kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

忘れてはいけないアフガニスタン~  ヤカオランの春

2005-05-29 | 映画
9・11後のアメリカのアフガニスタンへの攻撃は正しかった。と、超大国の報復を認めてしまいがちなタリバンの圧政。が、仮にタリバンが民衆を抑圧したのが事実であってもその事実を知り、そこに至ったアフガニスタンの歴史を知ってからアメリカ支持を考えても遅くはない。ではタリバンとはどのような存在であったか。タリバンが極端なイスラム教解釈によって恐怖政治をしいていたことは知られるが、その実態はむしろ「アフガン零年」(03年 アフガン=日本=アイスランド合作)の方が分かりやすい。特に女性を社会的に排除した点については。しかし「アフガン零年」はフィクションであり、主人公の女の子が男装してそれがばれたため厳しい処罰を受けるシーンなどある意味でビジュアルであるが、「ヤカオランの春」は美しい故郷ヤカオランでタリバン以前の内戦での戦争経験や、タリバンによる村人の抹殺などを生き残ったアクバルがたんたんと語るに過ぎずドキュメンタリーである。もちろん殺戮シーンなどないがアクバルの語りの方が胸に響く。ただ一つタリバン下で撮影された映像に切り落とされた手首が写っていたのが、血も凍る現実の一端であろう。全体としてアクバルの語りと彼の家族の故郷への思い、そして緑美しいヤカオランの風景ばかりだ。語り継ぐことが戦争を伝える人類の英知であるならば、体調も芳しくなく戻りたい故郷へ帰れないアクバルの語り一つ一つに西側社会に「忘れ去れた国」アフガンの過酷な歴史が詰まっているように思えた。
しかし、タリバンが進出するまで比較的女性もそれなりに社会的進出をしていたアフガンがこのような状態になったのは、79年のソ連のアフガン侵攻であり、それに対抗するムジャヒディンへのアメリカの過剰な武器供給であった事実を忘れることはできない。大国の思惑と関係のなくなったアフガンは捨て去られ、「テロリスト」の温床となっていたとしてもその「テロリスト」を養成したのもまた大国だった。
帰りたい故郷を奪う権利は誰にもない。
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風俗画/通俗画の読み方 『子供とカップルの美術史』(森 洋子 著 NHKブックス)

2005-05-23 | Weblog
筆者はブリューゲル/北方ルネサンス研究の第一人者。が、本書ではゴヤの子供の描き方にもスポットをあて、標題のごとく「子供」「カップル(夫婦も含む)」「親子」の描かれ方を中世から18世紀まで俯瞰してみせた。実は、北方ルネサンスからバロック、ロココ、新古典主義に至る西洋絵画にはキリスト教美術にこそ惹かれ、風俗画、通俗画にはそれほど興味をそそられないでいた。しかし、本書で自分のその浅はかさが露になってしまった。風俗画といえども、いや、そうであるからこそ、その時代を支配していた道徳心や価値観と無縁なわけがないのは当たり前。子供はこうあるべき、その子供を育てる大人はこうああるべき。反対にこうあってほしい、実際はこうではない、と。
筆者によれば、近世初期ヨーロッパ美術において子供が「発見」されたのは乳母から母乳保育へ、体罰教育への反省と無縁ではないという。あるいは、ルネッサンス美術で描かれる遊ぶ子供(同時に遊びを大人の仕事から模している「働く」子供)、17世紀オランダ美術に見る家庭生活における子供への道徳心の涵養。そして18世紀美術における教育の場に出現する子供とそれをとりまく大人への戒めなど。
どの時代もその当時の価値観すなわち宗教観、世界観と密接に関連した表象ではある。それらは本質的にキリスト教的価値観を内包していたとしても、親が子供を見る眼と、知識人が社会風俗や家庭を見る眼はそれほどずれなく、後世の人間が納得できる倫理意識と時代的「常識」を体現しているのだという指摘は説得力がある。
イスラムと違い一夫一婦制に厳格なキリスト教は、婚姻外恋愛に厳しいとともに(あるいは階級をまたげば寛容?)、マリア信仰故か堕落したカップル性(お金目当て、あるいは欲情の対象のみの不釣り合いなカップル=老婆と青年、老人と乙女など)にとても厳しい。が、実態としてこのような組み合わせがあったから道徳者は嘆いたのであろう。そしてそれを視覚化し、現世と後世の人間にそれを伝えたかったのではあるまいか。
筆者の説得力ある客観的証明、専門的知見に触れるために豊富な図版が採用されているが、如何せん、モノクロで小さい。ヨーロッパの数ある美術館の中で有名な宗教画などに埋もれてしまいがちなこれらの作品に、改めてスポットを当てる意味でも図版はカラーでもっと大きい方がよい。が、美術図書にありがちな大判、多色刷り満載の本書なら本文は真面目に読まないかもしれない。
貧しいが労働が身近にあり、働くことと距離のなかった子供の方が、絵画で表現された世界とはいえ近代以降の子供の姿(=遊びと労働の分離)より豊かに見えるのは筆者や私だけではないはずだ。
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「王道」の恋愛ドラマ  バンジージャンプする

