kenroのミニコミ

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告発と支えと    「彼女の名はサビーヌ」をめぐって

2009-04-20 | 映画
「知的障害」という表現をあまり使わず、「発達障害」という語とは別の概念としてはっきり使用されだしたのは最近のことらしい。ただし、「知的障害」という語が差別的であるということではなく、その昔「精神薄弱」や「精神遅滞」という「精神」という語を含んだ言葉の言い換え、「発達障害」とは別の範疇、すなわち成人になってもそれぞれの症状を有する人がいるという程度で、「知的障害」という用語も使うらしい。自閉症とならんで、近年の症例・脳医学研究の発展のなかで「知的指数の高い自閉症」としてアスペルガー症候群(オーストリアの研究者ハンス・アスペルガーの研究成果に陽があたったのも近年という)も、それ自体が暴力的な行動を起こすとか、生育歴と関係あるとかのデマは完全に払拭されたと思うが、精神や発達「障がい」の人を取り巻く環境は依然きびしい。
 それら発達障害の中でも広汎性発達障害=自閉症は、子どもの頃は普通学級や養護学級(現在は「特別支援学級」)などで一定の公的対応があるが、それら障がいを持つ人の成年期以降の生活は困難が多い。自立できる人は多くはなく、一緒に生活する親兄弟も高齢化していく。
 フランスでトップ女優のサンドリーヌ・ボネールが妹サビーヌを映した本作は衝撃的だ。ちょっと変わった子だったけれど、家族に愛され、ピアノを奏で、遠いニューヨークへの旅行も楽しみ、海辺ではしゃぐ姿はいきいきとしてまぶしいくらい。それが、兄弟姉妹がだんだん自立、家を離れていき、老いた母とだけ暮らすようになり、「見捨てられた」と感じたサビーヌは母に暴力をふるうように。そして、手に負えなくなった家族がサビーヌを入院させ、5年の後、帰ってきたサビーヌは…。
 薬漬け医療の問題性は現在の薬価点数制度のなかで日本でも繰り返し、語られてきたところであるが、フランスでも事情は大きく異ならないらしい。しかも精神医療といった介助者や補助者が多数必要である現場では、人手をかけずに入院者の面倒をみようとすれば、薬をじゃんじゃん与えておとなしくさせておくという発想になりがちである。サビーヌも5年間の入院によって自分でできることが極端に減り、あのいきいきとした面影もなく、よだれをだらりと垂らし、サンドリーヌに向かって「明日も来てくれる?」と繰り返すばかり。それでも現在のグループホームで暮らすことができ、薬の量も半分になったという。そして、自分にできることも徐々に増えてきたが、それでも入院前のあの姿には戻れそうにもない。サビーヌももう40歳、サンドリーヌも年をとっていく。障がい者の典型事例としてサビーヌもまた肥満気味である(入院前の若い頃はもちろんそんなことはなかった)。重たい体をおこし、移動させるのにも苦労が増す。そして肥満であれば、別の疾病の心配も大きい。あの薬漬け医療さえなければ、と後悔するサンドリーヌ。
 サビーヌを退院させることにしたサンドリーヌはその変わり果てた姿に驚くとともに、妹を引き受けてくれるような施設を探すが、どこもいっぱいである。そもそも自閉症などの障がいを持った人に対する公的ケアはおそろしく貧しい。人手が絶対必要であるのに、施設が足りない、そこにつぎ込まれる公的資金も乏しい、結局家族で世話をする、家族が疲弊し、病院に入れる。病院はじゃんじゃん投薬し、自立からよけい遠い人々を生み出してしまう。
 サンドリーヌは、自己の名声を使って公的扶助の充実を訴えることに最初躊躇していたらしい。しかし、サンドリーヌがサビーヌのいきいきとしていた頃の映像もたくさん撮っていたことが公的扶助を訴えることに説得力をもったと考えられる。自己の名声や慈善趣味のためではない。あのころの妹にもどしてほしいと、だから、今現在の妹を見てほしいと。
 露悪趣味ではないささやでかつ当然の要求と正義が愛を持って語られている。フランスの愛、男女間のそれだけではもちろんない。トリコロールの白が連帯を現していることを忘れるわけにはいかない。
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