このブログとは別の機会に生活保護の実態を紹介するインタビュー記事をしたためたことがある。友人が市の生活保護部署の非常勤をしていて話を聞いたのだ。その記事のリードで生活保護というと「一家心中か、ベンツを乗り回すヤクザか、生活保護というと極端な例を思い浮かべがち」と書いたが、導入としては概ね間違っていないとしても湯浅さんの『反貧困』を読むと導入としてもそのような取り上げ方自体が二項対立を煽る「底辺への競争」に絡みとられていることに無自覚で恥ずかしい。「底辺への競争」、そう、低さくらべが、今や、貶めくらべという、そのような社会を招いた「勝ち組」(が、大企業なのか、新自由主義の発案者なのか)の掌で舞い踊っている実態こそ恐ろしいのだ。許せないのだ。
湯浅さんの『反貧困』は、基本的に湯浅さんがこの間「もやい」で相談を受けたこと、そのネットワークで見聞したこと、そして厚労省をはじめとする政府の貧困実態に対する姿勢、無策ぶり、というか無視ぶりを中心に記述している。そこで描かれるのは、ネットカフェ難民生活さえも続かなくなって、助けを求める人や、助けを求めるのを嫌がる人をいろいろ説明して、生活保護申請にこぎつげたり、生活保護の「水際作戦」で追い返されたりした人に寄り添い、生活保護を受給できるようにしたり、社会のセーフティネットから「底抜け」した人たちの姿である。湯浅さんは言う。社会的なセーフティネットにはいくつかの段階があり、まず雇用のセーフティネット。
非正規雇用がこれほど増え、請負派遣という労働力の究極の商品化がすすみ、将来のないこの仕事であっても失えば明日から住むことさえできないという生活し、将来設計に全くつながらない雇用形態。ちょうど秋葉原の「無差別殺人事件」に被疑者が典型的な派遣労働の現場にいたこと(日研総業という派遣会社、派遣先はトヨタの下請けたる関東自動車工業)、彼が自分のツナギが見つからなくて「クビにするのか」と怒ったことからも分かるように即解雇と隣り合わせの日々。「日雇い派遣」が今頃原則禁止という流れの中で(もちろん厚労省の研究会の提言であり、企業側の抵抗は強いだろう)、明日のない身をこれだけ放置してきた罪は重いし、そもそもそのような規制緩和の趨勢を支持した有権者の愚かさもきわまれりである。
次に社会保険のネット。働いておれば失業しても雇用保険がある、病気をしても厚生保険があるというのはあくまで正規雇用の話。上述の派遣などでは社会保険は一切ない。仕事がなくなれば間もなくホームレスに、病気もできないという場面は珍しくない。
そして働けなくなっても生活保護があれば生きていけるはずの公的扶助のネット。生活保護があればと書いたが、北九州で保護を求めた男性が追い返され餓死した事件は最近のことだ。その後生活保護申請に対する「水際作戦」が北九州以外でも報告されている。今や最後の生きる望みである公的扶助の道も絶たれたら。餓死した男性の例は「絶たれたら」というイフの例ではない、現実で起こっていることを示している。
ともすれば貧困の問題を訴える私たちの中には公的制度のここが悪い、年金改悪のここが問題だ、労働法制の抜本的な改革を、いや、そもそも小泉構造改革が、アメリカがと社会的扶助の低劣さを政策や政権に求め、それを解説しがちである。それら社会的な分析ももちろん必要で、個々の問題を見据えるために、その背景となった政策や国の流れに目を向けることはむろん重要である。しかし、私たちのそばで貧困と対峙せざるを得ない人たちを前にして評論家になっているわけにはいかない。湯浅さんの立ち位置はそこにある。いわゆる最高学府を出た湯浅さんは学生時代から山谷や野宿者の問題と関わってきた。湯浅さんの見る目はもちろん時の労働や年金、社会保険に対する政策とその変遷、問題点を見据えている。そして労働市場の開放を迫るアメリカの圧迫も。しかし、今、困っている人を助けるのはアメリカの政策がどうだ、それに追随する日本がどうだではない。
一緒に生活保護申請に預かり、アパートを探し、時には苛烈な取り立てに法的措置をとるべくアドバイスをすることだ。そのすべてを湯浅さんのグループができるわけではない。いろいろなネットワークを駆使して、一人、また一人と助けていく。もちろん自分さえ助かれば、もう二度と湯浅さんらの反貧困運動に関わろうとしない、他の人の力になろうとしない人もいる。しかし、まず助けることだ、共に考え動くことだ。
