kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

スイス美術館紀行4 チューリヒ、ヴィンタートゥーア

2008-09-28 | 美術
チューリヒ美術館は高台にあり、坂を上らないと行けないしトラムなら少し大回りになるが美術館前に着く。そして驚くほどの広さ。筆者はスイス旅行最終日、それも午後に訪れたたため残念ながらすべてを見尽くすことはできなかったが(現代美術の企画展をしていて6時に追い出された)、十分堪能できた。それもそのはず、スイス最大の収集品数をほこり、古典から近代まで満遍なくそろえ、スイスがほこる世紀末画家ホドラーの作品も多く見とれる。しかし、筆者がひかれたのは彫刻室。ジャコメッテイはもちろんブランクーシまであり、しばしの間にんまり。
ヨーロッパ・ロシアの美術館はルーヴルやエルミタージュなどおよそ1日では回れない規模の美術館が思い浮かぶが、チューリヒ美術館も本当に回れば1日で終わる規模ではない。それほど魅力にあふれている展示品と回廊だ。スイスの本家ジャコメッテイに限らず、セガンティーニなどスイス出身の画家のみならず、ココシュカなど隣国の画家の作品も多い。スイスは人口割の数字で美術館数が飛び抜けて多い国であるが、世界的に有名な美術館は多くないとされる。いやいやチューリヒ美術館を訪れよ。垂涎の作品群が迎えるであろう。そしてロンドン・ナショナルギャラリーやベルギー王立美術館を思いおこさせる充実ぶりであることを。

今回のスイス渡航の目的の一つはヴィンタートゥーアのオスカー・ラインハルト・コレクションを訪れたかったため。しかし、残念ながら休館。それが分かったのもヴィンタートゥーアに着いてから、美術館行きバスに乗ろうとしたときドイツ語のできる日本人女性に教えてもらったから。インフォーメーションでも教えてもらえなかったのがいかにもヨーロッパ風で?この点だけは万事合理的、スムーズに事が運んだスイスでは例外か。オスカー・ラインハルトもバーゼルのバイエラーのように私財を美術収集に費やし、ついに自宅まで美術館にしてしまった人物。近代絵画が多いそうであるが、ともすれば散逸しがちな美術品を集め、移転させるなと遺言したのは金持ちの矜持か。機会があればまた訪れたい地だ。そもそも、ヴィンタートゥーアなんて町はチューリヒから20分ほどであるが、美術好き以外は絶対訪れない地であるそうであるから。
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スイス美術館紀行3 バーゼル

2008-09-28 | 美術
金持ち国スイスだけあって、個人財団設立美術館の充実ぶりはすばらしい。バイエラー・コレクション(財団美術館)は、美術商であったエルンスト・バイエラーの収集した近代美術が贅沢に展示されている。筆者が訪れた際には他美術館等からも集めたフェルナン・レジェ展をしていて眼福であった。レジェの作品を一同にこれほどまみえる機会などなかったからだ。ピカソやモディアリアーニ、マチスなどの大作もあり、うれしくなってしまう。ただ、公営美術館ではないので、スイスカード(鉄道と併せて公営美術博物館はほぼ入れる)が使えず、日本円で2300円ほどの入館料が必要だが、払って十分価値あるコレクションである。

バーゼル市立美術館はライン河畔にあり、歩いて行くには少し難儀であるが、トラムが美術館の前に止まり便利はよい。おもてにロダンの「カレーの市民」をいただき、館内はとても広い。スイスといえばアルベルト・ジャコメッティの彫刻群が充実。有名なホルバインの「墓の中の死せるキリスト」は16世紀初頭の作品であるのに写実主義の極みで迫力がある。ホルバインの収集においては世界有数であるそうで、古典から近現代までヨーロッパ最古の公立美術館として出発しただけのことはある。ネーデルランド絵画はもちろん、ドイツとも近い地勢故か、ナチスから退廃芸術のレッテルをはられたドイツ表現主義の面々、カンディンスキー、マルク、ココシュカなどの作品も多い。世界3大美術館ほどの規模ではないが、1日十分過ごせる広さと楽しさにあふれた美術館である。(墓の中の死せるキリスト)
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総合芸術家としてのシャガール、ディアスポラとしてのシャガール

