kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

やり直しの人生を助ける人の存在   天使の分け前

2013-04-29 | 映画
このブログをkenroと名乗っている者として、ケン・ローチの作品はすべて見るようにしている。「天使の分け前」は、最近のケン・ローチならではのハッピー・エンド(エリックを探して)を踏襲しているが、主人公の境遇はやはり学なし、家なし、仕事なしの下層階級。それが、尊敬できる年長者と同じような境遇の仲間と出会い、人生の転換点にというオハナシ。とても分かりやすく、ほんとうにそんなことあるのか?と突っ込みたくなるが、そこはウイスキーの本場、スコットランド。グラスゴーというと英国でも3番目かの大きな都市だが、過去のにぎわいからは遠く、街中を離れると失業者、生活保護世帯のアパートが立ち並ぶ地区があり、ロビーもそんなところで育ち、暴力と隣り合わせの日常だった。
けんかで相手に怪我を負わせたロビーは社会奉仕40日の罰を言い渡され、そこで出会ったのがウイスキー愛好者のハリー。父をはじめ暴力と理不尽の塊のような大人しか知らなかったロビーにとって、ハリーは初めて出会った尊敬できる大人。そのハリーがロビーにウイスキーの魅力を教えると、ロビーも自分の類まれな能力に目覚め…。
まず、ウイスキーの魅力について考えてみる。フランス人にとってのワインのように英国人にとってのウイスキーは日常のお酒ではない。ビールか、蒸留酒系の安酒である。ロビーら、社会奉仕をさせられる若僧にとってお高くとまった奴の趣味酒にしか見えない。しかしハリーはお高くとまった奴でも、そもそも上流階級でもない。しかし、ウイスキーが洗練された職人の技術と連綿と続いてきたその歴史には敬意を持ち、そしてウイスキーを愛している。
「天使の分け前」とは、樽に詰められたウイスキーの原液が毎年2パーセントずつ蒸発していくというその部分のこと。それだけ原液は純度を増していき、何十年も経てば量は減るが、それだけ雑味が消え、得も言われぬ風味と芳香を増していくというもの。筆者の拙い経験でもスコッチの年代物(せいぜい20年くらい)は最近瓶詰めされたものとは違った数段上のもの、言わば清水(せいすい)に近づいたのがよく感じられた。
次にケン・ローチの描いてきた若くして明日のない底辺層の若者について。裁判でロビーの弁護人がロビーが父親に暴力を振るわれて育ち、その成育歴に鑑みて情状を斟酌してと訴えるシーンがある。親に暴力を振るわれ貧困の中で育った者の全てが犯罪に走るわけではないが、暴力の連鎖は社会学的にも証明されている。そして、そのような者であってもハリーという信頼できる大人に出会うことで更生の可能性があることも。ケン・ローチのこれまでの作品では、「更生の可能性」までも描かなかった。明日のない労働者像を描いた「リフ・ラフ」、アル中の「マイ・ネーム・イズ・ジョ-」。そして犯罪にとても近しく悲劇的結末の「スイート・シックスティーン」。これらの作品には希望がほとんどなかった。しかし、「天使の分け前」では希望を描いた、いや、ハッピーエンドであった。作品にコメディの要素を加えて。
やり直しを認める社会。やり直しのできる社会。ロビーが出会ったハリーのように「やり直し」を手助けしてくれる大人がおれば、社会があれば社会的落ちこぼれはもう落ちこぼれではない。とはいっても、ロビーが過去に理由もなく重傷を負わせた少年と会うシーンは痛々しい。加害者が犯罪被害者と向き合う修復的司法(リストラブジャスティス)の一環だが、この「向き合い」で耐えられ、自己と向き合い、深化させることができなければ「やり直し」には有効ではない。ロビーがハリーと出会い、恋人からの支えもあり、怒りを押し込ませる訓練を徐々に体得し、また、被害者と向き合う勇気が芽生えていったのであろう。ロビーの暴力によって片目の視力を失い、恋人と別れ、学校もやめたと切々と訴える被害者を前にロビーはただただ涙を流すしかなかった。
ロビーの犯罪を被害者は赦さないだろう。しかし、被害者はロビーの暴力によって再び同じような被害者が増えることも望まないはずだ。そう、ロビーには更生してほしいと。
翻って、刑事裁判そのものに被害者参加が定着し、裁判員裁判など重罰化のすすむ日本。そして、犯罪に至らなくても非正規雇用などやり直しをゆるさない社会。ローチが希望を託すのは、英国のみならず、ワールドワイドであってほしい。それが自身をコミュニストと認めたローチの役割であってほしい。いや、「やり直し」をグローバルスタンダードにするのは私たち一人ひとりの努めなのだが。
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冤罪を支えているのは私たち  名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 約束

