kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

希望は届かなかった手紙の束に 『オルガ』

2020-08-18 | 書籍

小説は多分あまり読まない方なので、たまたまそう感じたのかもしれないが、翻訳ものの語りにとても惹かれる。カズオ・イシグロがノーベル文学賞を取ったので『わたしを離さないで』を読んでみたが、抑揚感の希薄な語りが素敵だった。それでいて引き込まれた。ベルンハルト・シュリンクの『オルガ』(松永美穂訳 新潮クレスト・ブックス)は映画にもなった『朗読者』(映画邦題 愛を読むひと)以来だが、やはり淡々とすすむ語りにまたしても夢中になった。

主人公オルガは、ドイツ東北部ブレスラウ(現ポーランド)で生を受けるが、幼くして両親が発疹チフスで死去。祖母に引き取られ、ドイツ北東部に移るが祖母がスラブ系でなくドイツ系の名前に変えようとするが頑として拒否。祖母とはソリが合わず孤独な少女時代を過ごすが、貧しい中勉強を教えてくれる教師に出会い、師範学校に進学でき、学生寮にも入れる。教師になったオルガは農園主の息子で幼馴染のヘルベルトと恋に落ちる。しかしドイツ帝国の威信を体現したいヘルベルトは外国に出征し、北極圏の探検に命を懸け、オルガのもとにいない。ここまでは貧しさ、拭いきれない孤独感などのハンディがありながら人一倍の努力と独立心で自立を果たした女性の物語。しかし、これは3部構成の第1部。第2部で老いたオルガに可愛がられ、親子以上に年の離れたオルガに寄り添い続けたフェルディナントのオルガとの思い出が語られる。そして第3部ではフェルディナントが、オルガがヘルベルト宛に送ったもののヘルベルトのもとに届かなかった大量の手紙を読み、オルガの本当の思いを知るというもの。

切ない。みなし子ではないとはいえ唯一の肉親祖母とはソリが合わず、ヘルベルトと妹のヴィクトリアとは幼い頃あんなに仲よかったのに、年頃になり、ヘルベルトがオルガとの結婚を望むようになると身分違いを理由にヴィクトリアはオルガを徹底的に差別、妨害する。教職を得て安定した生活であったが、ヘルベルトはいつ戻ってくるかも分からない。そして不十分な装備のまま極寒の地に出かけついに帰って来なかった。いつも孤独だったオルガ。そのオルガが支えた、いや、支えられたのは同僚の養子である幼いアイクの成長を見守られたことと、耳が聞こえなくなって教師を辞め、お針子として勤めていた家の息子フェルディナントと交流できたこと。しかし、オルガを支えていたのは二人の男の子と過ごせたことより、ヘルベルトへの変わらぬ思いと膨張する帝国ドイツへの不信感だったのかもしれない。

だが、ドイツ帝国の膨張政策になんの疑念も持たず、他国との戦争に出かけ、武勲をあげ、次第に極北探検家として夢を大きくするヘルベルトこそ「帝国」=男像の権化であったのかもしれない。あんなに慈しんだアイクは成長するとナチ党を信奉するようになり、ナチスドイツでは非道な指揮官となっていく。

二つの大戦を経験し、時代に翻弄されたと書けば簡単だが、オルガの周囲はその時代の流れに敏感な者と鈍感な者のグラデーション。そして多分オルガの孤独の正体は、「帝国」「ナチスドイツ」「男の」と言った大文字のはびこる時代と、それに反する声も粗雑に聞こえたことへの違和感ではなかったか。そしてオルガが貫いたのは、帝国を帝国たらしめたビスマルクへの拒否の態度であった。オルガの立ち位置は子どもの頃から何も変わっていない。大文字が時代ごとに変わり、貧しい者、持たざる者を差別し、排除し、そしてまたその対象を作り出していく。オルガの賢さ、敏感さが清々しいとともにやはり切なくて、淡い読後感を伝えられなくてもどかしい。

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まず疑う、そして考える 『わかりやすさの罪』(武田砂鉄)

2020-08-13 | 書籍

例えば東京に行って居酒屋で一杯やっていると隣の常連さんが話しかけてくる。どちらから来ましたか?「神戸です」と言うと、「ぼく、神戸好きなんです。神戸いいですよね」と言われる。ひとしきり神戸の美点を並べて「神戸の人はどうですか?」と訊かれて、「はあ、145万分の一なんで」と答えると、怪訝な顔をされて、もうあまり話しかけられなくなる。

