kenroのミニコミ

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総合芸術家としてのシャガール、ディアスポラとしてのシャガール

2008-09-21 | 美術
「エコール・ド・パリ」なんて括り方も今となっては怪しいが、印象主義と並んで日本ではこの「エコール・ド・パリ」の面々の人気が高いようである。キリスト教のバックグラウンドを持たない日本人が、キリスト教美術にそれほど興味を持たないのは仕方がないが、シャガールは敬虔なユダヤ教徒(ハシェド派=恩寵派ユダヤ教)。そして絵画にも旧約聖書のそれが反映されているというのにそのあたりが理解に苦しむところだ。
ゴッホのように生前は全く評価されなかった画家にくらべ、シャガールは芸術家としてはかなり順風満帆である。ユダヤ人であること、名家の出ではないこと(父は鰊工場の職人)などから進学、結婚などについて障碍はあったが、比較的若くして認められ、パリから帰り革命前夜(もちろん、パリに戻れなかったのは第1次大戦のためである)からロシアにおり、職を得、また舞台芸術を任されるなどしたからだ。
本展はシャガールといえば、あの幻想的な青の世界に馬や人が飛んでいる、ベラと仲むつまじい姿をフィーチャーするお決まりの展示ではない。もちろん、シャガールは人を空漂わすのは好きなようで、ベラと空を飛んだりする様は愉快でもある。
芸術家としては順風満帆と書いたが、ユダヤ人としては当然ディアスポラを経験している。ロシアを離れたのも、パリから渡米を決意したのもユダヤ人であったから。しかし、ユダヤ人であることのアイデンティティを確認するかのようにシャガールはパレスティナの地を何度か訪れている。パレスティナの土地の色、空気の色、それらすべてが新鮮だったシャガールにとって迫害された民のうずきが絵画に反映したかというと実はそうは思えない。
シャガールの生地はベラルーシ(白ロシア)。シャガールはベラとの出会いもあり、生涯、自己の生地、両親、そのまた親(祖父はユダヤ教ハシェド派の重鎮であったという)を育んだヴィテブスクを思い、描いた。そのようなものかもしれない、自己の成長地への思いとは。決して裕福ではなかったシャガールではあるが、弟、妹ら7人に囲まれ、画題にしていることからマルクが幸せであった実感を得られる時代であったのではなかろうか。
シャガールが世に認められ、装丁画や劇場美術をこなした証が丹念にたどられる本展。シャガールといえばサーカス、の原点がここにある。版画に目覚めたのは画家として成功してからで、ドライポイントなど体力を要する版画を体得したのにはバックボーンを持たない芸術家としての意地が垣間見える。
パレスティナの地を何度も訪れたということは、結局戦後は1948年に建国されたイスラエルを訪れたと言うこと。シオニズム的発言も報道された中、シャガールへの距離感を感じざるを得ない筆者ではあるが、少なくとも、シャガールが愛を描いた幻想画は(シャガール自身は「幻想画家」と呼ばれるのを嫌っていたようであるが)イスラエル建国以前のものも多いということを強調すべきかもしれない。
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