kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

クラシックの技術、モダンの運動量に歓喜   ベジャール「80分間世界一周」

2010-11-28 | 舞台
モーリス・ベジャールは名前こそ知っているが、現代バレエの発展にどれほど貢献したか、実はよく知らなかった。恥ずかしいことだが、それが本公演でその「貢献」を垣間見ることができた。クラシックではないモダンであるが、クラシックの基本的要素を押さえていないと表現できない振り付けであったからである。
とにかくものすごい運動量である。クラシックの世界ではギエムや吉田都など40を過ぎても一線で活躍するダンサーもいるが(もちろん、ギエムも吉田ももう本格的クラシックから退いている。が、森下洋子のような例もある。)、ベジャールのあのクラシックのテクニックをパーフェクトにベースとしたモダンを演れるのは若い時だけだろうと考えるからだ。公演後には体重が何キロか確実に減っているのではと思うくらいの運動量である。
「80日間世界一周」は有名な映画。で、「80分間世界一周」。このコンセプトがまた面白い。実際は95分もあったが、その分通常幕間にある休憩が全くなしのぶっ通しである。イントロダクションで旅人が現れ、セネガル、サハラ、エジプト、ギリシャ、ヴェネツィアと流れるが、よくある西洋から見た中東観(オリエンタリズム)は感じられない。ラ。バヤデールやくるみ割り人形などバレエの代表作ではこのオリエンタリズムが気になったものだが、本作はそれが微塵も感じられないだけでも、大成功である。
日本人ダンサーの那須野圭右もいて、人気が高いが、那須野の運動量も半端ではない。そして男性ダンサーが多くの場合上半身裸なのは、あの運動量であればコスチュームなど邪魔になるだけであるからである。
一つひとつの振りはおそらく、よく分からないが、クラシックバレエのオーソドックス、アントルシャ(足の組み替え)だの、トゥール・アン・レール(2回転)だの(用語はもちろん事典で調べた)加味しているのであろうが、その展開の速さ、その合間合間にはさまれる独特の動きといったらない。リフトももちろんあるが、その下ろし方も変わっている。そう、これはクラシックの中のモダン、モダンに名を借りたクラシックなのだ。そういう意味ではモダンよりクラシックを見る機会の多い(それほどでもないが)筆者などはモダンも美しいと感嘆できる要素をふんだんに包含していること、それこそがすばらしい。コンテンポラリーになるともはやダンサーがクラシックの大家であること自体が分からない(少なくとも筆者は)複雑、あるいは予想外の振りもあるが、ベジャールのモダンはクラシックをスピーディに、従来とは違う解釈を加味すればこうなるのだと納得させられる要素が大きいと思われる。
80分(95分)が短いと思わせるほど息もつかせぬ展開だった。80分で堪能できる世界一周とは眉唾と思うなかれ。地球をめぐる躍動の頂点がここにはある。
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子どもには成長と自立の時間がある    冬の小鳥

2010-11-14 | 映画
悲しい物語だ。しかし希望の物語でもある。
ジニは9歳。大好きなお父さんにきれいなべべを買ってもらって、食事。お父さんの呑んでいる焼酎を少し分けてもらって「お父さんのために歌ってあげる。  あなたは知らないでしょうね どれだけ愛していたか  時が流れれば  きっと後悔するわ」。
孤児院から何も言わず去っていく父の姿を見て、置き去りにされたと思うがきっと迎えに来てくれると信じるジニ。
やがて養子になるしか孤児院から出られないと悟ったときジニは。

時代は1975年。ジニには父がいたが、ベトナム戦争に多くの兵士を送り込んだ韓国ではこの頃、父を失い母親だけでは育てられなかったりして、孤児院に預けられる子どもが多かったという。そしてベトナム戦争の当事者であるアメリカやその他のヨーロッパ諸国の養親に引き取られていく子どもたち。ジニも孤児院で仲良くなった年上のスッキに「一緒にアメリカに行こう」と誘われていたが、結局スッキだけが孤児院をでることに。二人で助けた小鳥も息絶え、みんなが出ていった孤児院で一人自分を埋め始めるジニ。しかし、お父さんは迎えに来ないと悟り、自分もやがてフランス人夫妻に引き取られていく。

フランス人監督ウニー・ルコントこそこの物語そのものの人生を歩んでいる。9歳のとき養護施設から、フランス人牧師の家に引き取られている。そして、本作はフィクションだが、監督は子どもの視点からこのような題材を取り上げたかったという。ルコント監督は女優業もしていてがもともとはデザイナーである。韓国で養子の映画、ルコント監督風に言うと、自分のルーツを探す旅、というと大人になった主人公が故郷の韓国を訪れ、回想するというパターンであった(石坂浩一)。しかし、「子どもの視点」を大切にしたルコント監督は徹底して、大人の視点を排した。それが本作の魅力であり、幼いジニの苦しさ、悲しさが余計に伝わってくるのである。
一人殻にこもり心開こうとしない、うち解けようとしないジニは言葉少なだ。そのジニに歌ってという寮母やお父さんと暮らしていた頃のことを聞き出す医者のまなざしはやさしい。いや、キリスト教系の養護施設の院長、シスターらは皆やさしい。そして虐待やネグレクトされるくらいなら、このような施設で暮らした方が幸せな子どもらも多いに違いない。しかし、親からの遺棄を経験した子どもがすぐに幸せになれるわけではない。そこには成長と自立の物語が含有されているのだ。

