kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

加害者か被害者か、視点・視線への想像力 「キャロル オブ・ザ・ベル 家族の絆を奏でる詩(うた)」

2023-07-28 | 映画

映画は、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻以前に制作されたという。だが、プーチン大統領がウクライナの子どもたちを「戦利品」として強制的に移送、移住させた罪で国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が出ている現在、戦争に巻き込まれた子どもの境遇という意味で既視感を覚えた。

戦争が起こった当時、子どもにその罪はない。しかし、罪があるとされた大人の子孫はどうか。それを深く考えさせる本作だ。そして罪がない子どもと意識して、子ども守ろうとした大人はどう遇されるのか。被害者だと思っていたら、立場が変われば突然加害者の立場に置かれる。戦時下、十分苦しい生活、思いをしてきたのに、戦争が終わったら、今度は戦勝側から断罪され、流刑される。子どもたちとは引き離される。

ポーランド領土だったウクライナのスタニスァヴフ。1939年、裕福なユダヤ人が持つ建物にウクライナ人とポーランド人の一家が店子として入居する。やがてポーランド人の夫婦は侵攻してきたソ連に、ユダヤ人夫婦はナチス・ドイツにより連れ去られる。残された子どもたちを必死に守ろうとするウクライナ人のソフィア。音楽教師で歌の先生だ。ソフィアに歌を学んだ子どもらは美しい歌声を響かせるが、やがて外出は一切できなくなり、夫も失う。ユダヤ人が住んでいた1階に入居してきたドイツ人将校一家も、子どもを残しソ連兵に拉致される。ソフィアは、自身の子に加えて、ユダヤ人、ポーランド人そしてドイツ人の子どもまで匿おうとするが。

戦争が始まるまでは、ウクライナ人はポーランド人を快く思ってはいなかったし、ソ連が侵攻してきた際には、すでにナチスの占領国であったポーランド人を迫害。そして、ナチス・ドイツの侵攻により、ユダヤ人は絶滅収容へ送られ、ソ連による「解放」後は、ドイツ人は収監対象に。その時代、時代によりソフィアに投げかかられる言葉。「なぜ、ポーランドの味方を?」「ソ連側の人間か?」「戦犯ナチスの子どもをなぜ助ける?」と。

子どもに罪はないし、子どもであること以上に違いはない。それが権力を握った側には通じない。国際人道法の概念も確立していなかった時代。悪しき国家を支えた大人も悪で、当然その子孫も排除すべき悪なのだ。もちろん、自由や平和を求めて、あるいは時の圧政に声をあげ、戦いきれなかった大人 ―ソフィアを含む― たちに、全く罪がないわけではない。しかし、戦争が生み出す憎悪は連鎖し、決して消えることのない民族や民衆、市井の人々の記憶としてDNA化されるものだとも思える。

ドイツや戦後ソ連に支配され続けたポーランドから見れば、いつも「やられっぱなし」という感覚だろう。しかしそのポーランドもウクライナにとっては侵略者だった。そのウクライナもロシア系住民から見れば、脅威だった(だから、プーチンは軍事侵攻を正当化した)。かように国と国、民族と民族の歴史的転生は被害者になったり、加害者になったりと立場を変える。しかし、少なくとも近代国家成立以後の紛争では、あからさまな侵略、圧政、殺戮の被害者側はその記憶を忘却できるはずはない。

翻って、日本の右派勢力などが韓国や中国にいつまで戦時中の日本による加害をことあげするのかとの立場はなんともおめでたい発想と思える。忘れてはならないのは被害者ではなく、加害者の方なのだ。国策による被害者側が和解を申し出ない限り、加害者側に忘却の特権は認められないと記すべきだろう。ソフィアの矜持「巻き込まれた子どもに罪はない」の上にさらなる想像力を問われる。(2021年 ウクライナ・ポーランド作品)

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法廷で描かれる葛藤の正体とは  「サントメール ある被告」

2023-07-23 | 映画

日本に裁判員制度が導入されて14年になる。辞退率の高さ、裁判員に対する秘密保持の広さなど課題は多々あるが、定着してきたとみて間違いないだろう。

フランスは日本が裁判員制度を導入する際に参考とした参審制度の国である。参審制とは、アメリカやイギリスで採用されている陪審員制度と違い、裁判官と市民が協働して審理に関わり、判断する。日本独自の形態としての裁判員制度は、現在でも市民が法曹のプロである裁判官の先導に追従してしまうのではとの指摘もあるが、これまでのところ、裁判官による強引な訴訟指揮との声は少なそうだ。もともと日本の刑事裁判は当事者主義が採用されていて、裁判所主導で証拠調べなど審理が進ことは基本的に想定されていない。その感覚からすると、本作で描かれるフランス裁判所の審理風景は驚きだ。

生後15ヶ月の娘を海岸に置き去りにして死なせたとされるセネガル出身の母親ロランスを裁く法廷。動機が不明。裁判長は「なぜ、娘を殺したのか」「分かりません。裁判でそれを知りたい」。被告人であるロランスに矢継ぎ早に質問を繰り返し、その生い立ちまで根掘り葉掘り。

