kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

凶器か、狂気か、美の到達点に迫る試練   ブラック・スワン

2011-05-29 | 映画
バロック絵画の先駆者カラヴァッジョは、放蕩な生活のあげくのはて、殺人を犯し、逃げ回った先でも迫力ある作品を残したことはよく知られている。時には自ら傷つけることも。美を生み出す者とは常に狂気と裏腹、あるいは紙一重であるというのは古くから言い習わされたことであるが、その美にはカラヴァッジョのような絵画はもちろんのこと、芸術の世界全般に通じることかもしれない。
白鳥の湖はクラシック・バレエの定番中の定番、最高峰。振付師、踊り子の創造力をかきたてる演目は、本来の4幕版から短いものは2幕版まであるとされるが、それくらい柔軟な解釈とダンサーの技量をはかるプログラムには違いない。振り付けはフレデリック・アシュトン。20世紀のイギリス・バレエに古典主義を確立させた立役者とされる(『バレエダンス事典』)。長野由紀によれば「白鳥の湖」は、大方はジークフリート王子が裏切った白鳥オデットの後を追って死に、来世で結ばれるという悲劇が主流だが、王子がロットバルトの策略に打ち勝ち、悪魔を倒したのち、現世で結ばれるという「ハッピーエンド」のパターンもあるという。いずれにしても、オデットと黒鳥オディールは同じダンサーが踊り分けるもので、清純、無垢なオデットと妖艶、奔放なオディールを如何に踊り分けるかがその実力を問われるというパターンはあまり変わらないらしい。
テクニックは完璧でも、今一つ主役を取れないポートマン演じるニナは、振付師のルロワからセクシャリティーが足りないとなかば挑発され、一踊り子に終わった彼女の母親のゆがんだ愛情、ルサンチマンに晒されながら、心を病んでいくが同時に危険な黒鳥も見事に演じ切るという物語。ニナをそこまで追い込んだのは、生来的に妖艶、危険なリリー。自信を失い、本番で踊れなくなる瀬戸際に立たされたニナは、代役の準備をしていたリリーを刺し殺し、その憎悪がニナをして見事黒鳥の踊りを成功させるが、実はニナはリリーを殺していなくて、自らを深く傷つけていて、プログラムの終焉と同時に息絶えていくニナという物語。
サイコスリラーと喧伝されるだけあり、ところどころ怖いシーンがあるが、それがニナにとって現実なのか妄想なのか定かでないところも観客の想像力を増す。結局、母親の夢を叶え、自身も難しい役をこなすまで飛躍するニナだが、役をもらうまで自傷行為は続いていた。カラヴァッジョのようにより高い美の到達点を目指せば目指すほど、自らの生涯を縮めるということか。もちろん、美を描く到達点がどこにあるのか、そもそも普遍的な到達点などあり得るのか、その答えを知らないからこそ、いや、認めないからこそ、新たな挑戦者が絶えないということなのだろう。
子どものとき、バレエを習っていたとはいえ、プロのダンサーではないポートマンが28歳になって本格的レッスンをはじめ、10か月間、毎日5時間のレッスンをこなし、プロのダンサーと見まがうほどの演技を見せたことが、作品の良し悪しはともかく、アカデミー主演女優賞にふさわしいと評価されたことはうなずける。
ただ、本作で振り付けを担当したベンジャミン・ミルピエとポートマンは婚約し、ポートマンは現在はあの特訓時のスレンダーなボディではなく、妊娠中であるというのを聞くにつけ、現実の甘さが美の頂点には勝てないことにむしろほっとしてしまうのである。
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短かな時間の濃密な激烈さ   カンディンスキーと青騎士展

2011-05-08 | 美術
レーンバッハ美術館は、ミュンヘンの中心部、アルテピナコテークなどのそばにあり、ベルリンのブリュッケ美術館よりはるかに便利である。今回、レーンバッハ美術館展が開催できたのは美術館が2012年まで改装、休館することになったことによる。ただ、「カンディンスキーとクレー展」など昔あったような展覧会名ならもう少し人が来たかもしれないが「青騎士」となると知っている人がどれくらいいるか。
ドイツ表現主義と一括りにされることも多いが、青騎士とブリュッケではかなり違うようだ。キルヒナーやノルデが参加したブリュッケは、1905年結成から数年間は活動しているが、青騎士はそもそもカンディンスキーが1908年に結成した「ミュンヘン新芸術家協会」の中にあって内紛を重ね、カンディンスキーが1910年結成、11年の2回だけ展覧会を開いたものの、メンバーが第一次大戦に従軍、戦死するなどしてわずか2年の活動を余儀なくされたからである。カンディンスキーはロシア人であったこともあり、従軍していないが、カンディンスキーと意気投合し、青騎士の結成にも奔走したフランツ・マルクも36歳で戦死、マルクに師事し、クレーともチュニジア旅行を経験し、将来を嘱望されたが27歳でアウグスト・マッケもこの戦争で逝ってしまった。
毒ガスや塹壕戦などそれまでの戦争の姿を一変させた第一次世界大戦。ドイツはこの戦いで敗戦国となり、賠償に苦しみ、ナチスの台頭をゆるしていくが、失ったもののなかにはマルクらドイツ表現主義をけん引した若き画家たちも含まれていたのである。そして、生き残ったカンディンスキーらは青騎士の後、バウハウスに招請され、後進の指導にあたったが、その営みもナチスによってつぶされていく。バウハウスに移ってからのカンディンスキーはお馴染みのシュルレアリスム色が強くなっていくが、青騎士の頃はむしろ肖像画や風景画に力をいれているように見える。それもそのはず、ミュンヘンで11歳年下の教え子ガブリエーレ・ミュンターと出会い、当時妻がいたカンディンスキーは妻から逃れるようにずっとミュンターと過ごし、海外放浪も重ねていたからだ。そして、肖像画はミュンターなどを描き、風景画はミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンとアルプスのふもとムルナウに滞在し、アルプスの情景を徹底的に描いているからだ。カンディンスキーはミュンターにムルナウに家を買うようすすめ、結局カンディンスキーと別れたミュンターがムルナウに住み続け、ナチスによって退廃芸術の烙印を押され、作品が散逸したのにも関わらず、カンディンスキーの作品を守り続けたのだから歴史とは分からないものだ。そのミュンターがカンディンスキーの作品をミュンヘン市に寄贈したことによって、レーンバッハ美術館が青騎士の美術館として充実したものになったのが本展で紹介されている。
カンディンスキーらがムルナウで制作に励んでいた1909年ごろ、彼らの芸術的方向性は決定的となり、ミュンヘン新芸術家協会から分離、青騎士結成に至るのであるが、戦争で絶たれたこの短い活動は、バウハウスはもちろんのこと、ヤウレンスキーの形体主義はロトチェンコらのロシア構成主義へ、バウハウスで教鞭をとった後ドイツを追われたクレーも独自の世界を切り開いていくである。これが20世紀初頭の画壇を代表していくのであるから決して「短く」はなかったのだ。
冒頭記したように本展が「カンディンスキーとクレー展」などという催しであったなら、カンディンスキーとミュンターとの関係や、ヤウレンスキーとヴェレフキンのことまで知ることはなかったのではないか。そして早世したマルクやマッケのことも。
わずか2年弱を駆け抜けた青騎士の色遣いの激しさは、大戦という時代が流転する激しさや彼らの離合集散、出会いと訣別の激しさも内包していて有意義な本展であると思う。
(ガブリエーレ・ミュンターの肖像  カンディンスキー)
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