kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

落ちる壁と墜ちない壁(ボーダー)   シリアの花嫁

2009-03-15 | 映画
2004年制作の本作は、モントリオール国際映画祭でグランプリをやエキュメニカル賞を獲るなど、数々の映画賞を獲得し、評価の高さはつとに知られ、日本でも早くから紹介されていたが、岩波ホールでやっと公開され、岩波は遠いわれわれもやっとまみえることができた。
筆者よりはるかに深い洞察の映画評論、中東情勢への言及も多い他の方のブログでたくさん紹介されているので、ストーリーや作品の背景を改めて解説することは要しないと思うが、感じたことを数点。それは本作を彩る「壁」についてである。
描かれているのはイスラエルの不法占領の地ゴラン高原(イスラエルは自国地だとしてシリア側からのこの地名さえも認めていない)に住まう人々が、イスラエル国籍を選択しなかったため「無国籍」となり、いったんその地を離れイスラエルと国交のないシリア側に行ってしまえば二度と帰ることはできないといういわば物理的、国家的な壁が一つ。もう一つは、家父長制の強い世界で父親や夫は絶対であるのにそれに異議申し立てを行う娘や妻、そして村を捨ててロシア人(異教徒)と結婚したため勘当されている息子らに去来する心の壁。
さらに、用意万端整ったのにもかかわらずイスラエル側とシリア側の入出(国)事務を司る役人らの頑なな姿が示す市井の人たちと国家を背負う人たちとの意識の壁。
真ん中の壁だけは、親子の和解や、古く頑迷な夫を見捨て自立をめざす主人公の女性の姿やそれを応援する娘らをみれば、ある程度溶解するかのようにも見える。そして、3番目の壁はその時々担当をしていた役人により壁が低くなりうることもかいま見えた。
しかし、最初の壁だけは容易には墜ちない。大きな物言いでいうと現在ガザでおこっていること、ヤマアラシ国家イスラエルが隣国に巻き起こす不法占領や侵略が放置され、容認(もちろんアメリカ)されているかぎりこの壁は墜ちないだろう。
ラスト、この日には「結婚」できそうにない花嫁が許可も得ず、境界(国境ではない、決して)越えるシーン。この後撃ち殺されるかもしれないのに自分が選んだわけでもない、映像でしか見たこともない夫のもとへ歩をすすめる新婦の決然とした表情とそれを見送る花嫁の姉、主人公のアマルの表情に1番目の壁など取るに足らないもの、そしてそれがいかに空虚なものか判明してしまう。ましてや家父長制のジェンダーなど。
ホロコースト以前から民族としての国家を持ち得ず、地政学的に無理矢理つくられた国家イスラエルはユダヤ人の国であるが、イスラエルに住まうユダヤ人はおよそ80%。それ以外はアラブ人などであるという事実がイスラエルという国の出自の無理矢理さをより強調しているようにも思える。しかし、イスラエルがイスラエルたり得るためには、そのヤマアラシ性を強化することにしかなかったのも事実だ。
イスラエルが、第三次中東戦争でシリア領であったゴラン高原を占領したことを忘れてはならない。膨張国家とその周辺で新たな悲しみを増やす人たちの存在に、ゴラン高原に自衛隊まで派遣している日本の民として気づかない振りもまた許されない。
ただ、深刻なテーマにもかかわらずさすがはたくさんの評価(賞)を獲得した本作は、重すぎず時にユーモアももれるすばらしい作品である。
ディアスポラ映画の秀作をまた手に入れた。
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戦争の実相と想像力   チェチェンへ アレクサンドラの旅

2009-03-08 | 映画
14年前、阪神淡路大震災のとき地震後すぐに神戸市須磨区や長田区の街を歩き回った。JR鷹取駅から新長田駅、山陽電鉄板宿駅から西代駅界隈はいたるところ焼け野原で、爆撃を受けた戦場とはこういうものなんだろうと感じたことを覚えている。まだ街の復興にはほど遠いその日は何の槌音も聞こえず、冬空にしんと静まり返り、焼け落ちたがれきが弱く揺れている音だけが聞こえるような、そんな荒涼とした風景だった。
「チェチェンへ アレクサンドラの旅」は戦争映画でありながら、戦闘シーンも、傷つき斃れていく人の姿も一切ない。装甲車や兵士が銃を手入れするシーン、アレクサンドラが世話になるチェチェン人女性の住まうアパートが砲弾のあとを残すシーンにここが戦場であり、今なお戦争状態にあることがかいま見えるだけである。普通戦争映画というとハリウッドナイズされた私たちにとって、爆弾が炸裂し、人が吹き飛ばされ、撃たれた兵士がスローモーションで倒れるというよく考えればうそ臭いシーンにあふれているものだ。しかし本当の戦争とは、今現在戦時下にある人にとって戦争とは、爆撃シーンばかりではない。もちろん、クラスター爆弾など非戦闘市民を無差別に殺戮する兵器告発の場として、爆撃シーンは必要な時もあろう。しかし、戦時下の市民にとって日々の営みこそが戦争と不可分であることこそ、戦争の無残さ、無益さの証であることを本作は伝えている。
アレクサンドラはチェチェンに駐留する将校の孫デニスに会いに来る。禁止されていることも多いが、ロシアでは家族が駐留している息子などに会いに行くことは珍しいことではないらしい。そうやってロシアの戦争を正当化、正義付けすることもあるであろうし、前線の兵士の志気を維持する目論見もあるのであろう。7年ぶりに会う孫はおばあちゃんに甘えまくる。しかし祖母の「人を殺してきたの」という問いには答えない。この映画でもっとも美しいとされるシーン、孫が祖母の髪を編むしぐさにいとおしさが伝わってくるが、その手は先ほど銃を手入れし、チェチェン人を殺してきたかもしれない手であることにうすら寒さを覚える。
駐屯地から市場に出て気分の悪くなったアレクサンドラは地元のチェチェン人マリカに助けられ、お茶も振る舞われる。市場は駐留するロシア人兵士がいなければなりたたないのも事実で、チェチェンの若者はロシア人に反感を露にしているが、マリカに言われてアレクサンドラを駐屯地まで送り届ける若者は将来の希望、展望も見いだせない表情でありながらロシア人(兵士を孫に持つ)アレクサンドラにとてもやさしい。そう、戦争とは民間人同士だけではおこらないし、拡大しない。それを利用したり、煽ったりする者がいてはじめて「戦争」足りえるのだ。
特に劇的なシーンも感動的なシーンもない中で、アレクサンドラが帰途の列車に乗り込むとき、ほんのわずかな時間をふれあったアレクサンドラと市場、アパートの住人たちが抱きあうシーンにはほろりとしてしまった。この人たちは殺し合いたくないのだというのがあっさり分かる反戦のシーンでもある。
チェチェン紛争を手短に語ることは難しい。しかし、黒海とカスピ海の間にあり、石油パイプラインの敷設された要衝地で、イスラム系のチェチェン人(カフカス)の独立を絶対許さないプーチン政権が、圧力をかけ続けている構図というのは間違いない。たとえそれが北オセチアはベスランの学校襲撃事件に代表されるようにイスラム「過激派」の存在を非難した上であったとしても。
戦争の実相は一人アレクサンドラのつぶやきで十分表現されている。こんなことをして何になるのかと。
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「知らない」言い訳を自覚   『ダルフールの通訳 ジェノサイドの目撃者』

