日本で死刑が廃止されない理由に政府があげるのは「国民の理解が得られていない」というのがある。しかし、安倍政権下で成立した様々な法制、秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などについていずれも「国民の理解が得られて」いたわけでもないのに強行成立させた。一方、夫婦別姓制度については、世論アンケートによれば十分に「国民の理解が得られている」が一向に着手しようとしない。死刑制度とも関連するが、刑事法制やそれに関連する社会政策全般についてはどうか。
元受刑者の社会復帰を描いた佐木隆三の短編小説「身分帳」を原作とする本作は、ある意味かなり地味な作品である。人を殺め、服役した三上はヤクザとして生きてきた期間がとても長く、カタギとしての生活経験がない。13年の刑期を終え、シャバに出てもうムショには戻りたくないと、古いアパートで普通の暮らしを始め、職探しをするが、それほど劇的な出来事があるわけでもない。運転免許も失効し、就職に難をきたす。元殺人犯の社会復帰に悪戦苦闘、成功する三上を撮ったらおもしろいだろうと元テレビマンの津乃田は野心的なプロデューサー吉澤にけしかけられてカメラを回し始めるが。
登場する人物はそれほど多くない。三上の身元引受人の老弁護士夫妻、一度は三上を偏見から万引きを疑ったが、その人柄を認め支えるスーパーの店長、当初冷たな感じも受けるが、担当者として誠実に向き合うケースワーカー、旧知の九州のヤクザの親分一家。「身分帳」から時代設定を35年後にした本作では、三上はスマホを持ち、九州のヤクザのアネゴは「銀行口座は作れん、子供も幼稚園に入れられん」と嘆く。それはそうだろう、13年ぶりに出所した人間がすぐに広い、豊かな人間関係を持てる方が非現実的だ。だから本作はとてもディテールにこだわり、三上を演じる役所広司の「演じて」はないように見える姿といい、現実を晒す。必要最小限のものしかない三上のアパート、電話に追われて三上との対応もままならない役所の窓口、視聴者に受けないと見ると簡単に企画を放り出すプロデューサー、そして三上がやっとのことで就職した「理解ある」介護現場。そのいずれもが三上を恐れ、あからさまに忌避することはない。しかし、ヤクザなりにまっすぐに生きてきた三上にはズレがある。そのズレをズレと感じないことで生き抜けるなら、それは本当に三上の姿なのだろうか。
映画は、このリアリティーを撮りあげた西川美和監督の視点と、それを支えた豪華な俳優陣や制作スタッフなどと、西川監督の美学をかたちづくる様々なコンテンツの集大成と紹介される。であるから、例えばシナリオ全文まで掲載された映画のパンフレットにおいても、日本の刑事司法や社会政策の現状に触れてはいない。しかし、三上の日常を丹念に描くことで、その後進性や停滞性を問いかけていることは明らかだ。生きづらいと感じる人が少なくなればなるほど、生きづらくはない、あるいは生きていこうと思う人が相対的に増えるであろうことは言える。幸福追求権はすべての人に保障されなければならない。
死刑廃止が加入要件のEUの国々では、必ずしも「国民の理解が得られて」いたわけでない。しかし、被害者や遺族の福祉の権利とともに、加害者(家族)の権利も擁護する法整備を政策・立法者はときに英断しなければならない。権力者がその好悪を元に「英断」を使い分けるこの国の現状を、今一度自覚すべく貴重な作品である。そしてその「英断」をする、しないをなんとなく支持する空気こそ、武田砂鉄の指摘する世の中の分断や不寛容を後ろ押しすることに他ならないのだろう。