kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ロシア美術紀行1 トレチャコフ美術館

2005-08-29 | 美術
正直言ってロシアではエルミタージュ以外に美術館などあまり充実していないと思っていたし、ましてやモスクワに旧ソ連的なプロパガンダ前面!以外の美術館があるとも思っていなかった。バーヴェル・ミハイロヴィッチ・トレチャコフが目指した美術館とは「万人ための造形美術の民間所蔵庫の基礎を置く」ことを念頭に自己のコレクションを民間寄贈に資することを固く決意していたと言う。社会主義の時代であるからこそ私利私欲でない蒐集姿勢、が、その資金は?と矛盾する考えにも安心。なぜならトレチャコフがそのような市民のための美術展示をこだわったのはまだ帝政ロシア、19世紀末のことだったからだ。
トレチャコフの遺志どおり、20世紀美術とそれにつながっていく、それまでのロシア美術の殿堂の風格を具えるだけの威容だ。トレチャコフ美術館は新館と旧館に別れているが、新館の規模こそとてつもない。20世紀、それもヨーロッパ印象主義後のロシア美術を知っている人など職業美術家以外いないのではないだろうか。それでも堪能するほどの量と技量なのだ。私見だが、カンディンスキーの祖国、シャガールの故郷故にドイツ表現主義、フォーブの兆しも明らかである。そしてマレーヴィッチ。
セザンヌの「絵画は円錐と円柱と球で描け」との教えを忠実に表現したマレーヴィッチの作品群が目白押しなどとても愉快。で、その間にウィーン象徴派や、イタリア未来派を意識した作品群。個別の名前を覚えてはいないが、社会主義下にあったこの地でこんな抽象的、実験的作品の数多に出会えるとは。
新館の規模、作品数、感動とは逆に旧館にロシア正教(ギリシャ正教から別れたあの歴史的過程)の栄華をあらわすバロック(ビザンチン)様式の作品が少なかったのが少し意外で残念ではあった。が、モスクワに行かれる方、超オススメである。
蛇足だが、新館の最寄り駅はロマの人もいる労働者街の風情。モスクワ中心街の雰囲気と少し違うが、新館の不便さともに(?)ぜひ足を伸ばしてほしいところだ。
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愛情と憎悪、寛容と非寛容 ヨーロッパ多民族社会における「言葉(テキスト)」の役割

2005-08-24 | 映画
 いずれも戦争が本格化する暗い時代が背景であるが、「アンナとロッテ」のベン・ソムボハールト監督は「戦争映画ではなく、恋愛映画だ」と言っているし、「ラヴェンダーの咲く庭で」もラブストーリーであろう。

 ヨーロッパでは地勢柄バイリンガル、マルチリンガルである人も多い。二つの作品はそのような「言葉」をめぐってときに親しみを持たれ、尊敬される対象となることもあれば、その「言葉」を話すことによって疎まれ、差別されることがありうることを示している。

オランダ生まれのアンナとロッテは幼い頃両親が亡くなったため引き離される。アンナはドイツの貧農に、体の弱かったロッテはオランダの裕福な家庭に。ロッテはアンナに会うためドイツ語を勉強する。一方、ナチスドイツの伸張した時代には、アンナはオーストリア人が出世するための近道、将校をめざす若者とつき合い、ドイツ語を話すことで何の障碍もないが、戦後はドイツ語を話したため疎まれる。ロッテは婚約者をアウシュビッツで失っており、ナチの将校と結婚したアンナを絶対赦すことができず「ドイツ語を話さないで! 二度と私の前に現れないで」と言い放つ。そして二人が再会するのは50年後。アンナを赦すことができないロッテの前に現れたのは、死期の近いアンナだった。

 父の遺産で海辺の静かなイギリス西部の村コーンウォールにひっそり暮らすジャネットとアーシュラ姉妹。そこに現れたのは海辺でうたれて傷ついたポーランド人の若きヴァイオロニスト、アンドレア。ドイツ語を少し、英語をまったく話せない彼にジャネットは古い教科書を持ち出して、ドイツ語で話しかけ、一方アーシュラは英語の特訓をしようとする。

 アンドレアと一番言葉が通じるのはドイツ語を操る女性画家オルガ。オルガに惹かれた村の医者は二人が親密であるのに嫉妬し「ドイツ語を話してる。スパイかも」と警察に密告する。時は1930年代末、ナチスの空爆がロンドンに迫っているときであった。

 「言葉」はその人の出自を瞬時に現し、敵か味方か峻別する材料ともなりうる。ロッテらが婚約者の家族であるユダヤ人を匿っていた際、ドイツ兵が家に現れるが、ロッテがドイツ語を話したことに安心し去っていったシーン。あるいは戦後、ロッテを頼って街を歩くアンナが「エンシューディゴン」と道を尋ねると「けっ、ドイツ人め!」と吐き捨てられるシーン。