その昔、ブルース・リーが視線だけで演技をする卓抜さを評されたものだが、ジニを演じた子役のキム・セロンも末恐ろしいほど視線で演技をこなしている。ルコント監督が言うように天性の勘のよさがあるのだろう。固い視線は変わらないが、フランスの空港に降り立ったジニはもう振り返らない。まっすぐ前を向いて歩く姿に、よく耐えたなあと感情移入したくなるエンディングもまた、ジニにも幸せになってほしいと願わずにはおられない希望を感じさせる。そう、子どもには成長し、適応し、乗りこえていくことができる時間が大人よりずっと長くあるのだ。
日本では外国人との養子縁組が諸外国に比べて少ないという。正確なところは分からないが、日本の閉鎖性などという紋切り方の説明ではなくて、どうすれば愛される子どもが増えるか、国際養子、いや、日本国内での遺棄された子どものことなど、多角的、重層的な手当てがなされるような仕組みを考えていきたい。
本作の原題は「旅行者」。ジニの人生の旅行はまだ始まったばかり。幸祈る。


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近代美術の粋   ヴィンタートゥール美術館展

2010-11-07 | 美術
実はヴィンタートゥールに行ったことがある。ヴィンタートゥールに行ったのは、オスカー・ラインハルト美術館が目当てで半日しかなかったため、ヴィンタートゥール美術館には目もくれずということになってしまったが、オスカー・ラインハルト美術館の新館が休みだとわかった時点で行くべきだった。
ヴィンタートゥールはチューリッヒから列車で30分くらいなので遠い距離ではないが美術好き以外はまず訪れないところだろう。というのもオスカー・ラインハルト美術館があるからだ。新館と旧館があり、先述のとおり新館には行けなかったが、旧館だけ訪れた。旧館は本当に小さな建物で紹介するほどのものでもないが、ヴィンタートゥールには、ほかにもいくつか美術館があり、1日たっぷり過ごすべき価値のある町であったのだ。
スイスは人口あたりの美術館、博物館が世界で一番多いそうだ。しかし、あまりに物価が高いため、なかなか行く機会がなかった。それが行けたのはKLMのマイレージを貯めて、航空運賃がただになったから。また貯まったらスイス行きに使おう、いつになるか分からないけれど。
行けばよかったと後悔したヴィンタートゥール美術館の日本で初めての本格的公開が本展。スイスは宗教改革の先端地でもあって、キリスト教美術は豊かではない。そして、永世立国の立場故、ナチスドイツに敵視された近代美術も多く所蔵している。そしてヴィンタートゥール美術館の魅力はこの「近代美術」である。
近代美術という場合、その多くはフランスの印象派から数えられ、第2次大戦前後の制作を指すことが多いと思われるが、ナチスが嫌ったバウハウスの教授陣、ドイツ表現主義、フォービズム、キュビズムなど輪郭をぼかすことで「自然」を意識した印象派から、より機能的、即物的とも言える簡明さで「近代」を認識させた美術作品を多く有しているのがヴィンタートゥール美術館である。
なかでもモーリス・ドニに代表されるナビ派の作品は秀逸である。ナビ派の成立には後期印象派と象徴主義が大きな役割を果たしていると言われるが、ナビ派の理解には輪郭をぼかすことで成立した印象派と輪郭こそ描かれるべきとしたドイツ表現主義などの間に、いわば、迷いありき落とし子のような形で現出したことが面白い。後期印象派にくくられるルドンは、その神秘性からナビ派の先導的役割に見えるし、一方、ある意味平板なナビ派の描写法はキュビズムとは言わないまでも、象徴主義を先取りしているように見えるのは明らかだ。ただ、クリムトなどの象徴主義は、被写体に直接的対峙したフォービズムやドイツ表現主義などとは別物の耽美主義と解していいだろう。だから、ナビ(ヘブライ語で「預言」)との近接性が伺われて違和感がないのである。
もちろん本展はナビ派だけではない。しかし、印象派と20世紀美術の間にあって正当な評価、あるいは、その抽象性故にぐっとファンが減る(日本だけの事象か?)キュビズムなどの分岐した表現世界を俯瞰できるだけのコレクションであることは間違いない。
先に挙げただけではない。イタリア未来派、日本ではあまり知られていないスイスの近代絵画なども取りそろえている。そして最後を締めているのはスイスを代表する、それこそ抽象主義にも見える具象の彫刻家ジャコメッティの「林間地」である。本展は、近代美術の宝庫としてのスイスを再確認できるのである。
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