kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

グランドデザインの脱・社会性   イサム・ノグチ展

2006-07-26 | 美術
モエレ沼公園にはぜひ行ってみたいと思う。イサム・ノグチがそのグランドデザインの集大成とも言えるべき作品を遺し、それが死後実現されたからだけというわけではない。写真や映像でしか見たことはないが、モエレ沼公園はなにかしら惹かれるものがあるのだ、なにかこう、子どもが奈良の若草山の芝生にごろごろとでんぐり返りをするような、大人になってもそれを体験したいような、広く、あたたかく、なだらかな雰囲気がモエレ沼にはあふれているような気がしたのだ。そしてそこにはニューヨークのイサム・ノグチ美術館にはない尊大ではなく壮大な雰囲気を感じるのだ。
一方、イサム・ノグチがブランクーシの影響を多大に受けているというのは気がついていた。幾何学的、工業的ともまみえる大理石、あるいはブロンズの作品はおよそロダンが築いた近代社会を迎える人間の懊悩や、近代以前の人間の本来的に持つ苦悩(それがダンテの神曲に最大限負ったとしても)を表現した「近代彫刻」をも超えているのは明らかだ。
ただ、ボッチョーニらの未来派でもなくブランクーシはいわば人が持つ(と信じたい、あるいは信じたい)とされるある種の「崇高さ」に賭けたのだ、と思える。「空間の鳥」を(ポンピドーセンター)は、鳥ではない。磨きぬかれた尖状の黄金色に輝くブロンズが鳥であるわけがない。が、あの突き抜けた方向性、今にも飛び立たんとする躍動感は紛れもなく鳥なのだ。
イサム・ノグチの作品はブランクーシと違い、躍動感で勝負したものは少ないと思える。しかし逆に大地に拘ったのかもしれない。イサム・ノグチの作品には太陽や「無限」をモチーフにしたものが多い。日本人の父親、アメリカ人の母親のもとに生まれ、常に自己の依るべきところ、立ち位置を模索した彼のアイデンティファイを想像し、作品課題に探すことは容易い。が、イサム・ノグチは本当に自己のアイデンティティ・クライシス故に太陽や大地に回答を求めたのか。否。
後年彼の手がけたプレイグラウンドは多い。そのどれもが直線の中に曲線が見事に融和しているのがわかる。ガウディやバッサーと違うところだ。曲線=自由ばかりであると人間はときに不安だ。人間はときに直線=管理を心地よいと思うし、またそれがないと不安なときもある。しかしノグチが直線=管理から放たれようとした生き方、時に曲線世界に生きるということ、こそグランドデザインの発想の源ではなかったか。
そこには国家や偉い人たちなど思惑など超えた自然とのつきあいが展望されてるとというのは言い過ぎだろうか。モエレ沼公園はもともとゴミ埋め立て地である。
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フジタワールドで薄められたもの 藤田嗣治 展

