kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「品」が問われる女性の自立への許容度  ミス・ポター

2007-10-21 | 映画
女性が職業を持ち、自立することが許されなかった20世紀初頭のイギリス。愛らしいウサギのピーター・ラビットシリーズの作者であるビアトリクス・ポターの物語である。「ミス」とあるように、ビアトリクスはピーター・ラビットシリーズを世に出し、売れっ子になった30代も未婚であった。それが、彼女の絵本の出版に奔走したウォーン社の少し不器用、奥手な三男坊ノーマンとの初めての仕事を通じて互いに惹かれていく。結婚を誓い合うが、母親は「商人との結婚など許さない」と頑強に反対。二人の思いが固いと知ると比較的リベラルな父親の提案もあって、湖水地方で過ごす避暑の間も二人の意志が変わらなければ許されることに。が、ビアトリクスがいないロンドンでノーマンは病気で逝ってしまう。
後にビアトリクスはノーマン亡き後、移り住んだ湖水地方の自然を守るために周辺の土地を購入しまわるが、その時の代理人となった幼なじみの弁護士と50歳近くになって結婚している。
映画では、ビアトリクスが湖水地方に定住し、土地を守ろうとするあたりで終わるが、ビアトリクスにとってはピーター・ラビットシリーズを世に出したことで後の安定、ナショナルトラスト運動への萌芽が垣間見えるのであるから、ストーリー展開としては余生は省いたと言える。
本作の主題はおそらくナショナルトラストではなく、封建時代における女性の自立とそれを支える男性がいたこと。そして安易ではあるが、事実ならしょうがない、二人の愛である。封建時代のイギリスで女性の精神的自立を描いたものといえば、ビアトリクスより130年ほど昔のジェーン・オースティンの世界がある。近年はつらつとしたキーラ・ナイトリー主演で映画化もされたが(「プライドと偏見」。作品としては失敗作?)、精神的自立が問われた1世紀以上後のビクトリア朝末期でもまだ女性の経済的自立、それと必須の関係である結婚も自由ではなかったことがよくわかる。
もっとも現代でも身分(家の格?)が高ければ高いほど結婚は本人だけのものではないとの因習は残っているかもしれないが、ビアトリクスが母親に向かって「お父様の祖先も、お母様の祖先も商人だったでしょ」と指摘するあたり、ポター家も「成り上がり」であることがわかる。
いずれにしても家柄を最重要視し、女性の自立をハナから否定し、ビアトリクスを追い立てる母親の方が、ノーマンや結婚で自立を捨てないノーマンの姉であるミリー(元祖負け犬!)よりよっぽど品がないように見えるのは、現代的感覚で言えばインテリジェンスのなさのなせる技であろう。
朝日川柳だったか、「あちこちで品を競いし品のなさ」という投句があったが、「品格」をやたら持ち出す昨今の日本の出版状況は、ピーターもカットゥンテイルやその他ウサギや広い湖水地方に自由に跳ね回る動物たちからすれば、品格を問う以下の貧しさを露呈しているのではあるまいか。なぜなら100年以上110カ国を越える国で愛されているピーター・ラビットシリーズ絵本の前では「品格本」など2、3年で消えてしまうに違いない薄っぺらな、ビアトリクス母親の言葉であるように見えるから。
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ファンタジーは成長の砦  パンズ・ラビリンス

