kenroのミニコミ

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日本にも迫る惨事便乗型資本主義  恐るべき事実『ショック・ドクトリン』

2012-08-29 | 書籍
他のいろいろな本をつまみ食いしている間に読了に随分時間がかかってしまった。本書の要諦は、世界で広がった「反革命」的政策がことごとくミルトン・フリードマンとその弟子シカゴ・ボーイズによってもたらされた「参事便乗型資本(市場至上)主義」というべきもの。
南米チリのピノチェト政権をはじめとして、イギリス・サッチャー政権、ポーランドの「連帯」、中国の天安門事件、南アフリカ、ソ連からロシアへ、そして9・11後のアメリカ、同じくカトリーナに襲われたアメリカ、イラク、スマトラ沖津波に見舞われた国々、そしてイスラエル…。著者のナオミ・クラインが取り上げる様相は世界中のあらゆるところで、起こった、現に起こっているウルトラ新自由主義の弊害である。
たとえば、ハリケーンカトリーナで家を失った低所得層地域は早くも開発の波が襲った。まるでハリケーンが来ることを予測したかのように、災害後のインフラ整備を大手企業が契約していたこと。低所得層はもとの地域にも戻れず、郊外から通う車も持たないため、失業したり、他の地域に引っ越したり。
ハリケーンのような自然災害より儲かるのが戦争。戦争は、戦時の部分と戦後の時期で企業が絶え間なく儲かる仕組みになっている。イラク戦争では、アメリカ正規軍とは別に戦争の民営化がすすんだことは周知の事実。民間が雇った「警備員」らが、戦死したり、負傷しても国家の損害とはならないし、そもそもそのような危険な任務=高給につられた私兵に補償などない。「民間の警備員」によるイラク市民らへの尊重意識などかけらもなく、さまざまな形での殺戮が繰り返された。もっとも、アブグレイブ刑務所で非人道的扱いは米軍がもたらしたものであるが。
戦後復興の名の下に投入された建設事業などは米資本=それが、戦争勃発前からより「成長する」と見込まれたベクテルやハリバートンなど株価が上がっていた企業群が完全に上前をはね、現地イラク人の復興や再生になんの支援にもなっていないこと。さらに、ブッシュ政権でイラク戦争を決定した政権中枢の者たちがもともとグローバル大手企業のCEOなど幹部であったことも明らかにしている。これほどまで、人命、人権を無視した国家政策が世界規模でなされるためには、アメリカの政治を少数の巨大資本が牛耳っているという事実が大きい。そしてアメリカという国がそのような構造の中で世界に君臨してきたことの証でもある。
さらに遡ること南米チリのピノチェト軍事政権では、アジェンデ社会主義政権を倒し軍事クーデターの素地を作ったのが、シカゴ・ボーイズであったこと、チリやその他南米諸国で「行方不明」となった民主化勢力、反体制側の人々がすさまじい拷問・処刑にあっていたこと、そしてそれら拷問が、国家の役割は警察と強制的契約だけであとはすべて市場に任せればよいとする極端な市場主義を支えるために開発された精神医学者の実験を背景にしていることまでも明らかにした。
アメリカ大統領選では、まだ共和党候補者ロムニー氏=小さな政府 VS 民主党オバマ大統領=大きな政府の対決構図は有効のようである。特に、共和党陣営はオバマ氏の健康保険法を国民の自由を奪うものとすさまじい攻撃を繰り返しており、共和党副大統領候補のライアン下院議員は市場至上主義の申し子、超がつく新自由主義者である。日本でも郵政改革、古くは国鉄改革で多くの労働者が首をきられ、特に、郵政改革をはじめとする規制緩和策では小泉=竹中路線による新自由主義路線、不安定雇用層の拡大を招いた。さすがに、日本では拷問・処刑は日常ではないと思うが、自殺者3万2000人のこの国は、もう立派な「惨事」国であり、3・11東日本大震災や野田政権が推し進めるTPPなど、グローバル企業が「便乗」する素地は十分に整っていると見る。
輪をかけて、支持率急落の民主党に代わって、橋下徹大阪市長ひきいる維新の会が次期国政で大きく議席を獲得しそうな勢いである。橋下氏は議員を現在の半分に、さらに維新の会では国会議員はそもそも100人でよいとの声もあり、現在の議員の資質の議論が、国政の役割を放棄した小さな政府論に邁進していることは明らかであり、新自由主義路線は当分治まりそうにない。
ナオミ・クラインの綿密、膨大な情報収集・分析に最後までまさに「目が離せない」現代史展開である。「ショック・ドクトリン」を他山の石としない自覚と意識、そして運動を作り出す力が私たちに問われている。
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「民主化」と「民主的」  映画トガニに見る韓国の「民主主義的」現実と日本

