない。そして認知症が進んでいる父親の介護もままならない。村では、マティアスのかつての恋人シーラが現場責任者を務めるパン工場でスリランカ人を雇うことに。そもそも、マティアスが出稼ぎに行ったように村の人手不足をより貧しい国からの労働者でまかなっていたのだ。

村の人種構成は多様だ。ルーマニア語を話す者が多数だが、オーストリア・ハンガリー帝国下であった時期もあり、ハンガリー語を話す者、そしてドイツ語を話す者。さらに元々漂流民であったロマを祖先に持つ者もいる。様々な言語が飛び交う中でルーマニア語とハンガリー語を話す者の微妙な関係を含め、ロマには差別感情がある。だから、マティアスは「ロマ呼ばわり」されて怒ったのだ。そして、ルーマニア語系は東方正教、ドイツ語系はプロテスタント、元々あるカトリックと宗教的にも複雑に混交している。だが、人の移動が容易ではなかった共産主義の時代、ある意味上からの圧政の強さゆえ、これらの違いは表面化していなかったのだろう。それが、ソ連崩壊、ルーマニアもチャウシェスク独裁政権の崩壊で「自由化」した。人の移動も自由になった。

この作品には、ヨーロッパにおける現在の問題が集約されている。圧政からの人々の繋がる生きる知恵としての「共存」が、自由を得て、互いの違いをヒューチャーし出した。人種、民族、言語、宗教、習慣、生活文化そしてヨーロッパを超えた人間との摩擦。そしてグローバリズムという名の新自由主義。シーラのパン工場でスリランカ人を雇ったのは、現地のルーマニア人からの募集がないから。村では最低賃金で働く人間などいないのだ。しかし、肌の色の違う人間は許容できないと、住民は差別感情を露わにする。「イスラム教徒の作ったパンなど食べられない」。シーラはEUの基準に則った雇用条件で合法に雇っていたが、EUの価値観自体が許せない。「自分だけ儲けているフランスが勝手に決めた」。スリランカ人宿舎に火炎瓶が投げ込まれるにおよび、シーラは彼らを解雇せざるを得なくなる。真面目な働き手であったのに。

作品中最も白熱したシーン。村をあげての住民集会。排外言説が声高に叫ばれ、グローバルスタンダードに近しいシーラらは劣勢で、そのシーラを精神的に擁護するでもなく、手を握ってくれと何の役にも立たないマティアス。そんな中、マティアスの父の自死が伝えられる。絶望は、とうの昔に発生していたのに、マティアスはじめ村人の誰もが気づかないふりをしていたのだ。

声の出なかったルディが叫ぶ。でも、その叫びで村が救われるわけでもない。ただ、一人ひとり叫ぶことが大切なのだ。差別や争いは嫌だと。

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世界最大人口国の歪みを撃つ女性たち  「燃え上がる女性記者たち」

2023-10-21 | 映画

記者クラブに入れない報道関係者は排除され、政権をヨイショ発言する記者も混じる。首相をはじめ、政府側の会見ではひたすらパソコンに向かい、二の矢、三の矢も継がない迫力のない質問。よく見られる日本のメディア状況だ。それと同列には論じられないことはもちろん分かる。しかし、記者自身がインド社会でカーストの最下層のダリトで女性ばかりの「カバル・ラハリヤ(ニュースの波)」記者たちの奮闘ぶりはどうだ。

冒頭、ダリト女性への度重なるレイプ事件を記者のリーダー格であるミーラが取材するシーン。警察に訴えても相手にしてもらえないと泣き寝入りする被害者と家族。ミーラ自身、妻が働くことに必ずしも理解があるわけではない夫がいる。子どもの世話をはじめ、家事に追われ、暗い狭い路地を通うミーラに危険がないわけではない。違法鉱山で児童労働者として働いて育ったスニータ。違法鉱山はマフィアが牛耳っている。その実態を果敢に取材、地元政治家の腐敗も明らかにしていく。彼女らの取材で活躍する強力なアイテムがスマホである。

英語もできない、今まで周囲になかったデジタル機器は不安という記者らの懸念をよそに「私が教えるから大丈夫」と熱心に教えるミーラ。そして、記者らが取材先で動画を撮り、すぐに編集、動画サイトで配信。瞬く間にフォロアーは100万超えに。関心を寄せる層が全国に広がれば、対応を余儀なくされる地域もある。報道から15日で電気が通った、渋々ながら動く警察当局など。

突撃取材とも思える手法とともに、警察内部での取材や地方の行政幹部の執務室での取材などが許されている現状も驚きだ。そして軽くあしらわれても諦めないしつこい取材も。ダリト、女性と蔑まされてきた者たちが、自己の生存意義と社会改革のために小さな力を集合させて前進するエネルギーが美しい。