2007-10-14 | 映画
不思議な映画である。というか、変な作品である。ファンタジーは時に過酷であるという意味では常道ではあるのだが。
フランコ将軍がスペインを掌握せんとしていた時代、ファシズムを体現している冷酷なビダル大尉のもとに再婚する母とともに山奥の駐屯地に向かう少女オフェリア。本好きのオフェリアはいつしか現実の世界から逃れていくがそれこそが現実となる。オフェリアは地下の魔法の王国のプリンセスだというのだ。
いろいろあるが、母を失い最後は自身も命を落とすオフェリアは死ぬことで王国のプリンセス・モアナと迎えいれられめでたしとなるのだが。
過酷というのは現実が過酷であること。ビダル大尉の息子さえ産まれれば、妻には用はない、血もつながっていない娘であるオフェリアはなおさらのこと、もオフェリアにとって過酷であるならば、魔法の世界に戻るための試練もまた過酷だ。大ガエルと対峙したり、子どもを食べて生きている怪物からすんでの所で逃れたり。
うん? これってどこかで見たことないか? そう魔界で修行を積んで?成長していく姿は千と千尋の…ではないか。そう、今やメキシコ映画界を牽引する一人、ギレルモ・デル・トロは宮崎アニメの大ファンだそうである。ぱくりである部分も多い。
デル・トロはハリー・ポッターシリーズの「アズカバンの囚人」も監督しており、ハリウッド的活劇は得意だ。本作は活劇ではないが、オフェリアが導かれる魔界の雰囲気は十分。ふし(木の枝に化ける虫)が妖精に変化するCGなどデル・トロの表現力は申し分ない。が、本作の要諦は監督のうまさではない、と思う。
少女の成長を導くのはパン=牧神である。山羊の面妖と人間の下半身を持つ牧神はギリシア神話に登場し、キリスト教世界では「羊飼い」と役割を変え、神のもとに生きる人間たちの欲望を引き出す重要なメタファーである。「なぜ再婚したの?」と聞くオフェリアに対し、母は「女は一人で生きていけないの」と答える。当時の経済的な意味もあるが、母が身ごもりビダル大尉のもとに行くことでその意味は明白である、その意味をオフェリアもまた学んでいき、女王に戻る試練の中でパンになしてはならないとされた食事=禁断の身、を口に含むことによって自身の導き者である妖精を失う。母の言説、オフェリアの食飼は紛れもなく性である。
そう見れば、繰り返される流血の肢体も説明がつく、とはあまりにもフロイト的である。
深読みは別にしても、ファンタジーとはそういうものなのだろう。子どもから大人へ、性の目覚めへ。
きつい現実から子どもでなくても逃れたいと思うことはある。ましてやフランコ将軍の圧政の時代では。それを夢想によって解決するのがファンタジーであって、現実的に対峙するのが反体制ゲリラである(本作の歴史的背景では)。
夢想では解決しえない強い精神力をと、ファンタジーを排したところでデル・トロは訴えているのかもしれない。
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憲法施行60周年記念シンポジウム「イラクから見た日本」

2007-10-13 | Weblog
綿井健陽さんは「Little Birds」(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/85fb450efc01cd577db48bc8bb005b41)が大阪で公開された際、劇場挨拶にちょうど見えられていてその時もお話を聞いたことがある。現場に則し、予断や放言を排するその姿勢にジャーナリストとしての姿を見た思いがした。
本集会で綿井さんは言う。ミャンマー(ビルマ)で政府軍兵士に射殺された長井健司さんの友人でもあったそうで「(イラクやミャンマーといった海外の紛争地域で)殺されれば追悼の対象となり、拘束されれば「自己責任」の嵐。こんな(二分法は)おかしいのではないか」と。
綿井さんはその冷静なものいいで、時にはおかしくイラクでの自衛隊の活動の実際もビデオを交えて紹介された。宿営地から一歩も出ない自衛隊員がほとんどであったこと、サマワのイラク市民は最後まで軍隊の後に日本企業がやってくると思っていたことなど。自衛隊が「撤退」したあと、ろくな後片づけや指導、管理もせずに給水や電気などのインフラ整備には結局役立たなかったことを。
自衛隊の何倍もの給水力をヨーロッパのNGOが成し遂げ、費用も割安、現地に派遣していた職員はたった1名。3ヶ月ごとに数百名規模でイラクに送り込んだ自衛隊はサマワ市民の役にたったのか? イラクから帰還した自衛隊員のうちすでに6名が自殺していることを聞くにつけ、アメリカのためにだけ派兵し、派兵のための派兵ありきという小泉前首相のかけ声だけがむなしく響いた戦後初めての武装した海外派兵。イラク戦争への給油問題が遡上にのる現在、どこまでアメリカの言いなり(日米同盟ではなく、米の一部としての日本軍)を続ければ気が済むのか。
日本が在日米軍のために拠出している国家予算はおよそ6500億円。自衛隊独自のシーリング枠もあるが、日米共同演習などに使われる予算が自衛隊枠で計算されていることを考えると実際はもっと多くのオカネが米軍のために使われていることになる。
綿井さんの仕事はそのような自衛隊の実際をジャーナリストとして伝えることであるが、大手メディアは政府論調にすりより、フリージャーナリストには受難の時代だと訴える。そうマスメディアのそれこそ小泉的にわっといく論調は光母子殺人事件広島高裁差戻審報道に如実に現れている。
奇しくも綿井さんが現在追いかけている最大の課題はこの光事件審をめぐる報道である(『創』 09年9/10月号、11月号)。
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