kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

赦しと和解の物語 古き友や時代は忘れない 「在りし日の歌」

2020-06-26 | 映画

「赦し」と「和解」の物語である。中国映画が描く個人史のスパンは長い。スターリンの死から文化大革命までを描き、高い評価を得たが中国での上映禁止となった「青い凧」(田壮壮監督 1993)、レスリー・チャンが美しかった陳凱歌監督の「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993)、個人史とは言い難いが、時代はそれらより古く中国ではなく香港・日本合作の「宗家の三姉妹」(メイベル・チャン 1997)もある。「青い凧」のように有名人ではない一介の市民の目から通して中国という巨大な帝国、その歴史的変転の目撃者足り得たのが本作だが、本筋はそこにはない。あくまで組織の論理と時代の変化、都会と地方、貧しいままの人と成功して裕福になる者、の人生のタームを描いたところに3時間の長尺を感じさせない魅力がある。人は厳しく、ときに非道で、また忘れ得ない存在で優しいものだと。

1980年代、北方の町の国有企業で働くヤオジュンとリーユンの夫婦に子どもが授かる。全く同じ日に子どもが生まれたインミンとハイイエンの夫婦も工場の仲間。家族ぐるみで皆が楽しく、助け合っていた時代。しかし、「一人っ子政策」の時。リーユンの妊娠が分かると工場の計画出産委員会の幹部になっていたハイイエンにより強制的に中絶させられ、しかも医師のミスでリーユンは2度と妊娠できない体となってしまう。そしてリーユンらの子シンシンとハイイエンらの子ハオが危ない沼遊びをしていてシンシンは溺死してしまう。市場経済が勃興する90年代、工場の縮小化でリストラされたリーユン夫婦は遠い南の小さな海辺の町に居を移し、養子を取り、シンシンと名付けて育てていたが、自分に死んだ息子を重ねる養親に反発し、成長したシンシン(本名はヨンフー)は家を出て行く。その頃、工場時代にヤオジュンを兄のように慕っていたインミンの妹モーリーが海外に行くからとヤオジュンにわざわざ会いに来る。夫婦の関係にヒビを感じるリーユン。好調な経済で海外膨張を続ける中国では先進国に渡る者が急増した2000年代。そして成功し、富裕層となったインミンとハイイエン、立派に医師となった息子ハオはもうすぐ子どもができる。しかし余命を自覚したハイイエンはリーユンとヤオジュンに会いたいと言う。死の床にあるハイイエンの元をリーユンとヤオジュンが20年ぶりに会いに来る。時はもう世界第二の経済大国となった2010年代。

自己を振り返っても悔いが残り、きちんと謝っておけばよかった、償っておけばよかったと思い出す出来事や人間関係はある。あるいはそもそもそういった悔恨が生じるような関係性、生き方をその時選んだ自分を恥じる思いもある。しかし、起こったこと、なしたことは取り消せないし、その上で未来の自分がいかに生きるか、他者との関係性を持って行くかが大事と問われる以上、人はその存在が消えるまで抱え込まないといけない業みたいなものだと理屈では分かる。リーユンとヤオジュンの夫婦もハイイエンとインミンの夫婦も、そしてハオもその葛藤と20年以上並走してきたのだ。物語はリーユンとヤオジュンの生き方を時空を超えてオムニバス風に描かれるが、その行きつ戻りつする彼らの姿に違和感はない。いや、20年を超える彼らの心情を描くには時系列ではかえって現実感がない。

息絶え絶えのハイイエンは、手を握るリーユンに最後「ごめんね」。この時分かった。もうリーユンは赦していたのだと。中国語の原題「地久天長」はスコットランド民謡の「オールド・ラング・サイン」のこと。日本では「蛍の光」で卒業式の歌として定着しているが、本来は永久の友情のために酒を酌み交わそうとの意。効果的に流れるメロディをバックに「友情は天地の如く長久(とわ)に変わらず、古き友よ、良き時代をいかに忘れられようか」と歌われる。国家に翻弄されても人と人の繋がりこそ断ち難いものであると。