2005-05-22 | Weblog
JSAの後イ・ビョンホンが選んだ作品として、なるほどな、という部分と?という部分とがある。それくらい評価の難しい作品だ。これはセクシュアル・マイノリティ作品ではまずないだろう。じゃあ、単純に「輪廻転生」物語か? あるいは「純粋な《思い》の」物語(竹中直人)か。
かっこ良いピョンホンがぶきっちょさを器用に演じているのが好感だが、物語の流れが王道過ぎてつまらない。雨の日の出会い、駅で待っても現れない愛しい人、二人手を取り登った山、そして交通事故。卵が先か鶏が先かではないけれど、どれも最近の韓流ドラマの小道具で、どの「純愛」作品にもどれか出て来る。恋する若者の群像とはどれも変わらないのかもしれないし、韓国ではこのような小道具が好まれるのかもしれない。ただ、ピョンホン演ずるインウが駅で待っていたのは、兵役に行くから。そして、イ・ウンジュ演ずるテヒが突然インウを激しく拒絶するのも彼が兵役に行くことを告げたからと解すれば、韓国の徴兵制が若者の恋愛を中途で遮断する大きな壁となっていることに日本の観客はもっと敏感になってもいいかもしれない。
儒教社会の韓国で同性愛はもちろん御法度、同時に仏教信仰もある同国で「輪廻」の「転生」もまた韓国人の死生観の一般的範疇なら、この作品は上述した韓国人の恋愛メンタリティとともにあまりにスタンダードな構成とも言える。そして導入部分とエンディングで用いられるニュージーランド(バンジージャンプの国)の切り立った渓谷の美しさは、恋に例えていたとしても、人生に例えていたとしても見抜きやすすぎる。
いずれにしてもピョンホンの魅力映画と簡単に切り捨てるほどすっきりした作品でもない。微妙なのだ。今年亡くなったイ・ウンジュの演技が「永遠の片想い」でもそうだったが、瞳以上のものをこれからもっと出してほしかっただけに残念だ。
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社会性と反社会性の意外な近接  カナリア