2013-04-20 | 映画
名張毒ぶどう酒事件。冤罪の疑いが非常に濃いのに再審が裁判所によってことごとくはねつけられたことは知っていたが、本格的な文献等を読んだこともなかったので映像になるとよく分かった。これは冤罪の疑いが非常に濃いのではなく、冤罪であると。
脚本・監督は「死刑弁護人」の齊藤潤一。「死刑弁護人」はこのブログでも触れたが(真実を見極めるために誰も弁護しない人を弁護する 死刑弁護人(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/ff5582e0f5a35081386358997e5da681))、その齊藤さん作ということでもちろん期待していた。圧巻は仲代達也。獄中のことなど誰も分からない。死刑囚は面会が厳しく制限されているため、中の様子は奥西勝さんに面会した弁護士と特別面会人の人たちの話から想像するしかない。そして奥西さんが獄に囚われ50年。死刑囚は労役にも従事しない。3畳の狭い独房で寝起きするだけの毎日。死刑が執行されるのは午前中。毎朝看守の足音にびくつき、昼食が配られることで「自分の番ではなかった」と胸をなでおろす緊張が50年。その間名古屋拘置所で二桁の執行を見送ってきたという。奥西さんが自分以外の死刑囚を見送り、自身が執行されなかったことには理由がある。奥西さんが再審請求をくり返しているとおり、奥西さんは冤罪であることを法務省も知っているからであろう。一般的に再審請求中は死刑が執行されないという。しかし、再審準備中では執行は止まらない。例えば奈良県の小学生女児殺人事件で死刑判決を受けた小林さんは、再審準備であったが2013年2月死刑が執行された。
裁判所が奥西さんの再審請求を認めず、かといってさっさと却下するでもなく、自ら判断することなく、最高裁が高裁に差し戻したりするのは時間稼ぎをしていることは明らかだ。そう、奥西さんが獄死するのを待っているのだ。ここで明らかになるのは、法務省だけでなく最高裁も奥西さんが冤罪と考えているのではないかということ。
映画は、奥西さんに無罪や死刑を下した裁判官のその後も伝えている。津地裁で最初に無罪を出した裁判官や、再審を認める決定を出した裁判官は退官したり、遠隔地への転任。名古屋高裁で死刑を出したり、再審請求審で再審取消をした裁判官は栄転。本作では詳しく追及していないが、前例踏襲、先輩裁判官の出した判断に異を唱えない裁判所の在り方こそ、冤罪を生み出す元凶なのだと。調書裁判と言われる(自白)調書の丸呑み、自白を唯一の証拠としてはならないという憲法を逸脱した証拠裁判主義の否定。そして、そのような裁判所(官)の姿勢を後ろ押ししたのは容疑者=被告人=真犯人というメディアの報道のありよう。
でも奥西さんがいまだに囚われ、死刑執行の恐怖に曝されているのは裁判所あるいはメディアだけの責任なのであろうか。映画パンフレットに「この国には多くの奥西がいる」と寄せた森達也さんは言う。「彼(奥西さん=筆者注)が闘い続けている相手は、この国の制度を支え税金を納め続ける僕やあなたでもある」と。
足利事件、氷見事件、布川事件…。再審で自白調書の信用性が否定され冤罪だと分かった事例は現在も続く。「疑わしきは被告人の利益に」。疑わしいだけではだめだと税金を納めている私たちも冤罪の片棒をかついでいる自覚を強く持たなければならない。と思う。

