kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

パンドラの箱を開け、出てきたのは  「エルピス  ー希望、あるいは災いー」

2022-12-31 | Weblog

このブログで映画ではなくテレビドラマを取り上げるのは本当に珍しい。それくらい取り上げるに値する優れた作品だと思うからだ。

長澤まさみさん主演の「エルピス ―希望、あるいは災いー」(関西テレビ系)は、冤罪事件に関心のある者なら、物語のベースに飯塚事件や足利事件の要素があることにすぐ気づくだろう。現にプロデューサーの佐野亜裕美さんは、さまざまな冤罪事件を参考にしたことを明らかにしているし、同時に伊藤詩織さんの性被害もみ消し事件にもヒントを得ていると明かしている。なるほど、飯塚事件や足利事件はいずれも女児の殺害事件である。そして、飯塚事件で犯人とされた久間三千年さんが、確定後わずか2年で死刑が執行されたのは、ちょうど確度の高い新しいDNA鑑定により足利事件で服役していた菅谷利和さんの無実が明らかになる直前だったことから、久間の死刑を急いだのではと大きな疑惑がある。エルピスでは被害者が中学生に置き換えられてはいるが、飯塚事件のように連続犯、真犯人のDNA鑑定によって、無辜の死刑囚の雪冤につながるという点も同じだ。さらに、物語の前半が冤罪事件を追う展開が中心であるのが、後半は、真犯人を匿い、無関係の被疑者をでっち上げる権力犯罪の様相が大きくなる。そして、終始それを追い、描く報道の側の問題、視聴率重視や横並び、権力への忖度、自己保身といったテレビ業界の膿を自ら仔細に描いているところが凄みだ。

真犯人の父親が自己の地盤の有力支援者であり、その醜聞をなきことにするため、警察に圧力をかけ、無実の人を死刑にまで落とし込む政権与党の大門雄二副総理は、麻生太郎現副総理がモデルとのもっぱら話題となっている。そして麻生副総理といえば、安倍晋三政権を支えた功労者であり、伊藤詩織さんを性暴行した件で山口敬之元TBS記者に逮捕状まで出ていたのに、執行直前に取り消しになったのは菅義偉官房長官に近い中村格警察庁刑事部長が指示したことも明らかになっている。紛れもない権力犯罪(もみ消し)である。

ドラマでは、現実にはあり得ないと思いたい、大門副総理が自分に近い議員の性犯罪をもみ消すために、それを明らかにした娘婿まで「始末」する様が描かれる。もちろん自殺に見せかけて(もっとも、ロッキード事件での田中角栄秘書の「自殺」や、あの森友事件でも自殺者が出ている)。この議員による性暴行と娘婿の疑惑死をニュースでぶち上げようとする長澤まさみさん演じる浅川恵那キャスターに、現場責任者は放送させまいと必死で止めるが、聞かない浅川のもとに現れるのは元恋人で、テレビ局の政治部官邸キャップから大門の引きで議員出馬を目指し、現在はフリージャーナリストの斎藤正一(鈴木亮平)。斎藤は、浅川に今それを明かせば、日本の政治、外交、経済等に大きな影響が及び、不幸になる国民が夥しく生まれることを想像できるか、責任が取れるのかと問う。そして自分が国会に出た暁にはけじめをつけるとも。このシーンには若干違和感があった。と言うのは、権力が本当に権力たり得て怖いのは、一メディアの暴露により権力構造そのものが崩れることは考えにくいからである。たとえ政権与党が変わっても。「文春砲」を後追いする現在の野党に皮肉を効かせているのかもしれないが。むしろ、志を持ち、清廉な政治をと目指した一議員も権力に近づけば、近づくほど当初の志から遠ざかってしまう(だろう)という現実を暗に示しているのかもしれない。

