ニューヨークは現代アートのメッカである。筆者もNYを訪れた際、ギャラリーをぶらぶらした。暑い夏の真っ盛りでお休みのギャラリーも多かったが、そこで、ばったりNY在住のアーティスト日影眩氏に遭い、ちょうどレセプション最中のギャラリーに連れて行ってもらった。そこでタダのワインを一杯だけご馳走になり、別のギャラリーへとはしごしたものだ。
SOHOやトライベッキヤなどギャラリーの集まる界隈は、やはりスタイリッシュでどこかスノビッシュだ、と思う。けれど、ヴォーゲル夫妻はどこか泥臭い。泥臭いとまでは言わないまでも、全然あか抜けていない。そのあか抜けていない二人がNYのギャラリーを毎日毎日歩き回って、まだ売れていなかったアーティストの作品を買いまくったというのだから驚きだ。その数4000点超。もちろん、アートの最先端であるSOHOなりのギャラリーがはじめからスタイリッシュでスノビッシュであったわけではないだろう。ハーブ&ドロシーが見出したときはみんな貧乏アーティスト(駆け出しも)だったのだろう。それが成功するかどうかなんて誰にも分からない。けれど、ハーブ&ドロシーは買い続けた。そして、今や多くのアーティストは成功し、その作品価格は、二人が老後を大きな邸宅で過ごすだけの価値を生むものになっている。
けれど、それをしなかったこと、その膨大な収集をワシントン・ナショナル・ギャラリーに無償で寄贈したことがハーブ&ドロシーの素敵さをさらに物語っている。いや、それは分かり切っていたことである。投資や儲け目的であれば、とうに作品は売り飛ばしているし、もっと広い家で「優雅に」生活していたはずである、二人は。1LDKのアパートに住まう二入はアート収集以外のことはあまり気にかけていないようである。想像だが食事も質素で、ファッションに気を付けているようにも見えない。けれど、猫をはじめ、亀や熱帯魚もおり、ドロシーは観劇も趣味というし、大きな家と子どもがいない分、それなりの豊かさを享受していたといえるのではないか。それを凡人は家が、別荘が、車が、ディナーが、クルーズがなどと詮索するが、二人にとってこの上ないぜいたく。それが現代アート収集であるのだ。
アート趣味の筆者としては恥ずかしいが、登場するアーティストは知らない人ばかり。わずかにクリストとジャンヌ・クロードくらいか。言い訳になるが、コンテンポラリーアートの面々は現在も活躍中であり、日本で「回顧展」が開かれることは現在のところ皆無だ(少なくとも関西の美術館では)。NYアートシーンをチェックする仕事でもしていない限り、それらの仕事をコンテンポラリーに覚知、評価することは難しい。ましてやミニマルアート、コンセプチュアルアートは日本ではたいがい分が悪い。しかし、それは一般的に人気があるか?という意味であって、美術館レベルでは意欲的な企画もある。もう随分前だと思うが京都国立近代美術館だったか「ミニマル・マキシマル」と称してミニマルアートのそれこそ体系的な企画展があった。ミニマルアートというとどうしてもその名が冠せられる前、50年代に登場したフランク・ステラの仕事に興味がゆき、「ミニマル」の仕事たる小さな画面に細密な幾何学形、という作品はよく知らなかったのだ。
ステラの仕事はある意味簡明だ。しかし、作品はいかんせん大きい。個人の家に飾るような代物ではない。それがミニマルの時代、ヴォーゲル家にも置けるような作品が増えたのだから福としよう。
ミニマルに続くコンセプチュアルアートは難解だと言われる。しかし、本作の主要アーティスト、ソル・ウィットは「アートに重要なのものは作家のアイデアやコンセプトであり、完成品は二の次だ」と言っていることからも分かるように、(制作)過程がアートなのであって、展示されたとき、その作品の重要な要素はすでにないことになる。
ハーブ&ドロシーにとってもそうだろう。収集が自分たちの趣味あるいは達成感であって、見せびらかすのは、ましてやそれで金儲けするのは「アート」の範疇ではないと。アートとは何か、コレクターとは何か、美術愛好家とは何か? 理屈とは別の世界で成立する「アート」の奥深さと魅力にまた虜になった人たち。
