kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

理想郷はそこにある  パラダイス・ナウ

2007-06-21 | 映画
ハマスとファタハが完全に袂を分かち、アラファト議長死後曲がりなりにも対イスラエル自治政府としての結束を固めてきたパレスチナの現況を知る上で基本的な映画である。
「自爆テロル」。言葉で書けばたった5文字(日本語だが)に至る若者の心情、周囲の状況、それをなさざるを得ないと考えさせる究極の軍事的・政治的閉塞状況。殉教者=英雄に選ばれたサイードとハーレド。サイードの父は密告者で、そのために処刑されたトラウマを持つ。サイードに惹かれるモロッコ育ちのスーハは自爆攻撃より方法があると主張し、どちらかというと自爆攻撃に積極的だったハーレドがサイードを止めるよう説得するシーン。結局テルアビブの街中、イスラエル兵が乗ったバスで自爆のひもを今引かんとするサイードの表情を大写しにし、映像は終わる。
イスラエルのパレスチナ攻撃の理不尽さ、それは圧倒的な軍事力を持つ者(もちろんバックにアメリカがいるからだ)の「入植」という侵略、安全確認のためと称する排外施策=とてつもなく厳しい移動制限、分離壁、の姿でかいま見ることができる。
パラダイスはないのだ。いや、殉教を選ぶことのできることこそ現在のパラダイスかもしれない、サイードやハーレドにとって。
サイードもハーレドも問う。明日があるかと。
自由とは囚われの自由ではなく、何者にも囚われていないこと。そんな単純で明白なことがパレスチナの地では通用しない。で、殉教を非難するイスラエルと西側。
イラクでも、アフガニスタンでも同じことがおこっている。もうこれしかない、あるいはこの、殉教で何かが変われば。悲壮である。が、それを無意味なこと、愚かなことと一言で言えるのか? 何かが変わるではなく、何も変わらないことを自覚したために自ら命を絶つ人が毎年3万人超あるこの国で。
重信メイさんが解説で書いている。あんなに苦しい社会でも老人がうち捨てられたり、乳幼児が遺棄されたりすることはないと。共助の精神が根付いているパレスチナに想像を絶する明日のなさを決めつけてはいけないと。
「別の意見や考え方が存在し、話には別の側面が存在するということを世界に知って欲しかった」。(ハニ・アブ・アサド監督)
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20世紀の夢 モダン・デザイン再訪

2007-06-11 | 美術
大阪にある3つの代表的な美術館ー国立国際美術館、サントリー美術館・天保山そして大阪市立近代美術館建設準備室ーの所蔵作品を一同に集めて開催されているのが「大阪コレクション」。今回は前回の「夢の美術館」(20世紀美術(平面編))に続く第2弾である。基本的に所蔵作品の貸し出し合いなので目新しい作品があるわけでも、美術館によってはあまり所蔵作品がない場合もある(今回は、国立国際美術館はカンディンスキーの作品のみであった)。けれど、デザインという切り口で大阪にある作品で語って魅せようと言う意気込みだけは見て取れた(あくまで「意気込み」だが)。
テーマのサブタイトルは「アール・ヌーボーからロシア構成主義、北欧のモダンまで」であるが言い過ぎである。が、モダンデザインの発現はバウハウスにあると見る筆者からすれば結構楽しめる内容であった。と言うのは、美術が王族・貴族のものから市民のものへと展開する契機はやはり産業革命そして、フランス革命であり、それが「趣味」の美術から「道具」のデザインへ発展するいわば時代の変遷や作者の悩みが近代デザインに反映されているのはそのとおりであるからである。
アール・ヌーボーが貴族が室内で楽しむものを市民がマチで感じるモノへと発展させたにもかかわらず、合理性と大量生産という近代社会の要請を担えなかったのは当たり前であり、であるからこそ、近代が持つ合理的「知」の証明としてのモダンデザインが市民へのいきすぎた提供になりかねなかったことの未熟性こそ、モダンデザインの初期の魅力である、とは言い過ぎだろうか。
バウハウスで教鞭をとったのは、カンデンスキーにクレー、イッテンなどその後20世紀のモダンコンセプションをまさに牽引した人たちであり、それを受け継いだオランダのリートフェルトなどのデ・ステイルはゲルマンの合理性を、マレービッチやタトリンなどのロシア構成主義は社会主義の「魅力」をよく伝えているように思える。
何よりもモダンは決して冷たいデザインではない。モリスや柳宋悦など手仕事の妙としても現在に生きているのが憎く、うれしい。
デザインは決して使う人を無視しては成り立たないことをよく示している今回の展覧会ではないか。いや、六本木に鳴り物入りで開設した3大美術館に対し、お金じゃないよ、すでにあるものでこれだけ展示できるのだよという大阪人の反中央主義?というアンチとしても見られるだろうか。
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