kenroのミニコミ

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シンプルの正体。それは見る者の想像力の正体   ディック・ブルーナのデザイン

2018-06-28 | 美術

昨年2月に亡くなってから、関西ではおそらく初のディック・ブルーナ回顧展である。本展では、ブルーナの代名詞とも言えるあのかわいいうさこちゃん「ミッフィー」が中心に取り上げらいるわけではない。むしろ彼の生み出した様々なキャラクターやブックデザインがなぜこれほど人気があり、人々の心に焼き付いているかを究める理由、そう、シンプルの正体、を究めることなのである。

絵本作家より前にデザイナーとして出発したブルーナの仕事量はたいそう多い。絵本も多いが、なんと20年間に2000冊ものブックデザインを手がけているのだからすごい。それももちろん本の中身、テキストを確認し、その内容にふさわしいデザインを考えていたのだ。ペーパーバックの書籍は、駅の売店や書店の手前に平積みされてまず手に取ってもらうことが大事だ。だから、一目で思わず手が伸びてしまうデザインが要請される。ブルーナ・デザインはその要素を十二分に持ち、かつ、長年にわたって飽きさせない斬新さを維持し続けてきたのだ。

ブルーナのペーパーバックの代表作のなかで「ブラック・ベア」シリーズはあまりにも有名だ。彼のデザインであることを示すアイコンとなり、画面の一部や隅っこ、あるいはデザインの一部にまで登場する。一方、「シャドー」ではパイプを加えた横顔が、「セイント(聖者)」では聖性をあらわす頭上の輪っかが描かれる。実に多彩だ。

絵本では一番有名なミッフィーをはじめ、ミッフィーの仲間とも言えるクマのボリスや子犬のスナッフィーなど動物が主人公のものはきわめて平易なフォルムでカラーも少ない。ミッフィー・シリーズのブルーナ・カラーは最初4色であったが、ミッフィーの友だちである茶色いウサギを描くために2色増やしたという。それでも6色だ。ミッフィーの口はペケのまま決して開かない。お目目も閉じたりしない。そして横顔はない。けれど、ミッフィーが楽しそうにしたり、泣いていたり、心配している表情がきちんと見えるから不思議だ。ブルーナの絵本は当初を除いて、一貫して15.5センチの正方形で左におはなし、右に図柄の24ページと決まっている。おはなしは韻を踏んでいる。ブルーナによればこの長さが幼児が飽きずに集中できる体裁なのだそうだ。そして、その濃密、かつ計算されつくしたおはなしに相応したフォルムに喜怒哀楽を感じ取ってしまうのだ。それほどまで絵本のデザインも小さな子どもに入り込みやすいものとなっている。

ペーパーバックでも絵本でもブルーなの姿勢を貫くのはシンプルさである。シンプルは簡単とか手抜きとかではもちろんない。ここまでシンプルを貫くことで逆に想像が広がる。あなたはどう感じますか?とブルーナが訊いてくるのだ。

絵画をはじめとする美術世界には徹底的に手を入れ、細部にこだわるスタイルがある。古くは北方ルネサンスのヤン・ファン・エイクや現代日本で一定の人気を誇る写実絵画もその方向性かもしれない。それらの魅力ももちろんあるが、ことデザインの世界では、観者がすぐに惹かれる、あるいは納得する簡明さがイノチという場合も多い。見る者を惑わして考え込ましていてはデザインと言っても、別の世界になってしまうのだろう。

しかし、デザインとは違う美術の世界でも削ぎ落すことで作者の探究心、完全主義を満たす場合もある。ジャコメッティの彫刻やモンドリアンの絵画がこれにあたるだろうか。そしてデザインではないアートの世界でシンプルさがその特徴であり、価値とされる場合、そのアートはやはり(商業)デザインに近づいていくがなぜかアートから外れることはない。たとえばジャッドの抽象彫刻やアルプの造形。これらも見る者の想像力を刺激するという意味では、すぐれたデザインと同じであるし、デザイン、例えばポスター、のように道行く人万人に振り返ってもらう作品と同じかというとそうではない。おそらく見る者の側がデザインかアートかをそのシチュエーションで使い分けたり、構えたりしているからだろう。そこにあるのはシンプルの魅力だけである。