2006-07-14 | 美術
今年は藤田嗣治の生誕120年ということで大々的な回顧展が催され、テレビや書籍/雑誌などでもよく取り上げられている。日本を離れ、フランス人として没したフジタはエコール・ド・パリの代表的な画家としてその世界的評価は高いと言う。確かに日本人でパリに渡った画家は多いが、これほど成功し、国外で名声をはした画家はフジタをおいて他にいないだろう。フジタの技量の高さは作品群を見ればよく理解できる。
今回、フジタが取り上げられたのには二つの意味があるように思える。一つは、フジタの画業がその戦争協力故に正当に評価されなかったことに対する純粋美術的観点からの再評価という点。いま一つは、イラクに自衛隊が出兵、憲法9条の「改正」が企図される今日の政治的状況の中での日中戦争や太平洋戦争を描いた画家(画業)の称揚という点。2点目については異論もあるだろう。けれど、なにかと15年戦争を「聖戦」と言いたい人たちにとっては、芸術的成功をおさめ、すでにばりばりの西洋かぶれ(フランスはもちろんドイツに占領された(連合国)側である)であったフジタも日本人として国に尽くすと言うことを画家として示した点を取り上げたいのではなかろうか。
1940年に帰国し、従軍画家として働き始めたフジタはすでに世界的に有名、その力を十分に認められたから従軍画家を要請されたのだった。無名画家が国威発揚、軍の戦果鼓吹に利用されるわけがない。そして乳白色の女性像の達人としてその並外れたデッサン力は戦争絵画に遺憾なく発揮されたのである。
「アッツ島玉砕」(1943年)は、フジタの戦争絵画の中でも特に有名で、「フジタの絵は、戦争絵画以外はすべてクズだ。」(州之内徹の発言 『戦争と美術』司修 著 岩波新書)と言わしめるほど迫力に満ちていて、印象主義が欧州画壇を席巻後、20世紀を境にキュビズムやシュルレアリズムが全盛の世の中でドラクロアやジェリコを彷彿とさせるほど迫力のあるロマン主義的戦争画をものにしたのはフジタ以外にはない、という事実があるのかもしれない。が、「アッツ島玉砕」を代表作としてフジタの戦争中の画業と言えば「大東亜戦争画」の数々である。
「大東亜戦争画」というのは、当時「聖戦美術」として従軍画家らに数多く描かれ、戦後国立西洋美術館などに封印された作品群である。今回、「アッツ島玉砕」もその代表作として封印が解かれたわけであるが、ナチスドイツに積極的に協力した画家たちの作品が、善し悪しは別にして今だ封印されていることの違いはとても興味深い、
「アッツ島玉砕」は一作品として見るならば確かに迫力のある描写である。この作品について戦場の臨場感を伝え、むしろフジタの反戦的意図さえ垣間見えると言う向きもあるようであるが、そうは思えない。というのは2度の大戦を経験し、その「反軍的描写」によってナチスに迫害された画家、オットー・ディックスの作品と比べてみるとフジタの絵はあまりにも美しいからだ。
第1次大戦後、戦場の模様を描きただしたディックスは、毒ガスや塹壕など近代戦争の完成形である第1次大戦の悲惨な現場を、醜悪なものとして描き切った。それもそのはず、ディックスは第2次大戦にも従軍しているが「従軍画家」などという恵まれた境遇ではない一兵士として従軍したからだ。
フジタには戦争の美しい(と戦意鼓舞される)場面しか見えていない。いや、そのような画面しか描くことを許されなかったのでもあろう。が、しかし、すぐれた技量を持つが故に、乳白色の美人像や渡世の素人の逞しい様を描くように、戦争の実態を上から見下ろし描いたのがフジタの戦争協力ではなかったか。
フジタの再評価は大事である。戦後、猪熊弦一郎らとともに「美術家の戦争責任」の矢面に立たされたフジタは、そのような日本画壇に嫌気がさし49年フランスへ出国、55年フランス国籍を取得し二度と日本の地を踏まなかった。そのようなフジタの行動の、戦争責任追及からの脱出とも見える行動の再点検=画業の俯瞰的評価と、フジタの能力の再評価(乳白色の裸婦像はやはり「美しく」、フジタの好んだ猫の姿はとても愛くるしく、そして怖い)とは別物であるはずである。
今回の「藤田嗣治展」で抜け落ちている視点とは、言わば「悔恨の曇りのなさ」なのである。

「(藤田は)戦争ゴッコに夢中になり、画面(『アッツ島玉砕』の図)の横に立って大真面目な芝居を娯しんでいるのではなかったか」(野見山暁治)。
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侯孝賢「非情城市」と陳進展