2005-05-22 | Weblog
塩田明彦の「監督ノート」にサティアンから出てきた子どもたちの瞳にポルポト派の少年兵士のそれをなぞらえているのを見て、やはりそうかと思った。文化大革命の実験を現実化しようとした壮大な破滅的企て、それが76年から79年までカンプチアでなされたクメール・ルージュ=ポルポト派のなしたことだった。そして、ポルポト派が重視した教育政策(あれが教育であったか、政策であったかはさて措くとしても)の柱は、子どもを親から引き離し、子どもが「主体的に」親の世代を断罪する力を持つことにあった。何がしかのブルジョアジーに染まった大人より何ものにも染まっていない子どもこそ「民主」カンプチアを支える豊富な人材であったからだ。このような極端な集団主義、空想主義が瓦解したのは言うまでもないが、あの時ポルポト派の兵士であった子どももその後の内戦、新カンプチア建国の中でより現実社会に順応し、もうオンカー(党)の子どもではないだろう。しかし、現在の社会が子どもを私有財産化しすぎる中で ー 一人っ子政策の中国も、塾とゲームに子育て?を全て預ける日本も、モノのごとく暴力をふるい時に死に至らしめるアメリカも ー 子どもの私有財産化を否定したポルポト派の理想主義は、人権という概念からは逸脱するけれど何かしら新鮮な感じがする。
振り返ってみるとカナリアの子どもたち。光一は母親の入信に引きずられニルヴァーナ(オウム真理教を模していることは言うまでもない)で生活、「社会性」をつけず成長したならば、光一を引っ張る由希は母を亡くした後父親から暴力を振るわれ、援助交際で小遣いを稼ぐ恐ろしく「社会性」に長けた存在。彼・彼女をこうしたのは大人の身勝手、無責任というのはた易いが、彼らにとって過酷であるのはお金がないことではない、食べるものがないことでもない、信頼できる人間がそばにいないことでもない。彼らが自分の道を自分で選べなかったことなのだ。
ところがニルヴァーナで活動していた大人たちも自分で自分の道を選んだ結果そうなったのか?いや、自分で自分の道を選ぶことのできる人間などそう多くはないのかもしれない。そうであっても「死」より「生」に価値があると思える間は、変わりゆく存在としての人間に塩田監督が可能性を託したのは、実は外の世界を一切拒否するかのような光一の射抜くような眼差しだったのかもしれない。
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憲法論議の不在と喧しさ  『論座』6月号

2005-05-11 | Weblog
憲法「改正」をめぐって自民党が新憲法試案要綱を発表(4月4日)、国会では憲法調査会が報告書を提出した(4月15日、衆議院)。自民党の要綱提出にいたった議論を見る限り、立憲主義への理解や国家の基本法たる憲法への本源的な理解が欠けているという指摘はあながち否定できない。
そもそも「改憲」か「護憲」かというからには憲法とは何なのかをわかっておく必要はあるだろう。立憲主義の本旨は、国家権力が市民(国民)に対してその圧倒的な力=支配力を背景にふるう社会的、政治的、経済的そして具体的な暴力を抑制するための民が国家に対して枷をはめた権力抑制の基盤である。先の衆議院福岡県補選で国会議員に返り咲いた山崎某が昔発言した「現行憲法には権利ばかり書いてあって義務が書いていない」というのは、この基本原則を理解できていない阿呆である。
『論座』は滅多に買わないが、本号はこの憲法特集で、『〈民主〉と〈愛国〉』の著者小熊英二が発言しているので手に取った。小熊は言う。「冷戦期と高度経済成長期に形成された『日本という国のあり方』が限界にきた、という認識が一般に広く共有され、新しいナショナル・アイデンティティーを築かなければならないという気分が高まっている。その新しいナショナル・アイデンティティー探しを改憲論議という形でやっている」と。
鬱屈した現状に壮大な打開策を求めるのは個人的にはあり得るし、それの失敗や成功のもとで人間は一定成長していくのだろうが、憲法は別である。
憲法だろうが、皇室だろうが民主主義社会のなかで論議するのは肯定されてよいし、むしろタブーをもうけない方がいいだろう。しかし、論議と言うからには床屋政談で終わってはならないし、ましてや政権与党が国会の場で思いつきの言いっぱなしではダメだろう。
小熊の論考の題は「改憲という名の『自分探し』」。自分探しは個人でなし、近しい人にわかってもらおうというプロセス自体に解放や転機が生じる可能性を内包する。憲法という国家のあり方の基本にかかわること、そして、それが私たちの未来の生活に少なからず影響があることについて思いつきの「自分探し」は止めてほしい。
これはブログなども縛りかねない表現・言論の自由にとってとてつもなく危険な「憲法改正国民投票法案(自民党)」以前の問題である。
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イム・グォンテク健在  酔画仙