デザインでもあまりにもシンプルで模倣しやすいものは、贋作、偽物に侵食されやすいという危険性がある。若くして亡くなったキース・ヘリングの仕事はそもそもグラフィティ(落書き)が出発点であったこともあり、ライテイィング・チャイルド(光るこども)のように模倣作、「ばったもの」が蔓延した。ブルーナ作品は、彼がブックカバー・デザインとともに絵本製作でいろいろなキャラクターを編み出した際にメルシス社を設立し、ブルーナ作品の著作権を守った。その甲斐あってか、ブルーナ・デザインは模倣作が氾濫することなく、私たちの想像力を刺激し続けている。

シンプルの正体。それは見る者それぞれ、幼児から大人まで、の想像力の正体なのである。そしてそれは無限である。

 

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冤罪がなくならないのはなぜか。また考えてしまう「獄友」

2018-06-04 | 映画

冤罪と一語で言ってしまいがちであるが、その経験はそれぞれである。当たり前のことだが、無罪を勝ち取った人、出獄したがそうではない人、死刑囚であるのに再審開始決定が出たから出獄した人とその思いと経験は大きく違う。しかし、彼らには共通項がある。冤罪であるということ。

「獄友」は、2010年、狭山事件の石川一雄さんを撮るときからずっと、冤罪の人たちにカメラを向けている足かけ7年の大作である。大作と呼んだが、冤罪被害者5人とその家族などを追うドキュメンタリーで、豪華でもすごい展開があるわけでもない。布川事件の杉山卓男さんは2015年病のために亡くなっている。同じ布川事件の桜井昌司さんは明るく、芸達者、話も面白い。その桜井さんが半ば他の人たちを巻き込んで「獄友」グループを結成しているようにも見える。しかし、他の人たちも個性豊かだ。石川さんは、恬淡とした趣で本当に紳士である。足利事件の菅家利和さんは愛嬌のあるおじさんだ。しかし、ただ一人死刑囚の袴田巖さんは49年の獄中生活、死刑の執行におびえる毎日で精神疾患に。しかし『世界』に青柳雄介さんの連載「神を捨て、神になった男 確定死刑囚・袴田巖」を読むと、袴田さんは決して正気を失ってしまったわけではないことが分かる。警察も検察も裁判所も袴田さんの無実を見つけられなかった(警察・検察はむしろでっち上げた方がだが)から、袴田さんが3者や当時のメディアを裁いているのだ。このブログを書いている週にも袴田さんの再審開始の可否が出そうだ。よもや開始しないなどとはあり得ないが、名張毒ぶどう酒事件や恵庭OL殺人事件など再審の門さえ開かない事件は多い。その象徴的な事件の一つが狭山事件であろう。石川さんは再審請求をずっと続けているが、いまだに開かれていない。もう石川さんが出獄して14年になるというのにである。裁判所は再審請求者が死ぬのを待っているとしか思えない。飯塚事件では死刑確定からわずか2年で執行されており、遺族の再審請求も蹴られている。

「疑わしきは被告人の利益に」とか「99%疑わしくても100%でなければ無罪」といった言い回しがむなしく聞こえる。反対に、現在進行形のモリカケでは、登場人物が十分怪しいのに早い段階で「シロ」と決めつけ、収束させようとしている。「獄友」は、冤罪以外者の単に重いフィルムではない。なぜそれが生み出され、未だに再生産されているのかを考えるためのヒントであるのだ。それは、実際の監獄でなくても、社会全体が監獄と化す方向に見える現在の政治や社会に生きる者にきびしく問われている。桜井さんの明るさがその問いを共有しようと誘っているように見えてしまうのだ。

 

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