kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「静かなる詩情」への近接   ハンマースホイとの初対面

2008-12-31 | 美術
デンマークで思い浮かぶのは? 人魚姫、クッキー、高福祉、そしてチーズ。アンデルセンの国ではあるが、美術系では恥ずかしながら何も知らない。北欧のイメージというとノルウェ-のムンク、ロッタちゃんのリンドグレーンはスウェーデン、ムーミンはフィンランドでデンマークってアートがあるのか?という無知をあざ笑う(とは正反対であるが)静かなヴィルヘルム・ハンマースホイの登場である。
ハンマースホイは印象派の画家や、それに続くエコール・ド・パリの面々がそうであったように祖国を離れ、パリの地で画業を大成した画家とは違い、パリやローマ、ロンドンなどに滞在はしているが、結局デンマークに帰り、生涯そこで過ごし(それもストランゲーゼ30番地という私宅、きわめて狭い空間。後述。)、そこで没している。もっとも、海外での「滞在」は、イギリスを除いて列車での移動が可能な比較的行きやすいところであったのに、ときに半年以上も費やし、パリではルーブル美術館、ロンドンでは大英博物館などと重要な美術作品と対面するため通いつめるための「滞在」であったようである。

子どもの頃から比類なき画才を認められ、若くしてデンマークを代表する画家になれたのに、有名であったが評判も悪かったようである。というのは、彼を知る人(画家仲間ももちろん)たちは一様に彼を「内向的」ときに「変人」と表しているからである。彼の絵は静謐そのものと表されるが、彼の生活そのものが静謐であったから。
ハンマースホイの代表作は「ストランゲーゼ30番地」。いくつも描かれているこの作品群はどれも「誰もいない室内」。何度も描いた後ろ姿の妻イーダの姿さえない。誰もいないどころか、机、イス、ストーブくらいしかない。本当に素っ気ない、ただの簡素な室内である。「ストランゲーゼ30番地」を対象に描く以前は風景画も描いていて、人物像も妹をモデルにした肖像画など、人を正面から見据えて描いていたのに、「ストランゲーゼ30番地」に引っ込んでからは(まさに「引っ込んで」いたようである)イーダの後ろ姿が時折出てくるくらいで、ついにはイーダの姿さえなくなる「誰もいない部屋」ばかり。
が、不思議と暗さや悲壮感とは無縁で、ただ単に静謐を絵にしたらこうなったという程度のことかもしれない。筆者はクレーを取り上げた際に、クレーの作品からは音楽が聞こえてくると表したが、ハンマースホイの作品はまさにその逆である。神経症を病んでいたとも伝えられるハンマースホイは、若い頃はイーダをともなって盛んに海外渡航(制作)も行っていたが、その生涯を代表する作品群の大半は「ストランゲーゼ30番地」を題材にしたものである。作品展では、「ストランゲーゼ30番地」の居宅のどの方向からどの部屋を描いたものか知ることのできるヴァーチャルリアリスティックな試みも用意されていたが、これほどまでに自宅のほとんど何もない部屋を執拗に描いたことに執念と不気味さを感じてしまう。が、静謐さの中にある真実とも呼ぶべき正体が彼の描きたかったものではないだろうか。
宗教画でも、肖像画でも、風俗画でも、風景画でもなく、ただ単に自宅を描くことに拘ったハンマースホイ。一見狭いとまみえる題材にもハンマースホイは広い「世界」を見ていたのかもしれない。だから、100年後の私たちの眼前に広がっても古びない魅力を保持しているのだろう。
(室内 ストランゲーゼ30番地)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デルフト・スタイルの秀逸と卓越  フェルメール展(東京都美術館)

