kenroのミニコミ

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「騙される者の責任」を問われる 山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日

2015-03-27 | 映画

思い出す度、涙を禁じ得ないノンフィクションがある。『朝暘門外の虹』(山崎朋子 岩波書店 2003)。中国北京のスラム街にクリスチャンの清水安三が、貧困の中、教育のない少女らに教育と手に職をつけるため開設した崇貞女学校。戦後、女学校をたたんだ清水が日本で開校したのが桜美林学園である。清水と二人の妻の女子教育に捧げる献身に、日中戦争の時代にこのような人がいたのだと感嘆と驚愕、そして感謝。 中国残留日本人孤児は、現在でこそ、普通に報道される名称だが、ほんの40年ほど前まで、日本政府はその存在を公式には認めていなかったのだから驚きだ。国家的事業として孤児の帰国に取り組むことになったのは、山本慈昭の運動があったからだ。山本は、長野県は阿智村の師範であり、地元長岳寺の僧侶。1945年8月の敗戦3か月前に満蒙開拓団として渡満。しかし、すぐにソ連軍の侵攻により、入植地を追われる。関東軍はいち早く逃げ出し、満州国の高級幹部家族らは、自分らだけの逃げ道を確保していたことを知る。王道楽土、五族協和と国家政策として送り出しながら、自ら渡満したのだからその地から離れるのも自己責任と棄民政策と化す天皇制軍国主義の真の姿を山本は知ることになる。逃避行の中で、次々に団員は脱落、山本自身も妻子と別れ、シベリアに抑留される。思いのほか1年6か月ほどで解放された山本は故郷に帰るが、妻子はもちろん、阿智村の入植者のほとんどは帰村していなかった。

中国で生き別れた子どもたちが、中国人に引き取られ育てられて生き永らえていることを知り、調査をはじめる慈昭。多くの手紙が慈昭のもとに届き、親に会わせたい、故郷に還らせたいと帰国運動にかけるが、厚生省は外交問題であるから外務省の管轄といい、外務省は法的問題と法務省にふり、法務省は、戸籍上消された日本人は存在しないと腰をあげない。しかし、慈昭はあきらめなかった。一人ひとり詳しい話を聞き、政府にはたらきかけ、各地で訴える。そして政府もついに中国残留日本人孤児の存在を認め、帰国活動に取り組む。しかし、残留孤児捜しの困難さとともに、帰国できたとしたとしても、日本語も話せない、肉親を覚えていない、肉親から受け入れられない、など日本で定住したとしても多くの苦労が孤児らを襲ったことはメディア等で既報のとおりである。

今一度、なぜ中国残留日本人孤児が生まれたのか、問い直してみよう。満州国はまぎれもなく日本帝国主義の領土拡張の発露であって、満州の中国人がそのような国の誕生を願っていたわけではないし、むしろ逆であった。中国の人にとっては、侵略以外のなにものでもないし、関東軍のような軍隊でない満蒙開拓団という一般人も侵略者であったのだ。慈昭もその侵略者の一員である。慈昭はそれを意識していたから、阿智村の同胞を探すと同時に日本に強制連行され、阿智村に近い天龍村の平岡ダム建設作業に従事させられ亡くなった中国人の遺骨を拾い、慰霊碑建立に奔走したのだろう。

慈昭のはたらきによって、幾人のも孤児が帰国を果たし、肉親と出会えた。しかし、日本での生活の不適応などから生活保護を受給する人も多く、国家の棄民政策によってうまれた人が救われている状況とは到底言えない。訴訟によって解決できなかった部分は、中国残留邦人支援法などによって、基本的な金銭支援がととのったとされるが、孤児一人ひとりの幸せにはつながっていないだろう。そして、何よりも国家の政策を過ちと認め、謝罪しなければならないし、それを担った、皇民化教育や開拓団としての入植をすすめた慈昭らも戦争責任を問われなければならないだろう。 慈昭は国に騙されたというのと同時に「騙される者の責任」も問うている。2013年12月に成立、昨年施行された特定秘密保護法、2014年7月の集団的自衛権行使容認閣議決定。

そして現在自衛隊の海外派兵の法整備の議論がはじまっている。「邦人保護」の名目で。関東軍の役割は満州国という「日本の生命線」を護るために派兵された。同じ轍を踏むかどうかは騙される者の責任にかかっている。

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