アメリカには、ポリティカル・コレクトネス(political correctness)という用語が幅を利かせている。政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。なかでも「宗教」はセンシティヴで大きなファクターだ。
スポットライトで描かれるのは、ボストンのカトリック界で、司祭らが子どもを性虐待していたことをおおい隠そうとしていた事実をボストンのグローブ紙がスクープした実話がもとになっている。おぞましいばかりの性虐待。なかには成人後、その傷に苛まされ、自ら命を絶った被害者もいる。そう、性虐待は、魂の殺人なのだ。
問題は、そのような事件を、カトリック界を敵に回す報道を地元新聞社として全面的にできるかということ。ボストンはアメリカでも有数のカトリックの強い地域で、ボストン・グローブ読者の53%がカトリックと言う。しかし、さきほど「ボストンのカトリック界で」と書いたが、ボストンで起こっていたことは、全米、いや全世界で起こっていたことだ。そうするとヴァチカンを敵に回すことになる。記者ら、特に上層部や、教会とつながりのある弁護士らが事実を明らかにすることに躊躇、反対することは当然だろう。しかし、ジャーナリズムにはポリティカル・コレクトネスではないけれど「正義」は必要だ。少なくとも、この件を明らかにしようとした新任の編集局長バロンと「スポットライト」チームはそう考えた。
被害者の証言は必要だが、聞き出せるのは容易ではない。話せるのは自己の被害を知らせて、加害者をきちんと罰してほしいと思うサバイバーだけだからだ。そして、記者の一人サーシャが偶然会うことのできた司祭は「いたずら」であって「性暴力(行為)」ではないという。それは「満足を得られなかったから」。自分勝手で明らかに倒錯しているが、性暴力加害者とはあながちそういうものかもしれない。「いたずらだった」「合意があった」。そして、元神父で「問題のある」神父が送られてくる療養所で働いていた情報提供者のサイプは性犯罪を研究してきた心理療法士でもあり、加害者の性癖を分析してみせる。加害者は「性的に未熟」あるいは「神父全体の6%が小児性愛者である」と。
サイプの指摘通り、ボストン全体の神父中約6%の87名が関わっていたことが記者らの調査で明らかになる。そして、泣き寝入りさせられていた被害者らに強引に示談を持っていたのにはチームリーダーであるロビンの旧知の友人である弁護士が関わっていたことも。
全編、スリリングでウォータゲート事件を暴いたかの「大統領の陰謀」を彷彿とさせるジャーナリズムの王道。ボストン・グローブ社はこの報道でピュリッツァー賞ほか多くの報道大賞を得、映画はアカデミー作品賞・脚本賞を受賞した。
ジャーナリストは第4の権力足り得るためにどのような取材対象にもひるんではならない。しかし、「正義」のアメリカだからこそ暴かれたのかもしれないし、そこにカタルシスを持つ向きもあろう。翻って、NHK会長が「原発報道は政府・電力会社側の言い分を」といい、報道関係者の重鎮は、度重なる首相との会食をこなしているこの国。報道の自由度ランキングが史上最低の61位になった日本。甘利経済再生相の収賄疑惑もきちんと続報がない。政府の武器輸出を「防衛装備移転」との造語に乗るメディアの姿勢といい、スポットライトチームのような気概も「正義」もないことは明らかだ。