kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

言葉を奪われた女性たちのシスターフッド 『誓願』

2024-02-22 | 書籍

マーガレット・アトウッドによる前作『侍女の物語』があまりに優れていたので(「分断、虐げられた女性のモノローグが秀逸 フェミニズムが推す『侍女の物語』」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/f43509c4a15e12bdd5958b59692cc84c)、

アトウッドの30年後の続編にものめり込んだ。女性を産むか産まないかだけに分け、一切の政治的・社会的権限から排除した独裁国家ギレアデの末路を描くが、その全体像を示しているのではない。分断された女性らのシスターフッドを背景に、脱出を試みる者たちのモノローグやダイアローグが連なる。それも3人の視点、女性社会のトップに立つ「リディア小母」、地位の高い司令官の娘「アグネス・ジェマイマ」、そしてジェマイマの異父妹であるカナダの平民出身の「デイジー」。特に後半の脱出劇はスリリングで読むのを止められない。

訳者の鴻巣友季子さんが解説するように、女性に限らず、人間の地位や尊厳を奪うというのは「言葉を奪う」ことである。ギレアデでは最上級の地位にある女性以外、文字を読み書きしてはならない。言葉を封じるというのは、発言させない、無視するということだ。現実の社会でも見られる実態だ。世界を見渡せば、女性の地位が男性のそれより低い国の方が多い。日本でも伊藤詩織さんやColaboの仁藤夢乃さんへの嫌がらせ、罵倒、攻撃を見れば分かるだろう。そしてギレアデのモデルであるアメリカでは、前大統領トランプによって、最高裁判事の構成が保守派に偏り、自身の信条である中絶禁止を合衆国に広げている。これは、産む、産まない、を女性自身が決めることを禁止するものであり、そういった生殖や生き方そのもののへの女性の発言を封じるものだ。

ギレアデはカルト宗教国家でもある。中絶を禁止しているからカソリック的に見えるが、カソリックは異端だ。中絶を禁止するということは、危険な出産で命を落とす女性も多いということである。そして、国民に死がとても近い。それは公開処刑の多さや、「侍女」に与えられる発散行為=違法をなした男性を文字通り「八つ裂き」にする、を含む。恐ろしく血生臭い行為だが、処刑も含めて彼女らは粛々とこなす。もちろん、それは「正しい」行為だからであり、命や人権といった民主主義における普遍的価値が一切ないからである。しかし、民主主義とはそれぞれ個性を持った一人ひとりへの差別や迫害、あるいはその内面に侵襲するそれらの自己正当化とのたたかいそのものでもある。であるから、アメリカの幾州や日本をはじめ、死刑を存置、執行する国の実態と地続きと言えるものでもある。さらに、鴻巣さんが紹介するように、アトウッドは「自分はこれまでの歴史上や現実社会に存在しなかったものは一つも書いたことがない」というから、未来・SFとジャンルされるディストピア小説とは、実は現実のルポルタージュであるのだ。

作品のエンディングは、ギレアデ崩壊後、その調査・発掘に勤しむ歴史研究者の講演で締められる。ということは、ギレアデの悪夢はとうの昔ということだ。ここに希望がある。2024年秋に行われる米大統領選では、トランプの復活の情勢とも。トランプの煽動のもと議事堂を襲い、ペンス副大統領らを本当に殺そうとした連中はカルト信者そのものだったが、トランプの復活でまた現れるかもしれない。しかし、ディストピアはいつか終わる。そして終わると言い続けなければならない。全ての人が言葉をもってして。(『誓願』2023 ハヤカワepi文庫)

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民主主主義とは永遠の革命  「○月○日、区長になる女。」

2024-02-16 | 映画

日本では国政選挙で50%を超えるくらい、地方選挙は30%を割ることもあるという。これで民意の反映と言えるだろうか。投票率の話だ。東京特別区の杉並区は人口57万、有権者は47万人、地方では大規模な市になるスケールだ。区長選挙では、3期12年つとめた現職に、2ヶ月前に日本に帰国した女性が挑む。その選挙運動と候補者に密着したのが本作だ。

杉並区は緑が多く、古く安価な賃貸住宅も富裕層が好みそうな区域もあるいろいろな人が住みやすいと感じる人気の区だそうだ。しかし、区が進める駅前再開発、道路計画などに異議を唱える住民らが区長選を見据えて団体を立ち上げる。道路ができれば立ち退かざるを得ない地域の住民や、児童館の廃止によって子どもの行き場をなくす保護者らがいるからだ。しかし、肝心の区長候補が決まらない。立ち退き対象の地域に住むペヤンヌマキ監督が市民団体を訪れカメラを回し始める。そして区長選2ヶ月前にやっと決まったのが岸本聡子。ヨーロッパに20年近く在住していた公共政策の専門家である。岸本にはオランダで民営化した水道を公営に戻した著作もある。だが、杉並区と縁があったわけではない。果たして「落下傘候補」が固い地盤の保守系現職に勝てるのか。

岸本が訴えるのは「ミニュシパリズム」。地域主権(者)主義とでも訳すそうだが、馴染みもないし、分かりにくい。それを岸本は自分の名前の漢字、「耳へんに、公共の公、ハムの下に心、と書いて聡子」「みんなの心を聞く」という意味ですと翻訳する。でもみんなの心を聞くとは具体的にどうすればいいのか、どうであればそういう現実に繋がるのか。