2008-09-21 | 美術
「エコール・ド・パリ」なんて括り方も今となっては怪しいが、印象主義と並んで日本ではこの「エコール・ド・パリ」の面々の人気が高いようである。キリスト教のバックグラウンドを持たない日本人が、キリスト教美術にそれほど興味を持たないのは仕方がないが、シャガールは敬虔なユダヤ教徒(ハシェド派=恩寵派ユダヤ教)。そして絵画にも旧約聖書のそれが反映されているというのにそのあたりが理解に苦しむところだ。
ゴッホのように生前は全く評価されなかった画家にくらべ、シャガールは芸術家としてはかなり順風満帆である。ユダヤ人であること、名家の出ではないこと(父は鰊工場の職人)などから進学、結婚などについて障碍はあったが、比較的若くして認められ、パリから帰り革命前夜(もちろん、パリに戻れなかったのは第1次大戦のためである)からロシアにおり、職を得、また舞台芸術を任されるなどしたからだ。
本展はシャガールといえば、あの幻想的な青の世界に馬や人が飛んでいる、ベラと仲むつまじい姿をフィーチャーするお決まりの展示ではない。もちろん、シャガールは人を空漂わすのは好きなようで、ベラと空を飛んだりする様は愉快でもある。
芸術家としては順風満帆と書いたが、ユダヤ人としては当然ディアスポラを経験している。ロシアを離れたのも、パリから渡米を決意したのもユダヤ人であったから。しかし、ユダヤ人であることのアイデンティティを確認するかのようにシャガールはパレスティナの地を何度か訪れている。パレスティナの土地の色、空気の色、それらすべてが新鮮だったシャガールにとって迫害された民のうずきが絵画に反映したかというと実はそうは思えない。
シャガールの生地はベラルーシ(白ロシア)。シャガールはベラとの出会いもあり、生涯、自己の生地、両親、そのまた親(祖父はユダヤ教ハシェド派の重鎮であったという)を育んだヴィテブスクを思い、描いた。そのようなものかもしれない、自己の成長地への思いとは。決して裕福ではなかったシャガールではあるが、弟、妹ら7人に囲まれ、画題にしていることからマルクが幸せであった実感を得られる時代であったのではなかろうか。
シャガールが世に認められ、装丁画や劇場美術をこなした証が丹念にたどられる本展。シャガールといえばサーカス、の原点がここにある。版画に目覚めたのは画家として成功してからで、ドライポイントなど体力を要する版画を体得したのにはバックボーンを持たない芸術家としての意地が垣間見える。
パレスティナの地を何度も訪れたということは、結局戦後は1948年に建国されたイスラエルを訪れたと言うこと。シオニズム的発言も報道された中、シャガールへの距離感を感じざるを得ない筆者ではあるが、少なくとも、シャガールが愛を描いた幻想画は(シャガール自身は「幻想画家」と呼ばれるのを嫌っていたようであるが)イスラエル建国以前のものも多いということを強調すべきかもしれない。
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スイス美術館紀行2 グリューネヴァルト「イーセンハイム祭壇画」