くどいがもう一つのエピソード。職場で自己啓発セミナーに入れ込んでいる人が一度来てみてと誘ってくれ、好奇心とかで行ってみて、講師が決まり切った内容で話を進めて「あなたは、この時こうしますか、こう考えますよね」と振ってきたので、「でも、前提がそうじゃない場合もありますよね」と返した時の講師の絶句した表情。

武田砂鉄さんは『紋切型社会−言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社 2015)の時からあまりにも同意点が多いので、いつか著書を紹介したいと考えていたが、武田さん自身がそういった安易な同意を好んで書いたのではないであろうことは「容易に」想像できるので書くのを控えていた。それくらい武田さんは答えを安易に求めない、そもそも答えがあるかどうかも分からないことを良し、としつつ答えを探さない。そして、答えを求める自分て、なんなのだと。

ややこしい。面倒臭い。共感しづらい。全部、本書への賛意のつもりだがそれも無用。本書への賛意は多分いい。しかし、それで武田さんの主張するところを分かったような気になってもそれは武田さんの思うところでもない、多分。あるいは、武田さんの“金言”の数々、例えば「「違和感」というテーマについて。全員が「共感」してくれたという理由で提出してくれる感じってなんだか怖い。齟齬がない。混在がない。」(206頁)、「いちいちしっかりと考えることを放棄してはいけない。それを人に言うと、あるいは、こうして書き記すと、たちまち説教っぽくなる。わかってるよそんなこと、と返される。でも、それを言わないと、「雑」がはびこってしまう。」これにはこう続く。「雑でいいんだよ、言いたいことを言っちゃえばいいんだよ、と公権力が率先してバラまいていく。」ここは「あいちトリエンナーレ2019」における河村たかし名古屋市長の発言や、関東大震災での虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式での追悼文を送らなかった小池百合子東京都知事の記者会見での発言とそれらを考察している項だ。このブログでは「あいちトリエンナーレ」での「表現の不自由・その後」が展示中止になった追い込まれた件でも書いているので(『公の時代』と『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』をどちらも読むことをお勧めする 

https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/843625f1057f5bf5c0062b8898e2fb0c)、ここでは、武田さんが河村たかし名古屋市長のずさんな言説とその影響などを詳しく解読しているので取り上げたいと思う。河村市長は展示について、「日本人の心を踏みにじるようなもの」と決めつけた。さらに「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれ(表現の不自由展の展示=ブログ者注)を認めたように見える」と言ったが、武田さんは「この論理でいけば、図書館に所蔵されている本は、すべて行政の指針に準じていなければならない」と指摘しつつ(226頁)、「公的なお金が出ているから、その意向に沿わないことをやってはいけない、という考えってあまりに危険だ」。至極真っ当である。しかし河村市長のような、戦略的「雑」な主張はメディアやSNSで増幅され、検証されることもない。だからこそややこしい、雑と正反対に場にある「複雑」を厭わない議論が必要なのだ。

なぜ雑(な議論展開)を欲するのか?分かりやすいテーゼに落とし込むのか?それは、例えばテレビのテロップや週刊誌のリードで引き付けるためのテクニックという部分もあるだろう。しかしそれで何か伝わったのであろうか?伝えたいというそもそもの複雑さを自ら捨象している怠慢ではないのか。言葉を操る職業人として。いや、言葉を発するメディア側の責任でもない。それを疑問と思わない「分かりやすさ」に慣れ、欲する受け手側の問題でもあるのではないか。それは、武田さんはさすがに大上段が苦手そうなので、述べていないが、すこぶる民主主義とその練度の問題である。

関東大震災で虐殺された朝鮮人への追悼文の送付を断った小池百合子東京都知事は、政策的に明確、都民の納得できるような説明もなく、新型コロナウイルス感染症対策として頻繁にテレビに登場し、カタカナ語を乱発して、都知事選でも政策論争を一切拒否して再選を果たした。都民有権者はテレビ出演とカタカナ語のわかりやすさに投票したのかもしれない。問われているのは「わかりやすさ」なのではない。それを許し、はびこらせた一人ひとりなのだ。と思う。(『わかりやすさの罪』は朝日新聞出版刊)

 

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