映画は、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻以前に制作されたという。だが、プーチン大統領がウクライナの子どもたちを「戦利品」として強制的に移送、移住させた罪で国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が出ている現在、戦争に巻き込まれた子どもの境遇という意味で既視感を覚えた。
戦争が起こった当時、子どもにその罪はない。しかし、罪があるとされた大人の子孫はどうか。それを深く考えさせる本作だ。そして罪がない子どもと意識して、子ども守ろうとした大人はどう遇されるのか。被害者だと思っていたら、立場が変われば突然加害者の立場に置かれる。戦時下、十分苦しい生活、思いをしてきたのに、戦争が終わったら、今度は戦勝側から断罪され、流刑される。子どもたちとは引き離される。
ポーランド領土だったウクライナのスタニスァヴフ。1939年、裕福なユダヤ人が持つ建物にウクライナ人とポーランド人の一家が店子として入居する。やがてポーランド人の夫婦は侵攻してきたソ連に、ユダヤ人夫婦はナチス・ドイツにより連れ去られる。残された子どもたちを必死に守ろうとするウクライナ人のソフィア。音楽教師で歌の先生だ。ソフィアに歌を学んだ子どもらは美しい歌声を響かせるが、やがて外出は一切できなくなり、夫も失う。ユダヤ人が住んでいた1階に入居してきたドイツ人将校一家も、子どもを残しソ連兵に拉致される。ソフィアは、自身の子に加えて、ユダヤ人、ポーランド人そしてドイツ人の子どもまで匿おうとするが。
戦争が始まるまでは、ウクライナ人はポーランド人を快く思ってはいなかったし、ソ連が侵攻してきた際には、すでにナチスの占領国であったポーランド人を迫害。そして、ナチス・ドイツの侵攻により、ユダヤ人は絶滅収容へ送られ、ソ連による「解放」後は、ドイツ人は収監対象に。その時代、時代によりソフィアに投げかかられる言葉。「なぜ、ポーランドの味方を?」「ソ連側の人間か?」「戦犯ナチスの子どもをなぜ助ける?」と。
子どもに罪はないし、子どもであること以上に違いはない。それが権力を握った側には通じない。国際人道法の概念も確立していなかった時代。悪しき国家を支えた大人も悪で、当然その子孫も排除すべき悪なのだ。もちろん、自由や平和を求めて、あるいは時の圧政に声をあげ、戦いきれなかった大人 ―ソフィアを含む― たちに、全く罪がないわけではない。しかし、戦争が生み出す憎悪は連鎖し、決して消えることのない民族や民衆、市井の人々の記憶としてDNA化されるものだとも思える。
ドイツや戦後ソ連に支配され続けたポーランドから見れば、いつも「やられっぱなし」という感覚だろう。しかしそのポーランドもウクライナにとっては侵略者だった。そのウクライナもロシア系住民から見れば、脅威だった(だから、プーチンは軍事侵攻を正当化した)。かように国と国、民族と民族の歴史的転生は被害者になったり、加害者になったりと立場を変える。しかし、少なくとも近代国家成立以後の紛争では、あからさまな侵略、圧政、殺戮の被害者側はその記憶を忘却できるはずはない。
翻って、日本の右派勢力などが韓国や中国にいつまで戦時中の日本による加害をことあげするのかとの立場はなんともおめでたい発想と思える。忘れてはならないのは被害者ではなく、加害者の方なのだ。国策による被害者側が和解を申し出ない限り、加害者側に忘却の特権は認められないと記すべきだろう。ソフィアの矜持「巻き込まれた子どもに罪はない」の上にさらなる想像力を問われる。(2021年 ウクライナ・ポーランド作品)