マーガレット・アトウッドによる前作『侍女の物語』があまりに優れていたので(「分断、虐げられた女性のモノローグが秀逸 フェミニズムが推す『侍女の物語』」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/f43509c4a15e12bdd5958b59692cc84c)、
アトウッドの30年後の続編にものめり込んだ。女性を産むか産まないかだけに分け、一切の政治的・社会的権限から排除した独裁国家ギレアデの末路を描くが、その全体像を示しているのではない。分断された女性らのシスターフッドを背景に、脱出を試みる者たちのモノローグやダイアローグが連なる。それも3人の視点、女性社会のトップに立つ「リディア小母」、地位の高い司令官の娘「アグネス・ジェマイマ」、そしてジェマイマの異父妹であるカナダの平民出身の「デイジー」。特に後半の脱出劇はスリリングで読むのを止められない。
訳者の鴻巣友季子さんが解説するように、女性に限らず、人間の地位や尊厳を奪うというのは「言葉を奪う」ことである。ギレアデでは最上級の地位にある女性以外、文字を読み書きしてはならない。言葉を封じるというのは、発言させない、無視するということだ。現実の社会でも見られる実態だ。世界を見渡せば、女性の地位が男性のそれより低い国の方が多い。日本でも伊藤詩織さんやColaboの仁藤夢乃さんへの嫌がらせ、罵倒、攻撃を見れば分かるだろう。そしてギレアデのモデルであるアメリカでは、前大統領トランプによって、最高裁判事の構成が保守派に偏り、自身の信条である中絶禁止を合衆国に広げている。これは、産む、産まない、を女性自身が決めることを禁止するものであり、そういった生殖や生き方そのもののへの女性の発言を封じるものだ。
ギレアデはカルト宗教国家でもある。中絶を禁止しているからカソリック的に見えるが、カソリックは異端だ。中絶を禁止するということは、危険な出産で命を落とす女性も多いということである。そして、国民に死がとても近い。それは公開処刑の多さや、「侍女」に与えられる発散行為=違法をなした男性を文字通り「八つ裂き」にする、を含む。恐ろしく血生臭い行為だが、処刑も含めて彼女らは粛々とこなす。もちろん、それは「正しい」行為だからであり、命や人権といった民主主義における普遍的価値が一切ないからである。しかし、民主主義とはそれぞれ個性を持った一人ひとりへの差別や迫害、あるいはその内面に侵襲するそれらの自己正当化とのたたかいそのものでもある。であるから、アメリカの幾州や日本をはじめ、死刑を存置、執行する国の実態と地続きと言えるものでもある。さらに、鴻巣さんが紹介するように、アトウッドは「自分はこれまでの歴史上や現実社会に存在しなかったものは一つも書いたことがない」というから、未来・SFとジャンルされるディストピア小説とは、実は現実のルポルタージュであるのだ。
作品のエンディングは、ギレアデ崩壊後、その調査・発掘に勤しむ歴史研究者の講演で締められる。ということは、ギレアデの悪夢はとうの昔ということだ。ここに希望がある。2024年秋に行われる米大統領選では、トランプの復活の情勢とも。トランプの煽動のもと議事堂を襲い、ペンス副大統領らを本当に殺そうとした連中はカルト信者そのものだったが、トランプの復活でまた現れるかもしれない。しかし、ディストピアはいつか終わる。そして終わると言い続けなければならない。全ての人が言葉をもってして。(『誓願』2023 ハヤカワepi文庫)