「ラヴェンダー…」の二人の女優、イギリスでサーにあたるディムを受賞しているマギー・スミスとジュディ・ディンチについては語るまでもないだろう。マギーは最近「ハリー・ポッター」シリーズのマクゴナガル先生役でお馴染みだが、もともとはシェークスピアものなど古典作品への出演が多い超ベテランだ。フィレンツェが舞台の良作「眺めのいい部屋」さえ記憶に新しい。一方ディンチは、007シリーズのボンドの上司役がすっかり板に付いている感があるが、スミス同様時代ものへの出演も多い。最近では実在の聡明な哲学者でありながら痴呆症(現在日本では「認知症」と呼ばれるが映画公開当時)を病んでいく「アイリス」を好演した。

 スミスがこれまでの役柄どおり謹厳で万事押さえた風情の姉を演じれば、ディンチは突然現れた美しい青年に惹かれる老いた乙女を演じる。その二人の妙が巧みに描かれていて、それぞれがどのような青春、恋愛を過ごしてきたかが明らかになるのであった。やがて世界的ヴァイオリニストとして成功したアンドレアの前を沈黙のまま去り、元の静かな二入だけの生活に戻るところで終わる。

 一方、「アンナ‥」の別れは厳しい。二人とも最愛の人を戦争で失ったのは同じだが、ロッテはナチス側にいたアンナを絶対赦すことができず、何十年も音信不通となってしまうからだ。生きるために言葉を欲し、選び続けた二人。貧しいドイツ人家庭に引き取られてアンナは学校に行かせてもらえず、書物と学習に飢え、神父の持っていた聖書を奪い取りすらすら読んでみせる。

 言葉=記述(テキスト)には、話し言葉(パロール)と書き言葉(エクリチュール)がある。人が物事を伝える場合、人々の眼前で繰り返し使用され、すぐに影響が出るテキストはパロールであり、歴史的記述として蓄積されることはあっても、人々の感情や価値観の変転にはすぐには結びつかない、結局人を変えることができないものはエクリチュールであると解明したのはフーコーだが、「ラヴェンダー‥」と「アンナ‥」の違いを見れば明らかだ。

「ラヴェンダー‥」ではより冷静な姉ジャネットはアンドレアとの会話をドイツ語の辞書や文法本を参考に語りかけ、恋の熱にうなされる妹アーシュラは初めの頃こそ、アンドレアに英語をカードにして教え込もうとするが、結局オーラルスピーキングに頼るのだ。そして、村の医師がアンドレアにスパイの疑いをかけるのは彼がドイツ語を話すのを聞いたから、ただそれだけ。

「アンナ‥」では、引き裂かれたアンナに思いを伝えようと手紙をせっせと書いたロッテ。手紙はロッテの養親によってアンナに届けられることはなかったが、ロッテはアンナに会えたときのために必死でドイツ語を勉強するが、後にドイツ語=ナチス(恋人を殺した犯人そのもの)と連想し、ついにはアンナとの会話も拒否する。戦時下でロッテを救ったのはドイツ語なら(先述)、戦後アンナとロッテを引き離したのもドイツ語であり、それは冷静、沈着、客観的に認(したた)められたエクリチュールではなくパロールであったのだ。なぜならロッテの恋人を奪ったのはアンナではなく、アンナがナチスドイツをイコールに体現しているのではないからだ。他の誰でもないアンナの発するドイツ語こそがロッテには耐えられなかったのであって、ロッテとて文章化されたドイツ語を全面的に否定するものではないだろう。

 アンナもドイツに翻弄された小国オーストリア出身の夫が、社会的地位を得るためには自らナチスドイツ軍に参戦し、そこでの地位向上を目指すしか生きていく道はなかったろう。そしてそのような若者を愛し、力強い大ドイツの主張を疑わなかったアンナ。

 ファシズムの台頭に大衆側の責任があるのは、そのような為政者のプロパガンダ(ヒトラーが演説の名手、すなわちパロールの使い手であったことは事実)に乗ってしまい、社会的弱者を排除する側に容易にまわってしまうことだとすれば、もちろんアンナにも罪はある。しかし、学習の機会を奪われメイドの生活に追われていたアンナに、ファシズムを疑うような言説(これはパロールである場合もエクリチュールである場合もある)に出会うことは少なかっただろう。一方、イギリスの田舎でひっそりと暮らしていた「ラヴェンダー‥」の二人は父の遺産で暮らしながらも、比較的教養のある生活をしていたのであろう。特にジャネットはドイツ語に親しんだことがあったくらいであるから。

 第2次世界大戦、太平洋戦争中の日本では日本語以外の言語が許されるわけがなく  むしろ植民地には現地語を否定し、日本語を強制していた  に比して、ヨーロッパでは違う言語を話す人が隣人としている、あるいは現れることが普通であったことにも驚かされる。

 戦争に伴う憎悪、それにより必然的に発する差別感情、排外主義を言葉のせいにしてはならないし、パロールもエクリチュールもその手段として使ってはならない。むしろ、違う言葉を話す他者の出現によって自己の狭量が試されることを両作品は示しているのかもしれない。いや、大きなお話を持ち出すまでもない、やはり「ラヴェンダー‥」も「アンナ‥」もそれぞれは小さな、しかし大事な愛の物語であったのだ。  
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