2012-08-19 | 映画
韓国では日本に先んじて2008年1月から陪審員制度である国民参与裁判がはじまった。その実情を知るために2010年11月にソウルの裁判所を訪れた。その際国民参与裁判も傍聴した(もちろん、優秀な通訳と日韓の法曹が同席したので内容が分かった)。国民参与裁判は、被告人の選択制と裁判官による廃除(対象事件としない)決定があるため、国民参加としては不十分だとの批判がある。しかし、日本の裁判員裁判でも、対象事件の少なさ、陪審制ではないこと、裁判員の重すぎる守秘義務など「民主的」とは言い難い面も多い。
ところで、昨今福島第一原発の事故後、野田政権が大飯原発の稼働を許したことにより、反原発運動が盛り上がっている。首相官邸前では10万人をはるか超える人々が集まり、抗議の声を毎週あげているし、筆者も大阪は関西電力本社前の毎週金曜日の抗議行動に参加している。
これら市民の自発的デモ行動について、60年代の安保闘争や労働組合の動員・自己満足型のデモとは違う、民主主義を自ら作り出す動きとして積極的な評価がされている(柄谷行人「人がデモする社会」(『世界』9月号)や小熊英二の言説など)。柄谷は言う。「デモは単なる手段なのではない。デモ自体が重要なのだ」「人々が主権者であるような社会は、代議士の選挙によってではなく、デモによってもたらされる」(同上)。要するに民主主義社会であるからデモがあるのではなくて、デモによって民主主義がつくられていくのだと。であるからデモのなかった日本はその間民主主義をつくってこなかったし、それに対して多くの人が無自覚であったことを。
映画そのものではなくて、こんなことを書いたのは、本作の現実の事件=聾唖学校において教師による子供らへの日常的な虐待、性虐待が行われていたこと(それもつい最近のこと)を告発、しかし、加害者らへの刑事責任追及は地元の権力者であった故、不十分であったことが、後にトガニ法(子供への性暴力犯罪の処罰に関する法律)結実へとなったことを記したいからだ。加害者である校長らへの寛刑に怒った市民団体(聴覚障害者の団体、人権団体など)らの運動によって、メディアを動かし、世論をトガニ法成立、そして、加害者らへ責任追及は終わっていないという。これは、80年代まで軍部独裁政権であった韓国が光州事件で金大中を葬り去らんとしたのに、「民主化」勢力によって、金大中大統領誕生、いまや「民主化」にとどまらず法規範も「民主的」に手に入れようとしているからの証しでないか。そう、デモによって民主主義を顕現化させたのだ。
翻って、日本では民主主義の国であるから「民主化」など関係のないことのように思われている。しかし、橋下徹大阪市長の暴政に代表されるように、民主主義の危機ではなくてそもそも、この国の民主主義がとてもぜい弱であった、いや、育っていなかったことが明らかになっている。まだ「民主化」が必要なのだ。これほど「民主的」にことがはこんでいる(ことになっている)国で、原発再稼働をみても民主主義の要件=市民の「民主化」要求と行動、そしてさまざまな面での「民主的」な過程がなかったことこそ驚きではないか。
映画トガニより事実が重いのは、韓国社会が小説トガニや映画の公開によって、事実究明に再び動き出し、先述の法制定ほかの成果の上、加害者へあらためて訴追がなされたことだ。ただ事後法による訴追が正当かどうかは、韓国刑事法の専門家ではないのでここでは置いておく。映画で興味深いのは、校長らへの責任追及、刑事裁判が不十分であったのは警察や司法、検察官らも弱き者への正義の視点が欠いていたことだ。
冒頭韓国参与裁判を傍聴した経験を紹介したが、同日韓国の最高裁判所にも行った。裁判所の玄関に「自由、平等、正義」の大きな標語があった。映画の中で、町の地方法院の玄関にも大きく描かれていた「自由、平等、正義」。「民主化」運動を妨げない自由はこの20年でもちろん大きく前進したであろう。しかし、「平等」と「正義」はどうか。
ちょうど李明博大統領の独島(日本名は竹島)上陸が伝えられた。紛争地域への上陸という単純なナショナリズム誇示の当否はさておき、そのような行為でしか大統領の人気を測ることができないのであれば、韓国もまだ「民主的」とは言えないし、「民主化」にとどまっていると言えるだろう。日本から言えた義理ではないが。
(本作ともちろん直接関係はないが、家族関係等で不幸な境遇ゆえ、実の親と離れて暮らすことになった子どもらとよりそう保育士の日常を丹念に撮ったドキュメンタリー「隣る人」(刀川和也監督 2011年)もあわせて見てほしい作品である)
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