2008-09-15 | 美術
コルマールはスイスではないので正確には「スイス美術館紀行」には入らない。が、バーゼルから1時間ほどというのがわかったので、足を伸ばすことにした。パリからは5時間以上かかるらしいので今回のイクスカージョンは正しかったと思うが、ウンターリンデン美術館はたとえ5時間かかってもパリから訪れたいと思ったかもしれないところである。
イエスの磔刑は絵画題材としてはありふれたものだが、たいがいイエスはそれほど傷ついているわけではない。きれいな姿をしているが、グリューネヴァルトの「イ-ゼンハイム祭壇画」だけは傷ついたぼろぼろのイエス像は珍しいらしい(西岡文彦『名画でみる聖書の世界』)。それで見たい、ルネサンス期美術というとイタリアの華やかなそれしか知らなかったので、そうではないものこの眼で確かめたかった。
西岡前掲書によれば十字架刑というのはすこぶる残酷な刑であったらしい。拷問としての性格も有していてよっぽどの重罪でなければ適用されなかった刑であると。そして肩の骨が裏返らない限り(?)あのような十字架の形に人間がさらされるのは不自然である。
十字架磔刑図の多くが、イエスと共に磔にされる他の2人の罪人を描いている。しかしグリューネヴァルトの本作は、イエスだけを描いているし、後に復活する神々しさや力強さ、どこか現実離れした雰囲気もなく、これは完全に違っている。本当に十字架に架けられた瀕死のイエスを描いているのだ。そして、瀕死のイエスは復活しそうにないくらい傷つき、病んでいる。これが新鮮なのだ、惹かれるのだ。
イエスの磔刑が事実としても、新約聖書の物語のうちには現実では考えられない、ありえないと思われることも多い。それが絵画など美術作品になるとその非現実性が増幅されて、美術作品本来の現実性を超えた魅力を減じさせることもあると思う。しかし、どれほど現実を離れた宗教的魅力があろうとも美術的価値を感じることができるなら心洗われることはある(ヤン・ファン・エイク「神秘の子羊」はその最たるもの)。グリューネヴァルトの本作は宗教的見地から届けようとして(16世紀であるから当然だ)、かつ、イエスの苦難を現実的表現によって伝えようとしている。
祭壇画であるから、聖ヨハネやマリアなど主要人物は登場し、キリストの物語をいろいろ描いているが、磔刑の迫力はそれらを超える。イタリア以外のルネサンス美術にもっと触れたくなる。イーゼンハイム祭壇画はその好奇心を満たしてくれる一里塚である。
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猫映画ではない    グーグーだって猫である

2008-09-13 | 映画
猫映画を少し期待して見に行った。「ジョゼと…」の犬童一心監督だからというのもあった。決してキョンキョンファンであるからではない。などと力む必要はない。おそらく多くの大島弓子ファンであるならば。
大島弓子ファンでもないと、感覚的にわかりにくい面はある。そしてシーンの端々に出てくる作品名にニヤリとすることもない。途中本作はコメディかとも思った。しかし、見終わって思うのは、猫の映画でもないし、アイドル(というにはキョンキョンももう42だ)キョンキョンの映画でもない、そしてほのぼのでもない、ということだ。
ベネチア映画祭で一つも賞を取れなかったとしても超大作もない日本映画は元気である。その元気の要因がこのようななんの変化も少ない(あくまでハリウッドの国や人類を揺るがす、あるいはスパイものに比して)作品であるのは象徴的だ。
大島弓子の漫画は知らないが、オタク40女性の(アラフォーなんてナウイ?表現もあるらしい)揺れ、艱難辛苦、友情など基本的な人間感情を犬童監督も小泉今日子もうまく描いているというのが本作のプラス点。が、コメディかシリアスか、あるいはアンニュイか、とらえにくい展開は正解を求めないいかにも犬童風か。
という大島ワールドが分かっていないと入り込めないのがマイナス点。いずれにしても上野樹里をはじめ「それでも僕はやっていない」の加瀬亮やテレビで活躍の森三中など「イキのいい」俳優をそろえただけでも本作はアイドル作品である。
冒頭に猫映画ではないと断じたが、猫の媚びなさは本当に惹かれるというのは事実である。
「我が輩は猫である」の映画化は(あるが)、猫が俳優にならないので(?)難しいというのをどこかで読んだことがある。それくらい人間から見ると独立独歩の猫指摘だ。麻子先生の苦しみ、ナオミのひたむきさ、グーグーの外連見のなさ(あたりまえだ)が強調されていないことに乾杯!
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スイス美術館紀行1 パウル・クレー・センター