地方選挙、特に市町村など小さな自治体の議員の多くは「地域の声を聞きます」と訴え、時に市政などに反映させている人もいるだろう。でも、都市開発、道路拡張、福祉やコミュニティ施設の統廃合は、本当に住民の意思を反映しているのだろうか。そこに住民自身が立ち上がる契機がある。

地方自治は民主主義の学校と言われる。憲法にも「地方自治」の項がきちん設けられている。ともすると住民自治が置き去りにされる中にあって、杉並には古くから住民運動に携わる元気な(主に)女性たちがいた。岸本陣営を支えたのがこれらの人たちで、ノウハウとネットワークを活かして運動を広げていく。そう、東京都でも西部は昔からその素地があったのだ。そして岸本も「みんなの心を聞く」を実践する。街で自転車を押して駆け回る岸本に話しかけてくる女性。岸本を応援するからこそ、時に厳しい注文もつける。でも、どこかのおじさん候補のように笑顔で握手を繰り返すのではなく、岸本は聞くのだ。

岸本も支援者もこの選挙では勝てると思っていなかったらしく、次の4年後を考えていたという。しかし開けてみれば岸本が当選。わずか187票差だった。岸本の選挙戦は、「区政を変えよう」と集まった人たちが本当に手弁当で、個々の役割を担ったからの勝利だった。そして、有権者もそれを見ていた。すぐに金をばら撒くどこぞの人たちとは全く違うのだ。ミニュシパリズムが芽吹いたのだ。

岸本の区長就任の翌春、支えた住民らが区議選に立ち、見事当選。新人15人が全員当選、現職12名が落選した。杉並区議会は、女性比率が50%を超え、議長にも女性が就任。パリテを実践した素晴らしい構成となったが、その成果はこれからだ。

折しも、群馬県前橋市長選では自公推薦の現職に野党系女性新人が圧勝、京都市長選でも共産党系新人が肉薄した。地殻は自ら変動しなければならない。

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ホロコーストの記憶を永く 「メンゲレと私」『沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』

2024-02-08 | 映画

「メンゲレと私」は、「ホロコースト証言シリーズ」の制作を続けるクリスティアン・クレーネ監督とフロリアン・ヴァイゲンザマー監督の3作目である。1作目の「ゲッベルスと私」(「「あなたがポムゼルの立場ならどうしていましたか?」 ゲッベルスと私」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/f0d385cd52dac4df57216f08e3169402)のポムゼルのようにナチスの宣伝相ゲッベルス側近のポムゼルのように、アウシュヴィッツの悪魔の医者ヨーゼフ・メンゲレの一挙手一投足を垣間見たわけではない。ダニエル・ハノッホは当時少年で、労働力にならない老人、女性、子どもは到着後すぐにガス室送りになったのに、その容姿をメンゲレに好まれ生き延びたからだ。アウシュヴィッツを生き延びたからといってすぐに解放されたわけではない。彼は、アウシュヴィッツで遺体を運ぶ仕事に従事させられ、戦争末期にはマウトハウゼン強制収容所やグンスキルヒェン強制収容所も経験している。そこではカニバリズム目撃も。「過酷」と一言では言い表せないほどの体験を生き延びた12、3歳の彼の支えは何であったか。リトアニア出身のハノッホは、ドイツ国内以上のユダヤ人差別を目の当たりにし、アウシュヴィッツでは己を無感情にして過ごした。「アウシュヴィッツは(よき)学校だった」とも。それはいつかユダヤ人の希望の地、パレスチナに辿り着けると思ったからという。そのパレスチナの地を奪ったイスラエルがガザを始め、アラブ人世界に何をなしているか、現在の状況は語るまでもない。

『沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』(岡典子 2023新潮選書)は、表題の通り、ナチス政権が倒れるまでベルリンをはじめドイツ全土で潜伏し、生き延びたユダヤ人およそ5千人を助けたドイツ人との物語である。もちろん入手できる範囲の史資料を渉猟した史実だ。

ある者はユダヤ人の潜伏ネットワークを駆使して、ある者はナチス高官、ゲシュタポの警察官など政権のユダヤ人滅殺を遂行する立場の手助けさえあった。中でも、大きな力となったのがキリスト教関係者である。ユダヤ人だからといってキリスト教と敵対的であるとは限らない。そもそも両宗教は同根だ。もちろん教会の牧師一人が援助できるわけではない。その教会を支える多くの地元ドイツ人たちが役割を担ったから起こし得た救助ネットワークであったのだ。あの時代、ユダヤ人を匿ったりすれば自身も大きく罪に問われる。そのような危険な立場になぜ置けたのか。それは、困っている人を助けたいという純粋に「手を差し伸べる」認識で「できる範囲で」手伝った者が多かったからであろう。そして潜伏していたユダヤ人をはじめ、ドイツ人の中にもこのようなひどい時代はいつか終わる、と信じていたからと思える。

オスカー・シンドラーや杉原千畝のように後世に名の残る、何らかの決定権を持った人たちではない、市民が一人ひとり隣人を支えたのだ。ただ、潜伏を始めたユダヤ人はおよそ1万から1万2000人。半数は生き延びられなかったという。それでも10数年にも及んだナチス政権を生き延びた人がこれほどいたことに驚きを覚える。

アウシュヴィッツを生き延びたハノッホは、自身をささえる糧に希望を語った。シベリア抑留を生き延びた小熊英二さんの父親も「希望」を胸に生き延びたという。「希望」がない、語れない国は滅びる。少子化がどんどん進み、次世代を生まず、育てないのは希望がないからという小熊英二さんの言葉を噛み締める。

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