2005-05-08 | 映画
本作は「西便制」(93年)、「春香伝」(00年)に続く朝鮮伝統芸能(術)を描いたイム・グォンテク(林権澤)の代表作となるであろう。イム監督と言えば100本近くの作品を撮った韓国映画界の巨匠中の巨匠。しかし、最近の「韓流ブーム」で影が薄いかに見えたがそんなことはなかった。韓流…を支える美男美女の作品はどうしても都会のラブロマンス/ラブコメディ、ノワールもの、戦争ものそしてサスペンスものに偏りがちで歴史ものは少なく、ヨン様の「スキャンダル」はこけたし、韓流…を支えているファン層には受けないようだ。しかし、息もつかせぬドラマ展開もない、恋の駆け引きもない、美男美女もあまり出てこない(「ラブ・ストーリー」のソン・イェジンが出ているがチョイ役)のに2時間はあっという間に過ぎた。
実在の伝説の宮廷画家チャン・スンオプ(張承業)の生涯を描いた本作は、19世紀末の朝鮮半島の歴史を学ぶ格好の機会ともなる。李朝末期の腐敗した世の中を変革しようと開化派の学者ら、陸続きで覇権を得ようと進出する清朝、そして大陸への野望を露にする日本軍。現在歴史教科書をめぐって日中、日韓間での軋轢がはげしいが、歴史は自国側からだけ見るのではなく、客観的、相対的な描写、評価が必要であろう。例えば、日本の教科書では「東学党農民反乱」と記述されるが朝鮮半島では「東学党農民“運動”」などと。そしてそういった歴史の見方ができる国(民)こそが尊敬に値するのだろう。
彼の性格、画業にまつわる自由奔放な精神・生き方と、朝鮮半島の前近代的諸相=貴族・両班(ヤンパン)社会や妓生(キーセン)との関わり、芸能(術)というものが時の権力者に支えられ成り立っていた時代に一芸術家の思いと芸術の大衆化との矛盾など見所はたくさんある。
意外だったのはイム・グォンテクの作品が岩波ホールで上映されたのは本作が初めてだそうだ。現在韓国の圧倒的な作品数が日本の映画館を席巻するなかで本作のような作品もちゃんと上映ベースに乗るのが喜ばしい。
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ビョンホンの魅力満開だが… 甘い人生 

2005-05-08 | 映画
JSAのときははっきり言ってソン・ガンホが主役でイ・ヨンエがきれいどころ。イ・ビョンホンは脇役だった。それが「美しき日々」の複雑、微妙な表情演技で高く評価され、持ち前のイケメン、人気急上昇のビョンホンを満喫するには格好の作品。演技力としては?であるのに妙に日本で人気が高いチェ・ジウとの落差が「美しき…」で明らかになり、いい味出しているなと楽しみにしていた。そのとおり、クールな中でホントに微妙な違いを見せる表情はビョンホンならでは。アクションシーンもかっこよく、「ヨン様~」層とは違う人の人気の高いのもよくわかる。そして、ビョンホンはだからといってマチズモでもスノビーでもない。と持ち上げた後に言うのは何だが、作品としては荒唐無稽。映画というのは所詮そんなものという批判もありそうだが、ビョンホンはある意味で現実的な面(=「美しき…」も無理のない演出であると思うし、「遠い道」もよかった)が似合う役者であるのに、「甘い…」ではまるで007かターミネーター。
ノワールものというのはそういう部分を無視して成り立っている=現実的である部分を捨てて、完成しているいうところもあるんだろうが、ヒロインのヒス(シン・ミナ)もノワールものの決まり事、ファム・ファタール(運命の女)としては弱すぎるし、説明不足。
まあ、ビョンホンはいいなと思える段階で済ませられる人にはオススメ。原題はタルコムハン インセンで、「とても甘い(甘ったるい)人生」。英題がBittersweet(ほろ苦い)lifeであるのを見ると内容からすると甘ったるくもあるし、ほろ苦くて実は含蓄の深い邦題かもしれない。
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中年は分別ないとダメですか? 「サイドウエイ」と「なぜ彼女は愛しすぎたのか」