2006-07-02 | 映画
侯孝賢(ホウ・シャオシエン)の作品はほとんど見たが、やはり「非情城市」を超える作品はできないのではないかと、本作を改めて見て思ったものだ。台湾現代史の3部作として1本目に撮られたのが1945年に日本敗戦=台湾の植民地支配の終焉から1949年の国民党支配までを描いたのが「非情城市」である。89年の本作は、トップスターになる前のトニー・レオンや台湾伝統の人形芝居の至宝であり、台湾映画界の重鎮であった今は亡き李天祿(リー・ティエンルー)、侯孝賢の秘蔵っ子であったが結婚し台湾を離れた辛樹芬(シン・シューフェン)など懐かしい面々が出てくる。ほかにもたくさんの登場人物ですぐには分かりにくい人間関係と時代背景。しかし、これが台湾現代史の汚点であり、今も大きなタブーの一つである「2・28事件」を描いたことを知っておれば、侯孝賢の特徴である静かなロングショットの多用、少ない台詞、少し暗い画面も苦もなく最後まで引き込まれる。
「2・28事件」とは、47年2月27日中国本土から来た(外省人)警官がヤミ煙草の販売をめぐって現地の女性(内省人)を射殺したのがきっかけとなり、外省人と内省人の衝突が台湾全土に及んだ事件である。この事件を機に中国本土で毛沢東の共産党に敗れた国民党が台湾に逃れ実効支配(49年)。内省人に対する弾圧を強め、その死者3万人とも言われるが、87年の戒厳令解除まで事件があったことさえ口に出すことはできず、映画では文清役のトニー・レオン、文清の友人で反国民党派の寛榮(辛樹芬=寛美の兄)やその友人の記者、知識人全員が捕らえられ、帰らぬ人となる。
北京語がしゃべられなかったトニー・レオンが聾唖の役をし(当時の台湾が日本語教育から北京語教育に急激に舵取りを変えたあたりがよくわかる)、長兄のやくざ家業とは違い、写真店を営み、おとなしく誠実な人柄に寛美が惹かれ、やがて結婚し子供もできるが、49年に文清も知識人らの友人というだけで反体制と見做され捕らえられるところで映画は終わる。
作品は文清が4男である林家の歴史を描き、次々に人が倒れ、また生まれる様を描くが、本筋はもちろん2・28事件の前後に垣間見える台湾人の抑圧された感情=日本帝国主義の支配から逃れられたと思ったら、中国国民党支配へ、日本支配の頃には散々苦しい目にあったにもかかわらず、国民党支配の前では「日本時代はよかった」などという複雑な感情。大国に支配されるばかりの島国で生き残っていく庶民の知恵など抑えたカメラが事細かに当時の台湾人一人一人の息遣いを伝えるようである。
侯孝賢は、本作を撮る以前すでに「風櫃の少年」や「恋恋風塵」の切ない系、「川の流れに草は青々」や「冬冬トントンの夏休み」など台湾の美しい山河を背景に子どもらの成長を描いた叙情的な作品で名を馳せていたが、「非情城市」と「戯夢人生」(93年)、そして「好男好女」で台湾現代史を描ききった。ただ、「好男好女」やその後の作品(「華様年華」や「フラワー オブ 上海」など)はいわば内にこもりすぎて分かりづらい。そして小津安二郎へのオマージュとうたった全編日本撮影にかかる「珈琲時候」はすべったように見える。
完成度という点ではピカ一と思える「非情城市」を今回見直して浮かんだのがテオ・アンゲロプロスの作品(「旅芸人の記録」「エレニの旅」など)。アンゲロプロスの作品は土地を追われた者たちの悲哀を描くが、「非情城市」も市井に生きる庶民の悲哀、国家権力の横暴の前になす術もなく斃れていく人たち描いている点では同じだ。淡々とした描き方こそ胸に迫るものがある。
実は今頃「非情城市」を見られたのは、兵庫県立美術館の「陳進展」開催に合わせた特別上映であったから。日本画にはあまり興味がなかったのだが、台湾出身の陳進が描く日本画は細やかでとても美しい。ただ、若い頃は斬新な画題を選んでいた陳進が、後半は画題に母と子など家族の情愛を描いたものにかたよってしまったことに少し寂しさを感ずる。そして会場出口の図録売り場のそばに「自由主義史観」の小林よしのりが李登輝総統と握手する様が表紙の書籍がずらりと並んでいるのにはげんなりした。

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