私は忘れないつもりだけれども、私が傷つけた人たちはもう赦してくれるだろうか。

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嘘で塗り固められた人生『女帝 小池百合子』を読む

2020-06-22 | 書籍

第1次、第2次と2度の大戦に従軍したドイツの画家オットー・ディックスは戦後「人間は忘れっぽい」と戦争を繰り返す愚かさを嘆いた。ディックスは第1次大戦後の街にあふれる傷痍軍人、娼婦、戦後成金などを描いて警世としたが、反戦思想を煽るとしてナチスは「退廃芸術」の烙印を押し、画家としては不遇であった。そして50歳を越えての再びの召集。ディックスの「戦争(祭壇画)」は戦間期に描かれたものものだが、その悲惨さと迫力はおよそ100年後の私たちに対しても鬼気迫るものがある。

ディックスの話ではない。「人間は忘れっぽい」ことがとても大きな問題なのだ。再選確実と言われる小池百合子東京都知事のことである。その人間の忘却癖に見事に乗っかり、自分がなした過去の行動、発言をパソコンのように全て上書きし、なかったことにする術に長けた稀代の嘘つき政治家。それが小池百合子の実像であることを明らかにしたのが本書である。しかし、著者の石井妙子さんは小池百合子を批判、論難するために上梓したのではないという。それはむしろ小池百合子を賞賛、無批判にヨイショしてきたメディアとそれに乗せられて選んできた有権者、そのような社会でいいのかという危惧に向けられている。

「犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは(精神病質者=サイコパスを)以下のように定義している。①良心が異常に欠如している ②他者に冷淡で共感しない ③慢性的に平然と嘘をつく ④行動に対する責任が全く取れない ⑤罪悪感が皆無 ⑥自尊心が過大で自己中心的 ⑦口が達者で表面は魅力的」(ウィキペディアより)

カイロ大学卒(本当は卒業していない)の英語もアラビア語も堪能な(同じく「堪能」には程遠い)、芦屋出身の裕福なご令嬢(芦屋に住んでいたことはあるが、父はホラ吹きで政界の鼻つまみ者にて破産を経験)で経済専門のニュースキャスター(専門でもないし、キャスターではなくアシスタント)など、小池の嘘は枚挙のいとまがない。しかし、メディアは本人の言を垂れ流し、検証することもなかった。それは小池が常に立ち回ったとてつもなく大きな権力志向に気づかず、彼女のイメージ戦略にまんまとひっかかったからだ。細川護熙の日本新党、小沢一郎の自由党、小泉純一郎、安倍晋三の自民党と所属政党をコロコロ変え、その度に自分が以前無理やり接近して持ち上げた党首を徹底的に批判、こき下ろす。それに幾度も快哉を叫んだメディア。都知事選に出た時は築地市場の豊洲移転を決めたオッサン政治=旧弊の象徴としての石原慎太郎を「退治」するとばかりに築地も豊洲も生かす、との公約で圧倒的な勝利を得た。しかし、知事になってからは築地のことには一切触れない。

万事がそうなのだ。小池が都知事選に出たときの公約は「7つのゼロ」である。待機児童ゼロ、残業ゼロ、満員電車ゼロ、ペット殺処分ゼロ、都道電柱ゼロ、介護離職ゼロ、多摩格差ゼロである。このうちペット殺処分ゼロは達成したかのように報道されているが、石井さんによると「老齢、病気持ち、障害のある犬猫は殺処分しても、殺処分とは見なさない、と環境省が方針を変更した」からであくまで後付けの理由に過ぎない。しかし、小池はそんな公約をしたことさえ無視する。築地も豊洲も生かすと言った舌の根も乾かぬうちに、自民党に擦り寄りたいためIRを推し進める二階俊博に擦り寄ろうと築地のテーマパーク化などともぶち上げる。現在コロナ禍でテレビに出てくるのを嬉々としている姿もこの延長にある。

小池のカイロ大学卒業疑惑はエジプト政府が「証明」宣言したことで決着したことになっているが、エジプトは軍事政権で日本からのODA額も凄まじい。小池の父勇二郎はカイロで散々「娘の百合子は議員になってエジプトの外交関係は全て百合子次第」旨吹聴していた大ボラ吹きで、それを利用しようとしたエジプト権力の思惑もある。であるから、小池のかつての交際相手の舛添要一が「まともな大学なら一大学生の卒業を声明するわけがない」と言ってももうメディアはそちらにはなびかないのである。