「カーネーション」をはじめ、数々の傑作を送り出してきた脚本の渡辺あやさんと、この企画を数年がかりで、放送局を移ってまで実現させた佐野プロデューサーとのコンビで面白くないはずがない。ドラマでは死刑囚には解放された平和の日々が、マスコミに追い回される大門副総理の姿が描かれる。飯塚事件の久間さんの雪冤も是非と思うが、よりハードルが高いだろう。

中村格氏は論功で警察庁長官まで上り詰めたが、安倍氏銃撃事件の警護ミスの責任を取り、辞職した(退職金は8000万なそう)。歴史の皮肉とうやむや感はどこにもあるが、せめてドラマでは正義を通して欲しいし、それを考えさせるドラマであったと思う。

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そう、関西最大の美術運動なのに「未知」であったのだ。「すべて未知の世界へ GUTAI  分化と統合」

2022-12-06 | 美術

ちょうどゲルハルト・リヒター展(豊田市美術館2022.10.15~2023.1.29)で見たリヒターの〈アブストラクト・ペインティング〉(「抽象画」というとそのままだが、作品名(シリーズ)である。)でスキージ(squeegee:平ヘラ)が使用され始めたのが1980年代だと知ったことから、名坂有子が具体美術協会で活動しだした1960年代にスキージを使用した同心円状の作品を多く制作していたことに驚いた。ただ、両者の間には制作手段(道具)がたまたま似ていただけでその意味合いは大きく異なるだろう。リヒターの「かたちを成してはまた別様に転じる」手法は「20世紀後半のモダニズム絵画が志向したような絵画の自律性とは異なり、メディウムとしての絵具が自律へと解放されている」からだ(「「絵画は役に立つのです」−リヒター作品における「もの」と「ビルト」、「複数性」と「真実性」をめぐって」鈴木俊晴『ゲルハルト・リヒター展図録』2022)。

「絵画の自律性」とは何か。筆者の拙い理解で言うと、絵画はそれ自体で完成形であり、他の要素に左右されない、という考え方と言っていいだろう。ここでいう「他の要素」は、典型的には明確な政治的主張や美術界にとどまらない既存の体制に対する反抗といったものが考えつくだろう。それは、戦争中自由な表現が圧殺され、体制が認める表現しか選択しえなかった世代が、戦後、民主主義の世の中となり、圧殺の反動として開花させた表現でもあった。大正期に花開いた近代日本美術の中の前衛は、徐々に体制側に組み込まれ、ある者は従軍画家のように戦意高揚の片棒を担ぎ、ある者は積極的に美術界の国家主義化、天皇制軍国主義発意の頭目となった。そして、1941年にシュルレアリストの福沢一郎と瀧口修造が治安維持法違反で検挙されるに及んで、日本の前衛美術は終焉した。

 戦後、前衛をはじめ画家らは活動を再開し、戦争下の鬱屈を表現したり、明るい希望を画布に託そうとした。そういった中で共産党など左翼陣営の復興に合わせて、労働運動・農民運動をサポートする絵画(ルポルタージュ絵画)や、より自由な表現を求めてアンデパンダン展への「過激な」出品なども相まった。これらはいずれも「他の要素」を背景とした、美術作品で自己の主張を背景にした表現活動と言えるだろう。

そういった時代背景の中で、占領下も終わり、戦後10年近く経った時、「(絵画の)自律性」を高らかに宣言した美術運動が始まった。1954年発足の、政治も美術もあらゆる近代的価値の中心地である東京ではなく、関西、それも大阪ではない地芦屋と言う街で勃興した「具体美術協会」(「具体」)である。指導者・吉原治良の宣言は言う。「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。具体美術に於ては人間精神と物質が対立したまま、握手している。」(「具体美術宣言」『芸術新潮』1956年12月号)。折りからのアメリカ抽象表現主義の理論的バックボーンともなった、絵画における歴史的文脈を拭い去ろうとしたフォーマリズムを、さらに戦後・解放後の日本の美術事情を加えたメディウムの力、表現そのものの力を強調する物言いと言えるであろう。