本ブログでは堤未果さんの同じ岩波新書の『ルポ貧困大国アメリカ』も取り上げた(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/499c1c32efe16ee11fad4293a5f51701)。併せて読むべきであろうと思う。
「愛の反対語は何ですか」「憎悪です」「いいえ、愛の反対は無関心です」(マザー・テレサ)
湯浅さんの『反貧困』は、基本的に湯浅さんがこの間「もやい」で相談を受けたこと、そのネットワークで見聞したこと、そして厚労省をはじめとする政府の貧困実態に対する姿勢、無策ぶり、というか無視ぶりを中心に記述している。そこで描かれるのは、ネットカフェ難民生活さえも続かなくなって、助けを求める人や、助けを求めるのを嫌がる人をいろいろ説明して、生活保護申請にこぎつげたり、生活保護の「水際作戦」で追い返されたりした人に寄り添い、生活保護を受給できるようにしたり、社会のセーフティネットから「底抜け」した人たちの姿である。湯浅さんは言う。社会的なセーフティネットにはいくつかの段階があり、まず雇用のセーフティネット。
非正規雇用がこれほど増え、請負派遣という労働力の究極の商品化がすすみ、将来のないこの仕事であっても失えば明日から住むことさえできないという生活し、将来設計に全くつながらない雇用形態。ちょうど秋葉原の「無差別殺人事件」に被疑者が典型的な派遣労働の現場にいたこと(日研総業という派遣会社、派遣先はトヨタの下請けたる関東自動車工業)、彼が自分のツナギが見つからなくて「クビにするのか」と怒ったことからも分かるように即解雇と隣り合わせの日々。「日雇い派遣」が今頃原則禁止という流れの中で(もちろん厚労省の研究会の提言であり、企業側の抵抗は強いだろう)、明日のない身をこれだけ放置してきた罪は重いし、そもそもそのような規制緩和の趨勢を支持した有権者の愚かさもきわまれりである。
次に社会保険のネット。働いておれば失業しても雇用保険がある、病気をしても厚生保険があるというのはあくまで正規雇用の話。上述の派遣などでは社会保険は一切ない。仕事がなくなれば間もなくホームレスに、病気もできないという場面は珍しくない。
そして働けなくなっても生活保護があれば生きていけるはずの公的扶助のネット。生活保護があればと書いたが、北九州で保護を求めた男性が追い返され餓死した事件は最近のことだ。その後生活保護申請に対する「水際作戦」が北九州以外でも報告されている。今や最後の生きる望みである公的扶助の道も絶たれたら。餓死した男性の例は「絶たれたら」というイフの例ではない、現実で起こっていることを示している。
ともすれば貧困の問題を訴える私たちの中には公的制度のここが悪い、年金改悪のここが問題だ、労働法制の抜本的な改革を、いや、そもそも小泉構造改革が、アメリカがと社会的扶助の低劣さを政策や政権に求め、それを解説しがちである。それら社会的な分析ももちろん必要で、個々の問題を見据えるために、その背景となった政策や国の流れに目を向けることはむろん重要である。しかし、私たちのそばで貧困と対峙せざるを得ない人たちを前にして評論家になっているわけにはいかない。湯浅さんの立ち位置はそこにある。いわゆる最高学府を出た湯浅さんは学生時代から山谷や野宿者の問題と関わってきた。湯浅さんの見る目はもちろん時の労働や年金、社会保険に対する政策とその変遷、問題点を見据えている。そして労働市場の開放を迫るアメリカの圧迫も。しかし、今、困っている人を助けるのはアメリカの政策がどうだ、それに追随する日本がどうだではない。
一緒に生活保護申請に預かり、アパートを探し、時には苛烈な取り立てに法的措置をとるべくアドバイスをすることだ。そのすべてを湯浅さんのグループができるわけではない。いろいろなネットワークを駆使して、一人、また一人と助けていく。もちろん自分さえ助かれば、もう二度と湯浅さんらの反貧困運動に関わろうとしない、他の人の力になろうとしない人もいる。しかし、まず助けることだ、共に考え動くことだ。
本ブログでは堤未果さんの同じ岩波新書の『ルポ貧困大国アメリカ』も取り上げた(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/499c1c32efe16ee11fad4293a5f51701)。併せて読むべきであろうと思う。
「愛の反対語は何ですか」「憎悪です」「いいえ、愛の反対は無関心です」(マザー・テレサ)