2008-09-12 | 美術
スイス美術紀行1
 今回の旅行の目的の一つはフランスはコルマールに行くこと(後述)。もう一つは2005年6月に開館したベルン郊外のパウル・クレー・センター(Zentrum Paul Klee)を訪れることだ。ZPKには日本人の学芸員がおり、紹介してくださる方があり、お会いでき、そして展示を解説して頂いた。
 奥田修さんはZPKが開館するに伴い、ベルン美術館から移った方でそれまでベルン美術館の学芸員であった。ベルン美術館は世界最大のクレーのコレクションを有していたが、スイスの最大画家クレーコレクションのための美術館構想が立ち上がり、それまで2000点を有していたベルン美術館にクレー家などから寄託された作品も含め4000点を有するセンターとして開館したものだ。奥田さんによると、「センター」になったのは、クレー芸術を中心に複合施設として開館することになったからという。そのとおりZPKはクレーの展示室以外に企画展示室、コンサートホール、会議やレセプションにも対応でき、子どもの教育施設として、また広い年齢層に対する絵画教室としても機能している。奥田さんは「ベルン市民はこんな遠いところには来ないよ(ベルン中央駅からバスで20分ほどだが)。でも企業が会議など催しに使ってくれてなんとかやっている」と話されていた。
ZPKは、ベルン旧市街を抜けた少し高台にあり、高速道路がそばに通っているものの、牧場などに囲まれたのどかな地勢。地元のお金持ちがぽんと土地を提供してくれ、土地を探す必要がなくなったこと、クレー家をはじめ「寄託」という形で作品を提供してくれたため収集費用が多額にはならなかったことなど美術館大国スイスの面目躍如たる偶然が重なり実現したのがZPKなのだ。もちろん、センターという多角性がなければ実現しなかった企画であり、「こんな総合芸術企画でなく、クレー美術館の門番として過ごしたかったのに」と冗談めかして話す奥田さん。
 案内していただいた時のクレー作品展はクレーが小さいときから植物に興味があり、それらのスケッチを重ねてやがてあの独特の色彩世界、フォルムにつながるというもの。驚かされたのはクレーが子どもの頃から集めた植物の標本が完全な形で残っていること。120年前の押し花(ではないが)が見事に残っているのは感嘆ものである。これはクレー家が保存よく残していたこと、第2次大戦時にもナチスドイツの略奪を許さなかった中立国スイスであったためなど幸運な要因が重なったためと考えられる。しかしバウハウスで教鞭をとったクレーはナチスから「ユダヤ人」との攻撃を受け、退廃芸術の烙印を押されたが、故郷スイスに亡命し晩年を過ごした。
 壁のないだだっ広いZPKの展示室はパネルで仕切られ、どこからどこへでも漂うように見渡すことができる。4000点を超えるクレーの作品群を常時展示しているわけではない。だから、今回はクレーの植物への興味の延長線上に置きにくい作品(というか、そう展示側が企図したもの)は除かれているので、著名な「赤のフーガ」や「死と火」は展示されていなかったように思うが(少なくとも筆者が訪れたときは)、それでもクレーの想像力、好奇心、博学さには驚かされるばかりの世界が広がっている。植物が好きであったくらいだから理系への興味が強かったクレーだが、バイオリンの名手であり(妻もピアニスト。画家として売れるまでは演奏家として小銭を稼いでいたという)、哲学にも造形深く、バウハウスでは造形学や色彩論(バウハウスではこの分野の第一人者ヨハネス・イッテンもいた)、製本、形態の実技まで持っていたというのであるから、いやはや万能の哲人とまでは言わないでせよ飛び抜けて多芸多才であったことが伺われる。
 スイスに戻ったクレーは病魔とたたかいながら多くの作品を残した。ペン画で描かれた天使のシリーズもこのころの作品。クレーの全容を知るためには(できはしないが)、ZPKに通い続け、企画展示の全てを見尽くさなければならない。植物を採取していた子どものころから、チュニジア旅行で色彩に目覚め、バウハウスで教鞭をとりながら抽象的構図の理論を高めていたとき、そして線画。画家は若死にかとても長生きという感じがしていたが、60歳で亡くなったクレー。戦後も生きていたらどんな不思議な色や造形を生み出していただろう。
 クレーを楽しみ探す旅は始まったばかりである。
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