kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

疑い、わかったふりをしないために 『社会と自分のあいだの難問』

2022-02-28 | 書籍

2021年9月に53歳で早逝した法哲学者那須耕介さんの遺稿ともなった対談を収めた本書は、混沌、複雑化とのありきたりな言葉で現代を表象、説明して終わりとしたがる風潮に鋭く切り込み、そして大きな示唆に富んでいる。

キーワードは「自由のしんどさ」「移行期正義」「遵法責務」。

「自由のしんどさ」は比較的分かりやすい、というか日々感じている。自由の範囲が拡大し、個人の選択を個人の責任でと言われると、何でもかんでも自分では決められない、もう国で決めてくれ、というのはあるだろう。そして、個々人の自由は必ず衝突する。だから民主主義が機能して話し合ったり、落とし所を見つけるというプロセスにつながる。また、自由同士の衝突でいえば、表現の自由がその典型的な場面だ。あいちトリエンナーレから続く「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の戦争責任追及や政権批判と歴史修正主義的価値観との対峙や、ヘイトスピーチ抑制のための「表現の自由」と「差別」との切り分けが想起されるだろう。歴史的に表現の自由の擁護者が、その枠外を規定していくことでその擁護を強固にしてきたという事実は興味深い。「「表現の自由」を制限する方向に働きかける動きは、僕たちの中にも絶えず働いている。そこをわかっていないと、「表現の自由」に大事さは、むしろ見失われてしまう。つまり、それがなぜ大事かという理屈自体が、もともとそんな盤石なものじゃないということ、それをちゃんとわかることの方が必要」(40頁)。

「民主化への過渡期のある社会において、先行する戦争・内戦・圧政期に行われた大規模・集団的悪行(人権抑圧・虐殺等)に対する適切な処理、もしくは処理の方針」これが「移行期正義」の定義である。つまり、人権抑圧や虐殺の張本人を裁判にかけるにしても遡及法で処罰してはならないけれど、そうすると全く責任追及しないという方法も取れないので、何らかの手立てが必要であるということ。同時に、結局そういった戦後処理に正義を貫徹する際の「正義」とはその社会の中で権力をにぎった人間が定義するものだということもある。これは、クーデターや民主的選挙であっても政権転覆後のどのような政権が誕生したかによって、先の権力者への対応が違うということを見るとわかりやすいのではないか。そして「負けた人間は、強い人間に従え」(86頁)ということ。しかし、そうはいっても近代社会、特に西洋思想が反映している中で、「そうはいっても」という対応がされる。黒の次は白ではないのである。「そうはいっても」の落とし所にまさに民主主義の深度や成熟度、あるいは不完全性や混沌にかかっているというのは言うまでもないだろう。

筆者が支援している「君が代」不起立で処分された教員らによく浴びせられる言葉が「ルールに従え」というものだ。思想信条は措いておいて面従腹背せよとも取れる。そしてそもそもルールが間違っていても従わないといけないものか。「遵法責務」のアポリアによく引用されるのが、戦後間もない頃、闇米を取らずに餓死した裁判官の話。本書でも繰り返し言及される。その裁判官は闇米で食糧管理法違反で法廷に引っ張り出された被告人らを次々有罪にしてきた、そんな自分は闇米を食べるわけにはいかないと。一方、公務員たる者職務を全うすることは当然で、私生活は別との安易な切り分けも可能だ。対談では「公民」と「市民」の違いも議論される。国は無くなっても社会は存在するので、法を守るべき「公民」の時と、それさえも前提ではない「市民」の立場はありうるとする。しかし、社会にはルソーの言う一般意志が既に貫徹しているのが通常なので、そこから外れる不服従は絶対に軋轢を生む。そう「自律と同調圧は裏表の関係」(241頁)なのだ。

法哲学という理屈をやっぱり理屈で説明づける学問は、哲学や論理学など、もちろん法学の識見が披瀝され、はっきり言って評しようとする筆者の手に負えるものではない。けれど、知識も学問もわかったふりをせず、同時に簡単にはわかった気にならない大切さを本書は教えてくれる。何よりも面白い。早逝した那須さんのお話が聞けず、もう執筆されない事実が何とも残念だ。(『社会と自分のあいだの難問』はSURE刊。3080円。一般書店では手に入りません。図書館に希望するか直接編集グループSUREにお問い合わせください。)

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「非民主的」な「宗教国家」イランから問われる死刑制度 「白い牛のバラッド」

2022-02-26 | 映画

袴田事件の袴田巌さんは、2014年に再審開始決定が出たにもかかわらず、未だその決定が確定せず再審公判が始まっていない。検察が抵抗し、開始決定を取り消した東京高裁の判断に対し、最高裁が高裁に差し戻したからこんなに時間がかかっている。袴田さんは1936年生まれの85歳。袴田さんに死刑を求める検察、確定判決をなした司法といった国家権力は袴田さんの死去を待ち、結論を先延ばしにしているとしか思えない。

死刑大国イランでは冤罪も当然あるだろう。それが露見した後の死刑囚家族、裁判官はその事実とどう向き合い、生きていくか。とても重いテーマであるのに全体を醸す静謐さにより、その重さは死刑執行後に冤罪が判明した夫を失ったミナ一人のものだけではないことが分かる。誤判をなし、執行までされてしまったことを知った判事レザは職を辞し、シングルマザーとなったミナを助けようと贖罪を試みる。真実を知っている観客は、次に起こるかもしれない悲劇に思いいたし、そのスリリングさに引き込まれる。

イランが死刑制度を保持、その執行にも躊躇がないのはイスラム法ゆえとの説明もなされる。しかし、EUに加入したいトルコは一旦死刑復活を企図したものの事実上止めている。トルコも同じイスラム圏だ。そしてイスラム教徒が多数を占めるカザフスタンも死刑を廃止している。だから死刑の存置イコールイスラム教ではない。現にIS(イスラム国)の野蛮さを説明する際には、その特異なイスラム教解釈ゆえと解説される。