しかし、被告人質問の前に登場する証人らこそロランスが精神的に追い込まれた(のではないか)とされる要因を垣間見せる。ロランスと親子ほど歳の違う、娘の父と目される男性はロランスの妊娠、出産に気づかなったと当事者性のかけらもない。高学歴でフランス語を完璧に話すロランスだが、アフリカ人が「ウィトゲンシュタインを学ぶのは不可解だ」と証言する教授。女性、エスニシティに対する差別意識が顕になる。そして、ロランスが自国のウォロフ語ではなく、母親から「完璧な」フランス語を話すことにこだわり、育てられたとの桎梏も明らかになる。ロランスは呪術の仕業と持ち出し、検察官はそんな証拠はないとますます混迷を深めるが。

実際にあった事件をもとに脚本は書かれ、法廷でのやり取りは調書どおりに再現したとされる本作。実事件と違うのは、それらの様子が、被告人と同じセネガル出身で学者にて作家、母親との葛藤を抱え、自身妊娠中であるラマの視点から描かれることだ。ロランスが自分を「合理主義者だ」と証言しながら、動機も経緯も不合理極まりない事件の真相が追及されるのではなく、ラマが自分こととして事件を受け止めるとき、物語は見る者の「腑に落ちる」。長らくフランスの植民地であったセネガル出身者が、フランスでどのようなアイデンティティを持ちうるのか、どのように白人社会から見られているのか。人種、学歴、女性、複層的な課題こそがロランスの動機であり、「実存」であったのかもしれない。弁護人が母親と子どもの細胞、遺伝子的な結びつきを「キメラ」の話を通して長い最終弁論を終えた時、それまで固く、冷厳としたロランスが泣き崩れる。

興味深いのは、裁判官3人も書記官と思しき人も、2人の弁護人も皆女性であることだ。フランスの司法官(裁判官と検察官)の女性比率は7割近いという。日本の2〜2.5割と大きく異なる。また個人的には参審員の役割ももっと知りたかった。

サントメールはフランス北部の小さな町。聖なるオメールが原題だが、オメールそのものがもともと司教区の地名であるらしく(そもそも人名)、その聖性は、差別や偏見、何らかの固定した意識に凝り固まった者には感じられないのかもしれない。(「サントメール ある被告」は、アフリカにルーツを持つアリス・ディオップ監督作品 2022)

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拳をペンに変えて学んでいく  「ぼくたちの哲学教室」

2023-07-21 | 映画

もうずいぶん前に亡くなった私の父の口癖、子どもだった私に対する評は、いつも「理屈が多すぎる」だった。何か口答えしようものなら「理屈を言うな!」。彼の言う「理屈」とは何なのか? なぜ「理屈」を言ってはいけないのか? 多ければいけないのか?一切の説明はもちろんない。私がきちんと反論できるようになった時は、彼はもう衰えていた。

父のような戦前生まれ、それも大正時代に生まれた男性の多くはそのような思考傾向が多いのかもしれない。何せ、時代は自分でものを考えることを許さない天皇制軍国主義の下、一兵卒として従軍した父も「理屈」抜きに先輩兵から殴られたこともあったろう。「理屈」抜きに、大陸で中国人を殺したり、殺す場面に遭遇したり、同僚が斃れた姿も目にしたかもしれない。「理屈」の通じない世界をくぐり抜けてきたと言える。そこは紛れもなく言葉ではなく暴力が支配する世界であった。

従兄弟同士でよく喧嘩するディランとコナーを前に、ケヴィン校長がなぜ暴力を振るったのか聞くと、ディランが「だって、パパがいつも言ってる。“相手がかかってきたら必ず殴り返せ”。」ここでケヴィン校長がディラン役(D)、ディランが父親役(F)になり、即行のサイコドラマを演じる。D「親父は殴り返した時、どんな気持ちだった?」F「自慢と、少し心残り」D「どんな心残り?」F「昔一度誤って違う相手を殴ってしまった」D「どんな気がした?」F「いい気はしない」D「どんな気持ちだった?」F「申し訳ない…悲しい気持ちかな」D「そうなんだ、俺も殴った時、相手と同じ気分になった。それが嫌なんだ。昔は厳しい環境だったから殴ったんだろうけれど、俺は誰も殴りたくない。先生や仲間、親父と話して解決したい。だから、親父も俺に“殴れ”と言わないでほしい」F「そうか、わかった」D「俺のこと嫌いになる?」F「いいや、まさかそんな」D「親父、大好きだよ」

(パンフレット訳文から抜粋、意訳)

この映画の焦眉で、かつとても素敵なシーンだ。

舞台は北アイルランドのベルファスト。それもプロテスタント系住民とカトリック系住民が激しく争ったアードイン地区。そこにホーリークロス男子小学校はある。れっきとしたパブリックスクールだ。しかしこの学校が他校と大きく違うのはケヴィン校長主導で「哲学」の授業と日々の実践があること。紛争が一応「停戦」に落ち着いたベルファスト合意が1998年。しかしその後もホーリークロス女子小学校事件(通学するカトリック系の子どもたちをプロテスタント系住民が激しく罵倒、通学妨害。2001年)など紛争が完全に収まったわけではない。そして、映画に出てくる子どもらはそれより後に生まれた子らで、直接は紛争を経験していない。しかし親の世代は暴力が支配し、敵対する相手を激しく憎悪した時代の経験者なのだ。だからディランの父親は暴力には暴力でという発想にもなる。