本展では、大阪中之島美術館で具体の個々のメンバーの表現の独立した挑戦を「分化」で、国立国際美術館では、その個々のメンバーが団体として「統合」する様を読み解く。具体の作品がそれぞれに散らばっていたものを集合、系統立てて知ることができるのも2館を跨いだ本展の特徴だ。戦後、関西が産んだ最大の美術運動であるのに、美術界以外の一般鑑賞者にはとっつきにくい感もあった具体の総合展。心して見ていきたい。(すべて未知の世界へ  -GUTAI 分化と統合 展は、1月9日まで)

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壁を越える試みが、人をつなぐ  「こころの通訳者たち」

2022-12-01 | 映画

講演などをテープ起こしするにはカセットテープが一番で、ICレコーダーは使いにくいと思っていたら、文字変換ソフトがかなり進化していて、今では正答率が90数%までいくとか。そもそもカセットテープは百均くらいにしか売っていないし、レコーダーはどこに売っているのだろう?

「こころの通訳者たち」は、舞台手話通訳者(通常の手話通訳と違い、通訳者も出演者として、役者と同じ衣装を舞台に立つ)が聴こえない人のためにどう演劇を楽しんでもらうか、その演出、表現等工夫して作り上げた舞台映像(「ようこそ舞台手話通訳の世界へ」)を、今度は、流される文字の台詞をラベリング(台詞を音声に変換)して、見えない人に舞台を楽しんでもらおうとする取り組みを描いたドキュメンタリーである。こんがらがりそうだが、要するに①聴こえる、見える人を対象にした舞台 → ②台詞を舞台袖に流し、聴こえない人に対応 → ③その台詞を、見えない人に理解しやすいよう言い換えて音声として加える。という途方もなく時間と労力のかかる作業の成功譚だ。

これは、通常「健常者」だけを観客として想定している舞台に聴こえない人に対する壁を越え、さらに見えない人に対する壁も壊す、拡げるコミュニケーションの「越境」挑戦なのだ。しかし、「越境」が現代には必要不可欠であることは言を俟たないであろう。

グローバリズムというとき、すぐに日本人の英語力(最近では中国語力か)などをと想起されるが、コミュニケーションの手段は語学だけではない。そもそも手話(見えない人に対する触手話なども含む)は言語であるし、独立した伝達方法である。この言語によって見えない人や聴こえない人との会話が成立するなら、見える人、聴こえる人の世界も広がるのは明らかである。だから、私たちが外国語を学ぶ時に、もちろん海外赴任でイヤイヤというのもあるだろうが、その言語を話す人の背景に思いをいたし、想像力を掻き立てられることが理由となるのには、見える、聴こえるにとどまらない。

人は言葉が通じず、すぐにの伝達が困難な時、一所懸命伝えよう、理解しようと工夫、努力する。そうしている間は、人間関係に紛争は生じない。その努力に時間を割いている間は戦争も起こらない、というのは楽観すぎるだろうか。しかし、歴史を見れば、他者を差別、迫害する際には、その他者を「何を言っているか分からない蛮人」と見做してきたのではないか。そして、仮に同じ民族内であっても、見えない、聴こえない人は情報弱者として差別、迫害してきたのではないか。

ちょうど『くらしと教育をつなぐ We』241号(2022/12/1)では、日本で唯一「日本手話」を使って幼・小・中学部の一貫教育(バイリンガルろう教育)を行なっている東京・品川区の「名晴学園」のことが取り上げられている(http://www.femix.co.jp/latest/index.html)。幼い頃から二つもの言語を手に入れた(しかも、「日本手話」はアクティブ!)子どもらの生き生きとした様子が素敵だ。

「こころの通訳者たち」のサブタイトルはWhat a Wonderful World。原曲はサッチモことルイ・アームストロング。戦前から(敵性語)英語で外の世界とつながろうとした人たちを描いた「カムカムエブリバディ」の主人公雉真るい(深津絵里)の愛称は「サッチモ」であった。

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