2009-03-01 | 書籍
ここ数年の新聞などメディア上で「ダルフール危機は今世紀になって最大の人道的危機」と報道されているのに筆者のみならず気づいた人も多いはずだ。「見捨てられた土地」アフリカでは欧米の介入・非介入によってわずかの期間に数十万人以上の犠牲者を生んでいる。ルワンダの実相は映画になり(「ホテル・ルワンダ」や「ルワンダの涙」)、私たちアフリカから遠い(というか、意識として遠ざけているのであるが)日本の人間にとって改めて現在、私たちが生きている同じこの時代、地球上でジェノサイドがくり返し行われていることに戦慄を覚えざるを得ない。
ガザやチェチェン、チベット、あるいは米軍による爆撃などの犠牲者が出ているイラクやアフガニスタンも等しく目を向けるべきであるのかもしれないが、アフリカについての報道はそれらに比べて圧倒的に少ない。
聞き取れない部分ばかりだけれども、ヨーロッパに旅行した時など現地語はさっぱりなのでホテルでBBCニュースをつけっぱなしにしていることが多い。日本と違ってアフリカや中東の内戦や戦闘のニュースが多いように思う。ルワンダについてはベルギーなど旧宗主国の関係があるのかもしれないが、スーダンは今回の危機に限ってはその影響が強いとは報道されていないようである。(ルワンダで国連軍として派遣されながら、「介入」できなかったため犠牲者が出るにまかせるのを見守るしかなかったカナダ人ロメオ・ダレールの書『悪魔との握手──ルワンダにおける人道の失敗』(日本語版未)はそのもどかしさと、それ故PTSDにかかったことを自白していると「ものろぎや・そりてえる」(http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_5e5a.html)さんのブログで知った。感謝。)。しかし、本書の筆者ダウド・ハリによれば国連の介入が遅れたのはスーダン近辺への武器輸出と資源権益を持つ常任理事国中国のせいであるという。そういえば「ホテル・ルワンダ」で中国からとおぼしき積み荷から大量のナタがこぼれ出てきたシーンがあった。 自分の手を汚さない武器輸出大国といえばスウェーデンなど北欧が有名であったが、今や米、ロシアと並んで中国の武器輸出はとどまるところをしらないのかもしれない。
ダウド・ハリは兄をはじめ親族を殺され、村を破壊された「ダルフール危機」の典型的な被害者である。ハリが銃を持ち、ジャンジャウィード(イスラム系民兵と説明されることが多いようである)や反政府組織に復讐することも可能であったが、ハリはそうしなかった。得意の英語を駆使して世界にダルフールの実情をジャーナリストを通じて知らせることで、復讐ではないが、自分の存在意義を確かめようとしたのである。
ダウドと彼が案内した欧米のジャーナリストが目にしたジェノサイドの実態、酸鼻を極める死体の山、ちぎれた腕、胴体、足。村を守ろうとして木の上で待ち伏せし、襲撃者の銃にたおれ、そのまま腐って体の一部がハリらの頭に降ってくる様…。
私たちは現実に起こっているジェノサイドをあまりにも知らなすぎる。その責任は誰であるのか、それを止めることができない程度の文明しか持たないことを。西側のジャーナリストを案内したため、政府軍より処刑される寸前で助かったハリらを救ったのはアメリカのジャーナリズムとそれを支えるポリティシャンであったという。現在、ハリはアメリカに逃れ、自分を救ってくれたアメリカに感謝しきりである。その「アメリカ」は同時にガザの住民を無差別殺戮するイスラエルを武器も含めて全面支援する。
イラクへからの撤兵を具体的に示したオバマ大統領を固める閣僚はヒラリー・クリントン国務長官をはじめとして親イスラエル(ロビー)が多いという。大国のダブル、いやそれ以上の、スタンダードの前にジェノサイドが潰える日は遠い。
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