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「豊かになりたい」ではなく「豊かでありたい」  ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの

2013-04-14 | 映画
報道されたかもしれないが、昨年(2012年)7月にハーバート(ハーブ)・ヴォーゲル
が亡くなっていたことは知らなかったことが恥ずかしい。前作「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人」は、ここでも紹介したが(アート、アート、アート NYゆえの至福感 ハーブ&ドロシー http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%A5%CF%A1%BC%A5%D6)、ワシントンのナショナル・ギャラリー(今年1月に初めて訪れることができた アメリカ東海岸美術館巡り20131 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/b822881048099c355cf4a0920de0156a)に2000点の作品を寄贈したところで前作は終わっていた。そして今回ハーブ&ドロシーがアメリカ50州の美術館にすべて50点ずつ寄贈するという50×50プロジェクト(2500点!)を追ったのが本作。
ハーブをはじめとしてアーティストの中には作品を散逸させることに反対の者もいたという。しかし、ホノルル美術館館長が言うように「アートはLAやNYに集めればいいという考え方は非常に近視眼的だ。文化の発展には最も保守的な部分を解き放たなきゃいけない。いくら都会で前衛芸術が盛んでも他の文化が置き去りなら変化は訪れない。アートには、その力がある。」。本作、50×50プロジェクトの意義はこの言葉に収斂される。首都に行かなければ、大都会に行かなければアートに接しえないのでは、文化は「置き去りにされる」。そうはいっても厳しい現実もある。ネヴァダ州ラスベガスはカジノとネオンの街。現代美術どころか、市民らがアートを欲する下地がない。50×50の作品を受け入れたラスベガス美術館がなんと閉館に追い込まれる。ハーブ&ドロシーの大切な贈りものはどうなってしまうのか。窮地を救ったのはネヴァダ大学に併設されたドナ・ビーム美術館。贈りものをすべて引き受け、学生の美術研究にも役立てるという。ただ、ドロシーがマメに送り先の美術館が贈りものをHPにアップしているかどうか確かめているが、その数は少なく、まだ全然アップしていないところもある。そして不景気時に、真っ先に削減されるのは文化予算。今回、本作で紹介されたのは50州の内11州。今後ハーブ亡き後ドロシーが一人、各州の状況を確かめ、時には訪れる旅に出るだろうが、50州すべてで贈りものが来館者の前に日の目を見ることはあるだろうか。
現代美術は取っつきにくいと言われるが、キリスト教の知識がなければ近代以前の西洋美術は理解できないし、時代背景が分からなければキリスト教美術以外の作品も深いところでは楽しめない。現代美術の中でもビデオ作品のように歴史的、政治的背景が濃厚な作品もあるが、ハーブ&ドロシーが蒐集したコンセプチュアル・アート、ミニマル・アートはその点作品に接した時の「感じ方」が大事だ。そう「アートに不正解はない」(ロバート・シスルウェイト オルブライト=ノックス美術館ガイド)のだ。
ハーブを亡くし、ドロシーはコレクションを止め、ただ一つの作品を除いてすべてナショナル・ギャラリーに寄贈する。アメリカの多くの美術館が富豪の財で成り立っていたのとは違い、ハーブ&ドロシーは公務員で、生活はつつましい。しかし、ただの一点も売ることなく「贈りもの」とした。そう、二人のアートに対する愛だけが、アートと人との関わり合いの神髄を私たちに教えてくれるのだ。ハーブ&ドロシーは作品を収集する中でアーティストや美術館関係者など多くの友人を得て、長い信頼関係を築いてきた。そこにあるのは「もの」ではなく結局「ひと」だったのかもしれない。二人の蒐集欲を支えてきたのは。
「物持ち」より「人持ち」と言ったのは上野千鶴子さんだったか。そう、物持ちは「豊かになりたい」と思いそうなるが、自分自身が「豊かでありたい」と人持ちになるには、好奇心と限りなく拡がる情感が必要だ。ドロシーが手元に残したただ一点。それはハーブの描いた絵だった。ドロシーは言う。「(私たちの)贈りものと一緒にハーブは生き続ける」と。
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