2005-05-04 | 映画
アメリカ映画とフランス映画、言わばその両極端。男の身勝手さと女の不安定さ、ジェンダー的には両立しえない表象。「サイドウエイ」が精神的に自立できない男たちが、性的にだけいつまでも異性を求める馬鹿さ加減を体現した男と、自立できなかった故妻に去られたのにそれを受け止められない男のロードムービーなら(普通、RMなら旅する者は成長していくはずだが)、「なぜ…」は精神的、性的、経済的に自立していたはずの女性が13歳の男の子に惹かれ、関係を持ち、彼なしではいられないほど壊れていく話。
きつかった。結婚目前であるのにセックス目的だけで女を探し、快楽を貪る「サイドウエイ」のジャックも自分ならば、そのそばで別れた妻を忘れられない往生際の悪いマイルスも自分だ。さらに、粗野でデリカシーのない13歳の男の子にストーカー行為をなし、あげく車中で求める30歳のマリオンも私だからだ。
恋愛に年は関係ないなどと建て前では言われるが、その建前を信じている者などなく、分別をわきまえず建て前を破壊し、実行する者は嘲笑される。ジャックの結婚したらできないから今だけヤリまくっておこうというほとんど生きたダッチワイフ探しは?にしても、年がいもなく性愛に溺れる、あるいは臆病になるって素敵だ。が、当人は本当はとても苦しいのだろう。
苦しいから求める。求めて得たからといって充足されるわけでもない。分別の名の下に躊躇を前提として、そしてまたその躊躇を心の中だけに仕舞っておくなんて所業は小椋佳の歌の世界だけで十分であるし、自分だけの静謐な精神世界への回収もあり得ない、と思う。
性愛とはいくつになっても生臭いもの。そんな映画には惹かれてしまう。
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木彫りのあたたかさ~シュテファン・バルケンホール

2005-05-01 | 美術
1957年生まれのドイツの現代彫刻家のことはもちろん知らなかった。昨年新築したばかりの国立国際美術館はオープニングの「マルセル・デュシャン展」から気合いが入っており、どの展覧会も充実していたから楽しみではあった。が、これほど満足させてくれるとは。
取り立てて造形が突飛なのではない。題材が不可思議極まりないのでもない。でも惹かれるのはなぜか? 例えば白いワイシャツに黒ズボンの男性立像。表情も西欧系白人の普通のそれでしかない。普通の人を象った何枚もの頭部のレリーフ。これも何の変哲もない。技術の高さは垣間見える。西洋木彫でもそう言うのだろうか、一木作りの魅力。大きな木を切り抜き、くり抜き、ノミの跡が生々しい作品群は、題材のあまりにもありふれた日常、無機質な表情、都会的な合理性とは裏腹に木の持つ独特のあたたかさにもあふれている。一体バルケンホールの仕事はどのように表現すればいいのだろう。木を使った具象彫刻とレリーフにこだわるバルケンホールは「1980年以降の欧米美術の主流の外に位置してると見なされることもある」(中西博之国立国際美術館学芸員)そうだが、それもわかるような気がすると同時に、「外に位置して」ほしいとも思う。それは、大規模なインスタレーションなど現代彫刻が置き去りにしていた手仕事の深みを具象彫刻は体現しているからだ。ノミの跡一つひとつ、ああ、バルケンホールさんが作ったのだなあと実感できるから。傾向は違うが、日本でも最近船越桂の作品の人気が高い。船越の作品も表情は冷たい、がやはり雰囲気はあたたかい。木、そして手彫りにはどこか安堵感を必然的に内包しているのかもしれない。バルケンホールを知らなかった人はぜひ触れてほしい。でも触ってはいけないのが日本の彫刻展の掟。少しさびしい。
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