ケヴィン校長も若い頃は「強い男」であるべきだと、自らの拳でたたかってきた。だが、拳に頼った自身の過去を恥じ、暴力のない社会をと哲学を学び、やがて教員、校長となる。彼の目指すべき道は明確だ。校内でおこるあらゆる喧嘩や口論は、ケヴィンのオフィス外の「思索の壁」に書き込むこと。書くことで自分を客観視できる、冷静になれる。拳をペンに変えることで暴力は防げると。

哲学というと、昔日の偉人の格言、金言とされる短い語彙にゲンナリして、その言葉が発された裏に深く、長い思索があることに思いが至らない。ケヴィンもたまに引用するが、そんな格言を知ることが哲学でないことを実践する。不満や怒りは、そのメカニズムを知ることで暴力へと発展する悪しきサイクルを断ち切ることができる。それが言葉を何よりも大事にした哲学の授業なのだ。

理屈を嫌った私の父は、不合理、不条理を内面化していた世代とも言える。それらに抗い続ける言葉を現在の私は欲している。王制の国、イギリス。ベルファストの紛争では、ロイヤリストがリパブリカンを激しく攻撃した歴史もある。そして、ブレグジットによって再び、北アイルランドはグレートブリテンから孤立する立場に晒された。独立派の動きとともに緊張が続く。哲学によって暴力が回避されることを祈り続ける。

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塀の中にこそ明らかになった渇望  「大いなる自由」

2023-07-16 | 映画

ホフマンが何度もタバコに火を着ける。その炎と放つ光ははかない。そのはかなさ故か、ホフマンのこれまでの人生を想起させるメタファーか、炎はすぐに消える。けれどもホフマンの思いは続く。

ホフマンはナチス政権下で同性愛者との理由で拘束、収監されている。ナチスからドイツ市民を解放した連合軍のもとでも同性愛行為は違法。だから、強制収容所からそのまま解き放たれることなく、戦後ドイツの刑務所に移送されたのだ。他者を傷つけるなどの何らかの犯罪を犯したわけではない。性志向そのものが犯罪であった時代の話である。しかし、同性愛が非犯罪化されるのは東ドイツで1957年、西ドイツでは1969年である。しかも女性の同性愛は「ない」ものとして、男性だけを罰する(しない)法改正であった。男性たちは違法な逢瀬をどこでしていたか。公共トイレである。そこにも監視カメラが据え付けれ、違法=逸脱行為をなす男たちを見張っていた。そのフィルムが回されるところから本編は始まる。

ホフマンが移送された先で、同室になったヴィクトールはあからさまに拒否する。「変態と同室でいられるか!」。刑法175条と収監者の罪状が明記されているからだ。だが、ホフマンの腕に強制収容所にいたことの証としての認識番号を見て、ヴィクトールは「(刺青で)消すか?」と提案する。そこから、ヴィクトールとホフマンの友情は始まる。

岸田文雄政権はG7の中で日本だけがLGBT(Q)に対する法整備が遅れているとの実態から、急ぎ「理解増進法」を成立させた。法はあくまで「理解増進」であって「差別解消」でないことが問題と当事者団体等から指摘されている。同法の審議段階では与党自民党内から、「女性」と自称する男性の女性トイレや女風呂に入ることを妨げられないのではとの懸念が反対理由と示された。トランスジェンダーの当事者が、自己の出生時の性とは異なる性で社会生活を送る場合、公共トイレなどの施設を利用する際には、できるだけ外見的にも自分自身の意識ともトラブルのない段階でやっと、自己認識の性の側を選ぶという実態を無視したヘイト言説だとも思うが、今般の議論の遅れにかなり寄与しただろう。首相秘書官による差別発言もあった。

時代はもっと頑固である。ホフマンは何度も収監される。でもホフマンは刑務所内も含めて自己の愛を止めようとしない。いや、止めることなどできないだろう。興味、趣味ではなく性向であるのだから。いや、性向でさえもない。本源的な愛だ。ホフマンが刑務所への出入りを繰り返す中で、殺人を犯し長期収容されているヴィクトールに幾度も出会う。ヴィクトールには分かるのだ。ナチスの時代、強制収容所をくぐり抜けてきたホフマンこそ、自己を曲げない、曲げられない人間であることを。罰するべきではない個人の性向を法律で縛ることの不平等さを。

イスラム社会をはじめ、現在も同性愛を違法とする国は多い。しかし、あれだけ異性愛を最上のものとしてきたカトリックの国でも同性婚は合法化されてきた。一人ひとりが幸せを得るための価値観は変わっていくものだ。そしてそれを示すものとして、ヴィクトールという得難い友人を得たホフマンにとって、刑務所こそ自由で、外の世界には自分の居場所のない不自由な世界というパラドックスも本作は明らかにしている。

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