kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

無関心で居られる「怖さ」ほど「怖い」ものはない 「関心領域」

2024-05-27 | 映画

映画に怖い作品は数多あるが、ホラーや残酷ものは見ないので、よく見る怖いものというとナチス・ドイツ(の蛮行もの)だろう。しかし、「シンドラーのリスト」のように実際の殺戮、迫害シーンが続くのも「怖い」が、一見穏やかな生活を描いていて、暴力シーンが全くないのに「怖さ」を感じることは十分できるものもある。

「関心領域」とは、アウシュヴィッツ強制収容所群を取り巻く40平方キロメートルの地域。ナチス親衛隊の用語である。反民主主義国家やその指向を隠さない政権は時に婉曲表現を多用する。オーウェルの『1984年』に出てきたニュースピークしかり、安倍晋三政権の「防衛装備移転」(武器輸出のこと)、プーチンの「特別軍事作戦」しかり。ナチスが「関心」を持っているのは、そこが大量殺戮工場の現場であり、その周辺にはそれを暴こうとする反対勢力(連合国側や報道)その他が入り込んではならない「領域」であるからである。しかし、「工場」の周辺には施設従事者以外も住まう。ルドルフ・ヘス収容所長の家族である。

子どもを川遊びに連れて行き、妻ヘートヴィヒと旅行の思い出話をするヘスは、よき父、よき夫である。しかし同時に、自宅に焼却炉の設計技術者を招き入れ、新しい機械がいかに「効率的に」焼却できるかの説明を聞き、「早急に」と指示する。焼却するのはもちろん収容所の死体である。

家族、友人とプール付きの広い庭でパーティーを開き、子どもたちは走り回る。なんと牧歌的、穏やかな日常か。しかし遠くから絶え間なく聞こえる叫び声、それは看守の怒鳴り声と痛みつけられ殺される被収容者の断末魔であり、銃声には誰も気づかない。聞こえていない。

それらの音が聞こえ、遠景の煙突から絶え間なく吐き出される黒煙と臭気に耐えられない者がいた。遊びに来たヘートヴィヒの母親である。母親は突然逃げるように帰ってしまう。怒り狂うヘートヴィヒは、ヘスの性欲の吐口と暗示される下働きの女性に言い放つ。「あんたなど燃やして灰にできる」と。同じ頃、ヘスに出世が約束された転属の話が出て、妻に告げるが「こんなに恵まれた場所はない。子どもたちも健康に育っている。私は行かない」。天塩にかけて綺麗に整備した庭(もちろんユダヤ人やポーランド人の庭師らが)を手放したくないし、被収容者の持ち物であったすばらしい毛皮のコートなどが手に入る生活を手放したくないからだ。

映画の合間、合間に印象的なシーンが流れる。地元民と思しき少女が夜陰に紛れて、収容所の畑にりんごを撒きに行くのだ。そのシーンだけ暗視カメラで映されるが、実際、被収容者を援助しようとした地元民はいたらしい。また、ラスト近く、現代の世界遺産「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の日常が突然現れる。夥しい数の遺棄された靴や持ち物。その展示スペースを淡々と掃除するスタッフ。彼らの「関心」事は部屋の清掃そのものであるが、その姿は私たちに突きつける。現在続いているウクライナ、ガザ、スーダンやミャンマーなどの殺戮はあなたの「関心領域」であるのかと。

「怖い」は何も物理的、直接的暴力を見聞することではない。いや、それ自体が「怖い」のではない。その実態に無関心でいられるその心性が「怖い」のだ。そして、それに慣れ続けることがもっと、もっと「怖い」のだ。(「関心領域」2023 アメリカ・イギリス・ポーランド映画)

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警察、検察は証拠をつくる  「正義の行方」

2024-05-26 | 映画

警察、検察は証拠をつくる。その人を真犯人とするために。いや、逮捕、拘留した人物が本当の犯人かもしれない。しかし、裁判で有罪とするためには証拠を積み重ねて裁判官(所)を納得させればいいだけのことだ。しかし、そもそも証拠が作られたものであったとしたら。

一昨年大きな話題を呼んだテレビドラマ「エルピス〜希望、あるいは災い〜」は明らかに飯塚事件をベースにしたものだった。被害者の遺体が見つかった八頭尾山は、飯塚事件の八丁峠。不正確なDNA鑑定、目撃証言の信憑性など。しかし、飯塚事件では被疑者の久間三千年さんは一貫して否認していたのに死刑に。そして確定後わずか2年で執行された。

映画は、ある意味、極めて公平である。福岡県警の捜査員らの言い分、弁護側の見方、そして事件を報道した西日本新聞の記者たち。捜査員は絶対久万が犯人で間違いないと揺れることなく言い切り、弁護側は先述の証拠を訝り、報道は難航していた事件解決のスクープを打った。しかし、西日本新聞の編集キャップに当時の担当記者が一から洗い直そうと、担当していなかった記者らに命じ、長編の調査報道が掲載され、NHKドキュメンタリー、そして本作に繋がった。

この原稿執筆時点で、袴田事件の再審公判が結審し、9月には無罪判決が予想されている。この間、さまざまな再審無罪案件があるが、死刑囚の再審事案であり、その重要度は言うまでもない。袴田巌さんは、執行の恐怖のもとでの長期勾留で精神に障害をきたしている。しかし飯塚事件は執行されているのだ。もし無辜の民を国家がくびきっていたとしたら、取り返しがつかないどころの話ではないのだ。そして飯塚事件はその可能性が大である。足利事件でDNA鑑定の新方式で再審無罪が出る直前に、古い鑑定方式で有罪となった久間さんの死刑を急いだのではとの疑念が拭えないからだ。確定から2年での死刑執行は異例中の異例である。オウム真理教事件でも7年の期間がある。さらに、再審却下の理由はDNA鑑定の証拠能力を無視しても「総合的に判断して」久間さんが真犯人と推定できるとする。確定判決の依拠するところはDNA鑑定だけであったはずなのにである。