ああ、NYに行きたくなった。筆者もハーブ&ドロシーのように「病膏肓に入る」と生きたいものだが。
SOHOやトライベッキヤなどギャラリーの集まる界隈は、やはりスタイリッシュでどこかスノビッシュだ、と思う。けれど、ヴォーゲル夫妻はどこか泥臭い。泥臭いとまでは言わないまでも、全然あか抜けていない。そのあか抜けていない二人がNYのギャラリーを毎日毎日歩き回って、まだ売れていなかったアーティストの作品を買いまくったというのだから驚きだ。その数4000点超。もちろん、アートの最先端であるSOHOなりのギャラリーがはじめからスタイリッシュでスノビッシュであったわけではないだろう。ハーブ&ドロシーが見出したときはみんな貧乏アーティスト(駆け出しも)だったのだろう。それが成功するかどうかなんて誰にも分からない。けれど、ハーブ&ドロシーは買い続けた。そして、今や多くのアーティストは成功し、その作品価格は、二人が老後を大きな邸宅で過ごすだけの価値を生むものになっている。
けれど、それをしなかったこと、その膨大な収集をワシントン・ナショナル・ギャラリーに無償で寄贈したことがハーブ&ドロシーの素敵さをさらに物語っている。いや、それは分かり切っていたことである。投資や儲け目的であれば、とうに作品は売り飛ばしているし、もっと広い家で「優雅に」生活していたはずである、二人は。1LDKのアパートに住まう二入はアート収集以外のことはあまり気にかけていないようである。想像だが食事も質素で、ファッションに気を付けているようにも見えない。けれど、猫をはじめ、亀や熱帯魚もおり、ドロシーは観劇も趣味というし、大きな家と子どもがいない分、それなりの豊かさを享受していたといえるのではないか。それを凡人は家が、別荘が、車が、ディナーが、クルーズがなどと詮索するが、二人にとってこの上ないぜいたく。それが現代アート収集であるのだ。
アート趣味の筆者としては恥ずかしいが、登場するアーティストは知らない人ばかり。わずかにクリストとジャンヌ・クロードくらいか。言い訳になるが、コンテンポラリーアートの面々は現在も活躍中であり、日本で「回顧展」が開かれることは現在のところ皆無だ(少なくとも関西の美術館では)。NYアートシーンをチェックする仕事でもしていない限り、それらの仕事をコンテンポラリーに覚知、評価することは難しい。ましてやミニマルアート、コンセプチュアルアートは日本ではたいがい分が悪い。しかし、それは一般的に人気があるか?という意味であって、美術館レベルでは意欲的な企画もある。もう随分前だと思うが京都国立近代美術館だったか「ミニマル・マキシマル」と称してミニマルアートのそれこそ体系的な企画展があった。ミニマルアートというとどうしてもその名が冠せられる前、50年代に登場したフランク・ステラの仕事に興味がゆき、「ミニマル」の仕事たる小さな画面に細密な幾何学形、という作品はよく知らなかったのだ。
ステラの仕事はある意味簡明だ。しかし、作品はいかんせん大きい。個人の家に飾るような代物ではない。それがミニマルの時代、ヴォーゲル家にも置けるような作品が増えたのだから福としよう。
ミニマルに続くコンセプチュアルアートは難解だと言われる。しかし、本作の主要アーティスト、ソル・ウィットは「アートに重要なのものは作家のアイデアやコンセプトであり、完成品は二の次だ」と言っていることからも分かるように、(制作)過程がアートなのであって、展示されたとき、その作品の重要な要素はすでにないことになる。
ハーブ&ドロシーにとってもそうだろう。収集が自分たちの趣味あるいは達成感であって、見せびらかすのは、ましてやそれで金儲けするのは「アート」の範疇ではないと。アートとは何か、コレクターとは何か、美術愛好家とは何か? 理屈とは別の世界で成立する「アート」の奥深さと魅力にまた虜になった人たち。
ああ、NYに行きたくなった。筆者もハーブ&ドロシーのように「病膏肓に入る」と生きたいものだが。