要するに死刑存置の理由は時の権力の説明如何によって変わりうるということだ。だから死刑の情報や雪冤が進まない日本で、政府が「国民の80%が支持している」理由は、これら情報開示や冤罪の実態が広く知られれば、変わりうると言えるし、そもそも古くは消費税でも、集団的自衛権を認めた2017年の安保法制もおよそ「国民の80%」も支持していなかった。

イランにおける女性の地位は男性に比べて低い。宗教的規範をはじめ制約も多く、シングルマザーなら尚更だ。ミナの家に親族以外の男性が訪れただけで借家を追い出され、不動産屋には紹介さえしてもらえない。そこに手を差し伸べた男性が夫をくびきった張本人の判事と知らずに頼ってたとしてなぜ責められよう。そしていつしか、耳が聞こえない小さな娘もなつき、束の間の安寧が得られた小さな幸せを奪うことはできない。

ミナも苦しんだが、死刑判決をせざるを得なかったレザも苦しんだ。それは死刑制度があり、それが機械的に執行されているからだ。しかし、事実上の執行停止ではいつ停止自体が停止されるか分からない。50年近く収監され、死刑確定後は執行の恐怖に袴田さんは精神を病んだ。死刑は必要な命とそうでない命を国家が選別することだ。だからそれは障がい者施設で19名を殺した植松聖死刑囚の理屈と変わらないし、何回も起こっている「死刑になりたい」理由での殺人(未遂)の抑止力にもなっていない。

死刑事犯の弁護を多く引き受けた安田好弘さんは死刑廃止の理由を被害者遺族の癒しと加害者の更生を容易につなげて考えるべきでないとする。しかし、大事な家族を失った者にそう簡単に納得できる論理ではないだろう。だから、悩み続けなければならない。

映画は、ミナが判事に復讐を果たしたとも、そうはしなかったとも取れる映像で途切れる。日本よりがはるかに情報統制が厳しく、強権的国家に見えるイランからの提起は重い。

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メディアから「アンタッチャブル」をなくす試みを  「テレビで会えない芸人」

2022-02-01 | 映画

「生きているということは誰かに借りをつくること 生きていくということはその借りを返してゆくこと」(永六輔)

ずいぶん昔、私が執行委員をつとめていた労働組合のイベントに松元ヒロさんをお呼びした。現在では、あんな小さな組合のこじんまりした規模で、安いギャラでは呼べないのではないか。いや、ギャラもだが、ヒロさんの予定が合わないだろう。それくらいヒロさんの人気は不動のものとなっている。そこに至るヒロさんの軌跡、それは出会った人たち、テレビとの距離、ヒロさんの考え方全てが関わっている。

時事ネタを得意とするコメディアンはそんなに多くない。芸能人の失敗をあげつらい、笑いをとるナイツは例外ではないが、多くのコメディアンは世相を何らかのネタにしている。しかし政治ネタ、それも政権批判や原発、特定の法律、そして憲法だとどうだろう。全くいない。政権批判、原発、沖縄の基地などストレートに打ち出していたウーマンラッシュアワーは、村本大輔がもっと表現できる世界をとアメリカに行こうとしたが、コロナ禍で止まっている。しかしそもそも村本はテレビに呼ばれなくなっていたのだ。そして、ヒロさんがテレビに呼ばれないのは、重要ネタ「憲法くん」のせいだと思う。

「憲法くん」は、人格を持った「憲法くん」が、安倍政権で顕著であった壊憲状況、集団的自衛権、特定秘密保護法、共謀罪などがいかに憲法の理想、原理から離れているか、反憲法であるかを真っ向から批判、おちょくるものである。ヒロさんは言う。「現在の憲法は現状に合っていないと言うけれど、理想として成立した憲法に現状を合わせようと努力すべきではないか」。これだけ聞けば、護憲墨守のゴリゴリの旧左翼に見える。確かに、ヒロさんの特に地方公演などは、地元の護憲団体からの招請も少なくないようで、観客も年配層だ。しかし、憲法を大事にと言った時点で「左翼」となり、テレビが出演を求めないと言うのは世の中の軸が右側に寄ってしまっているからでないか。

テレビを代表とするマスメディアが批判的、問題提起的に取り上げないテーマの最たるものは天皇(制)だろう。明仁天皇は退位の意向を自ら、直接国民に伝えた。天皇は政治的権能を持たないのに、代替わり(改元)という国民の生活に大きく関わる事態を招いた行為として違憲の疑いがあるのではないかとの真っ当な議論もテレビでは紹介されない。また、そのような天皇自らの違憲的行為を許した内閣の責任も問われなかった。その日本で最もアンタッチャブルな世界をも取り上げるヒロさんをテレビは好まないだろう。

労働組合のイベントでは「夜回り先生」こと水谷修さんもお呼びしたことがある。水谷さんは、ちょうど人気のあった橋下徹氏を取り上げ、「テレビによく出る人間は何年か(首長や議員への)立候補を禁止したらいい」と話されていた。職業選択の自由などからこの提案も違憲だが、維新政治の規制緩和、公的部門縮小の政策により、市民病院、保健所の機能が低下して、コロナ死亡率が高かったのではないかとの指摘もある。テレビ出演の多い吉村洋文知事は圧倒的な支持を得ているが、水谷さんの言葉にうなずいてしまう。

ヒロさんが本番前に訪れる理髪店は、永六輔の御用店。お店に貼ってある色紙は、ヒロさんの人間観ともそのまま繋がる。そして、どんどん殺伐としていく現状に笑いが必要である。

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