怖いのは、上記ロバート・D・ヘアのサイコパス規定に小池がすべて当てはまるのに、都知事再選はもちろんのこと、次期首相にとの声がメディアで流され、少なくない有権者もそれを望んでいることだ。月並みな言い方だが、権力者には権力そのものを愛するのではなく、有権者に誠実に向き合ってほしい。その正反対に位置するのが小池百合子で、本書はそれを明らかにした。都民は投票の前に本書を必ず読むべきだ。

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課税の構造を変えて格差をなくす試み 「21世紀の資本」

2020-06-18 | 映画

れいわ新撰組党首の山本太郎氏が東京都知事選への立候補を明らかにした。その山本氏が本作の宣伝を無償で買って出た。「720頁の本を僕も読んでいません。でも映画はオススメです」。恥ずかしながら私もトマ・ピケティの原書は読んでいない。竹信三恵子さんの『ピケティ入門 「21世紀の資本」の読み方』(2014年 金曜日)だけである。

簡単に言うとピケティの主張は、現在の資本(主義)の実態は、世の中全体の儲かり方より金融資産を多く有する大金持ちの儲かり方の方が多いから、それを正して「健全な」資本(主義)にしようというものである(間違っているかも?)。確かにウオール街を占拠したオキュパイ運動では「(あんたら1%の人間が富を独占し、一方)我々は99%だ!」との主張だった。1%の人間が富を独占しているというのはこの映画でも示される。世界の金持ち上位50人の内訳はアメリカ22人、中国8人、日本1人だとか。それをもって映画のパンフレットで高橋洋一嘉悦大学教授(数量政策学者)は「日本の実情を見る限り、格差は他の先進国ほど酷くないし、格差是正のための税制も完全とは言えないものの、他の先進国よりまし」であり、「日本は世界の先進国の中では比較的平等な国であ」り、「日本でよかったとも思うだろう」「日本のような高負担の相続税や資産課税は、本作では言いたいことを既に一部実践していることを誇らしく思うだろう」と日本エライ!である。が、本当にそうか。

格差が日本よりひどい国として想定されているのはアメリカと中国か。実態としてそういう部分もあるかもしれないけれど、「比較的平等」なら生活保護を受けられないで餓死するとか、今回のコロナ禍で働く場やつながりを失い、自死する人はいないのではないか。まあ、数量政策学者の人が見る「数量」にはそういう数量に入らない人は無視していい存在なのもしれないが。

産業革命を経たヨーロッパでは労働者の賃金を抑えて搾取しまくりの政策が破綻し、労働者の賃上げ要求とともに物価もどんどん上がっていく。そういった労賃や物価といった目の前の変動する資本と無関係で財産を溜め込み、受け継げたのが、領主や金融保資産有層である。フランス革命で王制は倒れたが、労働者が解放されたわけではない。さらに労働者の国を目指した共産主義思想はソ連やベルリンの壁崩壊で潰えた。中国は共産主義ではなく「国家資本主義」である。

米アマゾンCEOの離婚に伴う財産分与が7兆円であるとか、日本ではネット通販大手の社長が月旅行を募集しているとか。ホンマかどうか分からない部分も含めて、世界の金持ちはとんでもない財産を有していそうだが、本作で厳しく追及されるのはタックス・ヘイブンである。パナマ文書はそういった世界の富裕層(企業)が、課税のない(やわい)国に本社登記をなし、税を逃れてきた実態にも言及し、ピケティは「本社登記地ではなく、売り上げをなした場所それぞれの売り上げに応じた課税を」旨、グローバルな課税連携を主唱する。それはある意味、世界それぞれの地域で富を貪る資本主義とは相容れず、むしろ国際的な社会主義とも見えなくもない。また不動産や株、投資などの金融資産への課税強化も訴える。

このような現代の極端に富が集中する世界は80年代のサッチャリズムとレーガノミクスによるものが大きいとの前提も解説された。それに乗っかったバブル期だった日本は「失われた」世代を生み出し、いや国そのものが「失われた」時代を生き続けている。国の借金はもう誰も見たくない、考えたくない額に達している。アベノミクスは浜炬子同志社大学教授によると実態経済の伸張や国民の富は全然増えていないという意味でアホノミクスなそうな。ピケティの矢は日本にも届くであろうか。

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