kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

誰もが開かれた空の下に  「すばらしき世界」

2021-03-21 | 映画

日本で死刑が廃止されない理由に政府があげるのは「国民の理解が得られていない」というのがある。しかし、安倍政権下で成立した様々な法制、秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などについていずれも「国民の理解が得られて」いたわけでもないのに強行成立させた。一方、夫婦別姓制度については、世論アンケートによれば十分に「国民の理解が得られている」が一向に着手しようとしない。死刑制度とも関連するが、刑事法制やそれに関連する社会政策全般についてはどうか。

元受刑者の社会復帰を描いた佐木隆三の短編小説「身分帳」を原作とする本作は、ある意味かなり地味な作品である。人を殺め、服役した三上はヤクザとして生きてきた期間がとても長く、カタギとしての生活経験がない。13年の刑期を終え、シャバに出てもうムショには戻りたくないと、古いアパートで普通の暮らしを始め、職探しをするが、それほど劇的な出来事があるわけでもない。運転免許も失効し、就職に難をきたす。元殺人犯の社会復帰に悪戦苦闘、成功する三上を撮ったらおもしろいだろうと元テレビマンの津乃田は野心的なプロデューサー吉澤にけしかけられてカメラを回し始めるが。

登場する人物はそれほど多くない。三上の身元引受人の老弁護士夫妻、一度は三上を偏見から万引きを疑ったが、その人柄を認め支えるスーパーの店長、当初冷たな感じも受けるが、担当者として誠実に向き合うケースワーカー、旧知の九州のヤクザの親分一家。「身分帳」から時代設定を35年後にした本作では、三上はスマホを持ち、九州のヤクザのアネゴは「銀行口座は作れん、子供も幼稚園に入れられん」と嘆く。それはそうだろう、13年ぶりに出所した人間がすぐに広い、豊かな人間関係を持てる方が非現実的だ。だから本作はとてもディテールにこだわり、三上を演じる役所広司の「演じて」はないように見える姿といい、現実を晒す。必要最小限のものしかない三上のアパート、電話に追われて三上との対応もままならない役所の窓口、視聴者に受けないと見ると簡単に企画を放り出すプロデューサー、そして三上がやっとのことで就職した「理解ある」介護現場。そのいずれもが三上を恐れ、あからさまに忌避することはない。しかし、ヤクザなりにまっすぐに生きてきた三上にはズレがある。そのズレをズレと感じないことで生き抜けるなら、それは本当に三上の姿なのだろうか。

映画は、このリアリティーを撮りあげた西川美和監督の視点と、それを支えた豪華な俳優陣や制作スタッフなどと、西川監督の美学をかたちづくる様々なコンテンツの集大成と紹介される。であるから、例えばシナリオ全文まで掲載された映画のパンフレットにおいても、日本の刑事司法や社会政策の現状に触れてはいない。しかし、三上の日常を丹念に描くことで、その後進性や停滞性を問いかけていることは明らかだ。生きづらいと感じる人が少なくなればなるほど、生きづらくはない、あるいは生きていこうと思う人が相対的に増えるであろうことは言える。幸福追求権はすべての人に保障されなければならない。

死刑廃止が加入要件のEUの国々では、必ずしも「国民の理解が得られて」いたわけでない。しかし、被害者や遺族の福祉の権利とともに、加害者(家族)の権利も擁護する法整備を政策・立法者はときに英断しなければならない。権力者がその好悪を元に「英断」を使い分けるこの国の現状を、今一度自覚すべく貴重な作品である。そしてその「英断」をする、しないをなんとなく支持する空気こそ、武田砂鉄の指摘する世の中の分断や不寛容を後ろ押しすることに他ならないのだろう。

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「確信」の危うさを突きつける   「私は確信する」

2021-03-08 | 映画

フランスの刑事司法制度には詳しくないが、アメリカのような陪審制度と違って裁判官の裁判に市民が参加する参審制度だと以前読んだことがある。しかし、映画では陪審制度として描かれていた。しかし、アメリカのように市民たちだけで決するわけではないのでやはり制度としては参審で、映画ではわかりにくいので「陪審」と呼ばれていたのだと思う。それなら法廷で3人の裁判官の両側に3人ずつ並ぶ形といい、日本の裁判員制度に似ている気もするが、大きく違うところがある。控訴審でも参審制度だということだ。

だが、映画ではその「陪審」であるからかどうかは重きを置かれていない。むしろ、人間はどこまで「確信」を持てれば、人を有罪にできるかという刑事裁判に関わる全ての者、裁判官や参審員はもちろんのこと、捜査に当たった警察官や公訴を提起した検察官、そしてその事件・裁判を見守る市民とメディアに突きつけた問いである。そこには本源的な陥穽がある。フランスに限らないだろうが、逮捕・捜査した警察官は犯人だと思い、取り調べをするし、有罪が欲しいから起訴したのは検察官だ。彼らはすでに「確信」を持っている。そしてメディアは疑惑が大きいほど報道価値があると考え、結論に至る過程が混迷を深めればよくその帰趨にはあまり興味がないようにも見える。そして、メディア以外に情報がない市民はその報道に踊らされるし、「確信」までは至らない。では、法廷の傍聴者と、最終的に判断をしなければならない参審員はどうか。

主人公のノラは一審で参審員をつとめ、判決に疑問を持ち、控訴審で敏腕弁護士に頼り、自ら膨大な関係者の会話記録を分析して、被告人以外の人間への疑惑を暴く。それは被害者とされる女性が突然3人の子どもを残して失踪し、夫により殺されたと裁判になっているが、夫がその犯人との確信が彼女には持てなかったことにある。一審に関与した参審員が控訴審の証拠収集に関わってもいいのか、採用していいのかという素朴な疑問もあるが、フランスの司法制度では公判が始まるまで相当な予審に時間を費やすこともあり、可能なのかもしれない。それとは別に、作品が問いたかったのは、「確信」が100%持てなけれれば推定無罪を貫かなければならないことと、ノラも失踪した妻の愛人を犯人と「確信」する正義(感)が持つ危うさだ。

 刑事裁判の原則は、絶対に冤罪を生み出さないことにあるはずだが、強い正義(感)こそ確信を後押しし、それによって新たな冤罪を生み出しかねないという現実とパラドックスが、私たちをして人を断罪する時に求められる迷いや揺らぎの必要性を自覚させる。

 そもそも一審で無罪になった者をまた公判に引きずり出していいのかという、古典的には二重の危険を考える視点もあり得よう。日本でも一審で無罪だったのに、高裁、最高裁と有罪になり、再審で冤罪をやっと晴らせた東電OL事件のような例もある。東電OL事件の時はまだ裁判員裁判は始まっていなかったが、現在では市民がそういった場面に関わっている。覚醒剤事件の事案では一審無罪なのに逆転有罪の例もある。

 「確信」を確信することこそ危うい。スリリングな裁判劇は法廷に止まらない緊張と魅力にあふれている。

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