しかし、「世界最大の民主主義国」と自称するインドは、今や中国を凌ぐ世界一の人口国となり、英語の語学力を背景にITの世界で急成長を遂げている。先ほど開催されたG20では、グローバルサウスの盟主と振る舞い、G7先進国を出し抜いた声明を発表するほどの「イケイケ」である。そしてその歪み、裏面も大きくドス黒い。

「民主主義国」と言いながら、実態はモディ政権の人民党一党独裁である。14億もの人口を抱え、隣国パキスタンや中国との軍事衝突もある。カーストをはじめ深刻な格差と、化学工場事故に代表されるような公害、ダム工事などに伴う強制移住もあるが、これら差別や環境破壊について、国民を徹底的に弾圧している現実がある。モディ政権の手法は「服従の政治」と言われるが、その実態は何の根回し、国民への説明もなく大々的に打ち上げた政策について有無を言わせず断行し、既成事実を積み上げていく恐怖政治である。映画ではモディが主導するヒンズー至上主義の危うい熱狂も描かれる。

ジャーナリズムが第4の権力としてその存在意義をあらしめるのは、この「服従の政治」を地方の一つひとつの事件、事態を丹念に暴くことにより、頂点たる政権の腐敗を撃つことだ。そしてその根底にはカーストと女性への差別を温存するインドという国そのものが内包する反民主主義の様相を少しずつ崩していこうとするメディアが本来持つべき信念がある。国民への説明もなく大々的に打ち上げて既成事実化していく手法は、自公の安倍政権や大阪での維新政治を彷彿させる。日本にもミーラらが活躍する「カバル・ラハリヤ」が必要だ。

女たちは気づいている……

“専門家”に任せてはおけないことに (『誇りと抵抗』アルンダティ・ロイ)

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分断、虐げられた女性のモノローグが秀逸 フェミニズムが推す『侍女の物語』

2023-10-03 | 書籍

『侍女の物語』は、NHK「100分deフェミニズム」で鴻巣友季子さんが取り上げて、この度たちまち有名になるまで知らなかったのが恥ずかしい。オーウェルの『1984年』を想起せるディストピア小説の王道と言えるだろう。時は環境破壊や原発の影響などで、少子化が極端に進んだ近未来のアメリカ。キリスト教原理主義に基づくギレアデ共和国では、女性は4つの階級に分けられている。支配層の「司令官」との生殖行為だけのための「侍女」オブフレッド(司令官フレッド「の」という所有を表す「オブ」がつく名前)の語りで描かれる。「侍女」になるのは過去に中絶や不倫など「許されない」行為をなした女性たちだ。だが、「司令官」に派遣されても3回以内に妊娠しなければ「アンウーマン(不完全女)」となり、コロニーに送られる。コロニーでは長く生きられない。

なぜ、これがフェミニズムが推す作品であるのか。原作が発表された1980年代半ばはフェミニズムに対するバックラッシュが吹き荒れていた時代。そしてギレアデ共和国は、前政権を議会襲撃による大統領暗殺により権力を奪取した。恐ろしいほどのデジャブである。女性から権利を奪い、分断・支配するのは権力にとってコントロールしやすいから。オブフレッドが表す階級の上方である小母や妻、司令官をはじめとする周囲の男たち(不妊の原因がフレッドにあると見抜いた妻は、オブフレッドに運転手のルークと性交するよう強要する)、そして侍女仲間たち。その記述は正確で微細で人物像がよく立ち現れている。そうオブフレッドは賢明なのだ。しかし権利も財産もない。産む女か産まない女かだけだ。女性の意思、能力、状況を無視して分断する政治は、中絶が許される州とそうでない州に分けられたアメリカで現実化している。

鴻巣さんは、4つの階級のうち最下層の侍女を現在の日本では、新自由主義の進展、資本の論理であちらこちらに飛ばされる非正規雇用になぞらえる。そしてアンウーマンはコロナ禍で激増した女性の自殺や、暴発して殺傷事件を起こす人たちだろうか。

安倍晋三政権が集団的自衛権行使のために憲法解釈を捻じ曲げた際、憲法学者らを中心に政権の恣意的な言い換えを指摘していた。その際、『1984年』のニュースピークが引用された。ロシアによるウクライナ侵攻でプーチン政権は戦争と言わず、「特別軍事作戦」と言っている。『1984年』では戦争を「希望」と言い換えていた。

それにしても、虐げられた女性の、それも性的に搾取されている状態が日常 のモノローグによる描写はなんと説得力があり、冷静で、であるからこそ現実の恐怖を想起させることか。『侍女の物語』は21世紀の現在を描いているのだ。時代背景は過去、それも日本が大陸に侵略していた時代と違うが、気鋭の若手作家青波杏の『楊花(ヤンファ)の歌』も、モノローグの快作として推薦する。

(『侍女の物語』マーガレット・アトウッド作 斎藤英治訳 ハヤカワepi文庫、『楊花(ヤンファ)の歌』は2023年 集英社)

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