映画を見ていて感じるのは、捜査側の人たちが退職してずいぶん経ち、取材を断ってもいいのに、皆誠実に対応していることに驚いたことと、揺るぎない久間=犯人への強固な確信だ。多分、迷いを一ミリでも入れれば自己を保てないという整合性への自己納得(暗示)なのではないか。一方、スクープを打った西日本新聞の記者は逡巡そのものの体である。あの久間=犯人報道は正しかったのか、警察に沿った報道で良かったのか。だから検証がなされたのだ。

実は、虚実不明であるが、安倍政権下で政権からの圧力、最大限政権に忖度したNHKをはじめとするメディアが圧を感じず、以前と比べると報道の自由さを取り戻したという。それが今般の正義の行方NHK版に繋がったとも。ならば、次は司法の誤りにも真実追求の刃を向けるべきである。袴田事件再審公判と並行して、日弁連をはじめとして刑事再審法改正の機運が高まっているところでもある。

狭山事件では鴨居の上にペンが、袴田事件では味噌タンクから衣類が。郵便不正・厚労省元局長事件ではフロッピーディスクの日付書き換えが。大川原化工機事件では報告書改竄が。

警察、検察は証拠をつくるのだ。

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あなたは何をしているのか? 何ができるのか?「マリウポリの20日間」「人間の境界」

2024-05-17 | 映画

ガザではすでに死者3万5000人と、まだ瓦礫の下に残されている1万人と報道されている。ガザ報道が中心になり、ウクライナのことは忘れられたのだろうか。スーダンは、ミャンマーは。

「マリウポリの20日間」は、2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻し、ロシアが掌握しようとした最大の激戦地の開戦後のわずかな期間を写すものだ。しかしそのわずかな期間にこの戦争の全てが語られていると感じるほどの濃密な映像だ。破壊される街、次々と受傷者が運び込まれる病院、道路には遺体が横たわる。爆撃された産科病院でカメラは瀕死の妊婦を映し出す。しかしあろうことかロシア側は「アクターだ」と言い放つ。ならば戦場に残ったAP記者らはなんとか映像を域外に持ち出さなくてはならない。電気も通信もほとんど通じない中で、もし記者らが拘束されれば、ロシア軍の前で「動画はフェイクだ」と言わされるからだ。しかし、記者が逃げ出すということは、その後も続く市民の被害、虐殺を伝える術がなく、見殺しにすることになるのだ。

2022年5月に「陥落」したマリウポリはロシア支配下となり、ロシアが破壊した街を「復興」の象徴として宣伝しようとしている。既成事実化だ。そこに住まう人は今どうしているのだろうか。(「マリウポリの20日間」公式サイト https://synca.jp/20daysmariupol/

 

ウクライナからポーランドへ避難民が押し寄せる前の2021年、ポーランドへはベラルーシ経由でシリア、やアフリカ、アフガニスタンなどからの難民が押し寄せていた。ベラルーシ・ルカシェンコ政権が、EUの足並みを乱そうと自国に難民を引き寄せて、国境を接するポーランドに大量に送り込む「人間兵器」を展開していたからだ。しかし、ポーランド側も人道的とは程遠い政策を展開していた。送り込まれた難民をベラルーシ側に送り返すのだ。「ボールのように蹴り合われた」難民は疲弊し、命を落とす者も。国境地帯は氷点下近い藪、沼地帯で「死の森」なのだ。ポーランド政府は「立入禁止地帯」を設定し、難民を助けようと入った人は「密入国を助ける人身売買業者」として拘留、罰せられるようにした。映画はフィクションだが、難民出身の俳優も出演し、難民を助ける人道グループや地域からの綿密なリサーチにより迫真に迫る者となっている。名作(「いいユダヤ人ばかりではないから助ける ソハの地下水道」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/18ec0a26d957afef2caf6bf887b5dfd0)のアグニエシュカ・ホランド監督は、自国の暗部を何の憚りなく描いた。この点でもポーランドではまだ民主主義が根付いているという証だろう。作品は、難民、援助者、近所に住んでいたため援助者となる、一人暮らしの女性、そして人間を虫けらの如く扱う国境警備隊の若き青年それぞれの視点で描かれる。その群像的映像が秀逸だ。

沼で命を落とすシリア難民の少年とその家族、少年を救えなかったと自責するが自身も重傷を負ったアフガン女性は退院するとすぐに警察に連れ去られ安否不明となる。過大なストレスのため精神を病む国境警備隊の青年。それぞれが一所懸命に生を全うしよとする中で、国家、グローバル世界が個を押し潰す。難民危機の後、ウクライナから200万人の難民を受け入れたポーランドは優等生扱いされるが、その1年前にはこのような国だったのだ。そこには同じ白人のウクライナ人とは違う扱いの人種差別が明確にある。(「人間の境界」公式サイト https://transformer.co.jp/m/ningennokyoukai/

 

ナチス・ドイツの蛮行を描く映画を多く見てきた。「シンドラーのリスト」をはじめ、再視に絶えないキツイ作品もあるが、どこか過去のこととして、冷めた姿勢で観ることができた。しかし、実写のドキュメンタリーとフィクションの違いはあるが、この2作品は現在起こっていることだ。あなたは何をしているのか? 何ができるかのか? と問われているようでとても苦しい。

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