2008-12-13 | 美術
「小路」は、「真珠の耳飾りの少女」や「絵画芸術」よりも傑作である。
フェルメールを語るとき、あまりにも有名な後2作よりもフェルメールがデルフトの一地方画家であることを示す確認、そして称揚するものとして語られることがあることを知っている。それほどまでにフェルメールがデルフトというオランダの一地方出身の画家であり、彼の作品が30数点しか確認されておらず、にもかかわらず作品に魅了されている人が多いということを認識されているからだろう。 
フェルメールは英国の美男コリン・ファースと米国の若手トップのスカーレット・ヨハンセンを擁したにもかかわらず凡作に終わったと評される「真珠の耳飾りの少女」の映画化や、昨今の人気からも見て分かるように今や大人気である。「真珠の…」を擁するハーグはマウリッツハイス美術館には日本人観光客も押し寄せているとか。
本展は、フェルメールの周囲を丹念にたどっている。その証として港町として成功したデルフトの紹介、フェルメールをはじめそこから輩出した画家たち。アムステルダムはもちろんのこと、レイデンやロッテルダムなどデルフトよりはるかに大きな町にも比して商業都市としてある程度成功したデルフト。毛織物、タペストリー、デルフト焼。しかし国際貿易競争でもレイデンなどに負け、しかも1654年火薬庫の大爆発で町は廃墟と化す。
繁栄を謳歌し続けることができなかったデルフトで、フェルメールと彼と作風が同傾向の画家が多く活動する。なかでもカレル・ファブリティウス、ピーテル・デ・ホーホはまさしくフェルメールと同時代に活躍した画家であるが、もちろんフェルメールほどには日本では知られていない。しかし、ファブリティウスはレンブラントの「最も革新的な弟子」と言われ、評価が正当に高くないのはあまりにも少ない現存作品数であると言う。光の画家レンブラントの劇的な描画法を体得しつつ、デルフト・スタイルと言われる静かな都市景観を描きあげたファブリティウスは火薬庫大爆発によって32歳で夭折したからだ。
屋内風俗画の多寡ではフェルメールをはるかに凌ぐデ・ホーホは、その数の多さ故評価が低かった面もある。これは、フェルメールの「発見」以降、透視画法や光(遠近法)の使い方でフェルメールを凌げないと目されたからで、デルフト・スタイルへの貢献度がなんら減じることはない。借金と家業(妻の母方の宿屋の集金業)に追われながらも静謐な仕事を半ば隠遁生活の中で遂げたフェルメールが後進を育て得なかったのに比して、デ・ホーホは「デ・ホーホ派」と言われるくらい後進に影響を与えた。が、デ・ホーホも弟子は取らなかったとされる。中世の画業がもっぱら王侯貴族丸抱えから、大規模な工房を抱え商人らの注文にも応じた近代的な形態へと変化する中で、デルフト・スタイルの画家らは金銭的には恵まれた環境とは言えなかったようである。もっともレンブラントも成功と同時に諸国万有の珍品を蒐集しすぎたあまり破産したのは有名で、フェルメールも彼の死後、相続人は「絵画芸術」を残してほとんど手放さざるを得なかったほど苦しかったようである。一方デ・ホーホはなんらかのパトロンを得ていたため、作品もちゃんと残り、影響を受けた弟子も育ったのではなかろうか。
そしてフェルメールである。本展で確認できるのはやはりデ・ホーホよりも後期デルフト・スタイルの画家らの作品よりもフェルメールの卓越である。透視画法も光遠近法もカメラ・オブ・スキュラを使用しつくしたとされるフェルメールの手にかかれば、他の画家を差し置いてあまりある。それは、フェルメールが有名であるからではない。もちろん、30数点のフェルメール作品の中でそれほどではない作品もある。しかし、本展は初期の宗教作品「マルタとマリアの家のキリスト」から「小路」を経て「絵画芸術」まで、フェルメールの卓越を再確認、そしてその前提となるデルフト・スタイルの画業が一望できるのである。
「小路」から始まった、デルフトというオランダ中商業都市の成功と衰退がかいま見える本展である。(リュートを調弦する女)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする