サリー・ポッターはマイノリティにスポットを当てる作品に特化しているように思える。そして、それらマノリティに向ける眼差しは優しくはないが社会啓発的でもない。「耳に残るは君の歌声」はナチスドイツが伸長した時代にユダヤ人とロマの明日のない愛を描いて見せたのが強く印象に残っているからだ。しかし、ダンサーであり、振付師、詩人、ミュージシャンそして脚本家、女優、映画監督とマルチタレントであるポッターはそのような枠組みには定まらない人なのだろう。未見だが「オルランド」では、ヴァージニア・ウルフの難解作を超越的に描いて見せた(何せ時空を超えて主人公は性も変わる)ことからも明らかに「とらわれないのない」発想、描写の人というのが当たっているのかもしれない。
詩人であるポッターが本作で重視したのは韻律。分子生物学者で地位的には成功している「彼女」は夫との仲はがたがた、そして「彼」はレバノンからの移民、本国では外科医であったがロンドンではコックとして働いている。「彼女」と「彼」の逢瀬の度につづられるオーラルカンバーセーションは美しい韻を踏み、そして時に哲学的問答をも誘発する。でも愛の言葉には違いない。
実はケンローチニスト(なんてあるのか)の私は、イギリス人のポッターが移民社会の不安定性、それに対する政策的不確実性を描こうとして本作を撮ったと理解していた。そのような面もないことはないだろう。「彼女」はアイルランド出身で彼女を育ててくれた叔母はコミュニスト、死に間際に現代で唯一革命に成功した(と思っている)キューバに行きたいと願う境遇であるし、「彼」は中東のバルカン半島とも言うべきレバノンはベイルート出身。隣国シリアが政権を左右し、南にイスラエル、ヨルダンと隣接し、国内にはPLO、対岸にはキプロスまで抱える美しくも悲しい小国レバノン。そこで「彼」は国の将来に絶望し、イギリスに渡るのだが、職場のもめ事で職を失い10数年ぶりにレバノンに還る。そこに「彼女」から電話「キューバで待っている」。
美しい。もちろん主演のジョアン・アレンは中年の美しさ(もともと美人だろうが)がすばらしく、「アララトの聖母」で渋い役回りだった「彼」サイモン・アブカリアンも味がある。アブカリアン自信はフランス生まれレバノン育ちのアメリカ人と言うから中東とヨーロッパの移民社会の標本を見るようだ。
「韻」が美しいと書いたが、本作の狂言まわし(?)は本題からは見捨てられた、あるいは見えないことになっている家政婦や掃除婦たち。彼女らこそ、「彼女」や「彼」、あるいは「彼女」の夫の日常の機微を的確かつ辛辣に捉えているところが苦笑ものだ。答えのないフランス映画を思わせるような幕切れ。一時に走る愛は当人にとってはとてつもなく美しく、そしてまた残酷だ。
とまどいながらも溺れること。イギリス、ロンドンと言う高度資本主義、消費社会の中にあって「純愛」とも呼ぶべき滑稽さ、それゆえの痛さ。だからこそ「彼女」と「彼」には物語が生まれたのだ。
詩人であるポッターが本作で重視したのは韻律。分子生物学者で地位的には成功している「彼女」は夫との仲はがたがた、そして「彼」はレバノンからの移民、本国では外科医であったがロンドンではコックとして働いている。「彼女」と「彼」の逢瀬の度につづられるオーラルカンバーセーションは美しい韻を踏み、そして時に哲学的問答をも誘発する。でも愛の言葉には違いない。
実はケンローチニスト(なんてあるのか)の私は、イギリス人のポッターが移民社会の不安定性、それに対する政策的不確実性を描こうとして本作を撮ったと理解していた。そのような面もないことはないだろう。「彼女」はアイルランド出身で彼女を育ててくれた叔母はコミュニスト、死に間際に現代で唯一革命に成功した(と思っている)キューバに行きたいと願う境遇であるし、「彼」は中東のバルカン半島とも言うべきレバノンはベイルート出身。隣国シリアが政権を左右し、南にイスラエル、ヨルダンと隣接し、国内にはPLO、対岸にはキプロスまで抱える美しくも悲しい小国レバノン。そこで「彼」は国の将来に絶望し、イギリスに渡るのだが、職場のもめ事で職を失い10数年ぶりにレバノンに還る。そこに「彼女」から電話「キューバで待っている」。
美しい。もちろん主演のジョアン・アレンは中年の美しさ(もともと美人だろうが)がすばらしく、「アララトの聖母」で渋い役回りだった「彼」サイモン・アブカリアンも味がある。アブカリアン自信はフランス生まれレバノン育ちのアメリカ人と言うから中東とヨーロッパの移民社会の標本を見るようだ。
「韻」が美しいと書いたが、本作の狂言まわし(?)は本題からは見捨てられた、あるいは見えないことになっている家政婦や掃除婦たち。彼女らこそ、「彼女」や「彼」、あるいは「彼女」の夫の日常の機微を的確かつ辛辣に捉えているところが苦笑ものだ。答えのないフランス映画を思わせるような幕切れ。一時に走る愛は当人にとってはとてつもなく美しく、そしてまた残酷だ。
とまどいながらも溺れること。イギリス、ロンドンと言う高度資本主義、消費社会の中にあって「純愛」とも呼ぶべき滑稽さ、それゆえの痛さ。だからこそ「彼女」と「彼」には物語が生まれたのだ。