袴田事件の再審開始決定が出された陰で、小さく報じられたが同じころ飯塚事件には再審開始が叶わなかった。どちらも事件当時の残留血痕のDNA鑑定によって、被告人が真犯人とは言えない結果が出たにもかかわらず、にである。
再審開始決定が出たとはいえ、現在開始決定に対する検察側から出された特別抗告審が継続中であり、再審が始まるはかどうかは予断を許さない。名張毒ぶどう酒事件では再審開始決定が出たにもかかわらず、名古屋高裁でひっくり返り、最高裁が追認したため、奥西勝さんはまたしても死刑囚の身のままである。
飯塚事件では、被告人の久間三千年さんは2008年死刑執行されており、これは同時期の足利事件再審開始をみて、死刑執行を急いだとも言われるがもちろん真相は不明だ。ただ、袴田さんは再審開始になり、久間さんは開始にならなかったのは、久間さんはすでに執行されているため、国家が人殺しをしたことを認めることはできないという「高度の」司法判断がはたらいた可能性はある。なにせ、裁判官というのは奴隷的心性を内面化した人種であるのであるから。
袴田事件で一審の死刑判決を書いた熊本典道裁判官は、自分は無実であると思ったのに合議の多数決で2対1となり止む無く死刑判決を書いたこと、それに良心の呵責をおぼえ7か月後裁判官を辞め、弁護士となったものの重度のアルコール依存となったことを告白している。映画では、家庭内で荒れる熊本裁判官を描いているが、弁護士となった後も過度の飲酒でのトラブルやその後の不遇はあまり描かれていない。むしろ証拠を丹念に見て袴田被告人が無実と思うにいたった過程や、退官後も検察側立証の矛盾点について実証をもって自ら崩していく道筋が描かれている。
熊本裁判官以外にも冤罪を言い渡してしまった裁判官は数多くいるはずだ。足利事件、布川事件、氷見事件、東電OL事件…。これら有罪(東電OL事件では一審無罪が高裁で有罪とひっくり返った)を言い渡した裁判官らはどう思っているのだろう。DNA鑑定の技術が飛躍的に向上し、当時の鑑定技術では見抜けなかったことを理由にするだろう。しかし、いずれも否認から自白に転じている(東電OL事件では最後まで否認していたのに「状況」証拠によって有罪とした。この「状況」に矛盾があることは佐野眞一『東電OL事件』に詳しい。)し、この否認から自白に転じたことこそ精査すべきだったのではないか。袴田事件では熊本裁判官が取り調べ時間の長さを計り、勾留期限直前に自白に転じたことに疑問を抱くシーンがある。また布川事件では桜井昌司さん、杉山卓雄さんのいずれもが、警察で「杉山は桜井がやったと言ってる」(その反対も)と虚偽の誘導で自白に追い込まれたことを語っている。
要は、自白に頼る捜査機関の手法を見逃し、自白を唯一の証拠としないとした憲法38条を厳格に適用すべきである裁判官の姿勢が問われているのだ。市民集会での会場からの発言を「積極的な政治運動」とされ、戒告処分を受けた寺西和史裁判官(仙台地裁=当時)は、勾留請求があっても代用監獄を認めず、拘置所を指定するなどの扱いに心掛けていたという。要は、被疑者の言うこと(=否認)に耳を傾け、捜査機関の暴走を止める法の番人としての姿勢があるかどうかである。
袴田事件では、熊本裁判官以外の二入(裁判長と右陪席)が警察の自白調書だけを信じ、否認調書その他の調書を採用しないようにとか、「大きな事件」で「検察に恥をかかす」ようなことになっては、今後の自分たちの出世に響くかのような言動で二人して熊本裁判官に圧力をかけるようなシーンが出てくる。熊本裁判官が合議の秘密を明かしたのは、この二入が鬼籍に入ったからだそうなので、今となってはどれくらい真実を伝えているか分からないが、裁判官という人種を見る限りうなずけるシーンではある。
さきに裁判官という「奴隷的心性を内面化した人種」と書いたが、そのような「人種」はもちろんない。むしろ、前述の寺西和史裁判官などはその「人種」には入らないだろうし、一人ひとりの裁判官の中には熊本さんのように悩みぬいている人もいるだろう。つまり「検察の言いなり」(令状発布についての寺西裁判官の投書より)になってしまう裁判官としてやっていくことの心性、さがみたいなものがあるのではないか。そのあたりは好著とまでは言えないが、裁判官になる者(特に出世欲の強い人や刑事裁判で冤罪を言い渡してしまった裁判官ら)の精神構造をたっぷり示唆してくれるものに最近裁判官を辞めた人たちが著しているものもある(森炎『司法権力の内幕』、瀬木比呂志『絶望の裁判所』など)。
「BOX 袴田事件 命とは」は、大阪弁護士会主催の「袴田再審事件と死刑を考える」シンポジウムでの上映であった。これからも「死刑を考え」ていきたいものだ。
再審開始決定が出たとはいえ、現在開始決定に対する検察側から出された特別抗告審が継続中であり、再審が始まるはかどうかは予断を許さない。名張毒ぶどう酒事件では再審開始決定が出たにもかかわらず、名古屋高裁でひっくり返り、最高裁が追認したため、奥西勝さんはまたしても死刑囚の身のままである。
飯塚事件では、被告人の久間三千年さんは2008年死刑執行されており、これは同時期の足利事件再審開始をみて、死刑執行を急いだとも言われるがもちろん真相は不明だ。ただ、袴田さんは再審開始になり、久間さんは開始にならなかったのは、久間さんはすでに執行されているため、国家が人殺しをしたことを認めることはできないという「高度の」司法判断がはたらいた可能性はある。なにせ、裁判官というのは奴隷的心性を内面化した人種であるのであるから。
袴田事件で一審の死刑判決を書いた熊本典道裁判官は、自分は無実であると思ったのに合議の多数決で2対1となり止む無く死刑判決を書いたこと、それに良心の呵責をおぼえ7か月後裁判官を辞め、弁護士となったものの重度のアルコール依存となったことを告白している。映画では、家庭内で荒れる熊本裁判官を描いているが、弁護士となった後も過度の飲酒でのトラブルやその後の不遇はあまり描かれていない。むしろ証拠を丹念に見て袴田被告人が無実と思うにいたった過程や、退官後も検察側立証の矛盾点について実証をもって自ら崩していく道筋が描かれている。
熊本裁判官以外にも冤罪を言い渡してしまった裁判官は数多くいるはずだ。足利事件、布川事件、氷見事件、東電OL事件…。これら有罪(東電OL事件では一審無罪が高裁で有罪とひっくり返った)を言い渡した裁判官らはどう思っているのだろう。DNA鑑定の技術が飛躍的に向上し、当時の鑑定技術では見抜けなかったことを理由にするだろう。しかし、いずれも否認から自白に転じている(東電OL事件では最後まで否認していたのに「状況」証拠によって有罪とした。この「状況」に矛盾があることは佐野眞一『東電OL事件』に詳しい。)し、この否認から自白に転じたことこそ精査すべきだったのではないか。袴田事件では熊本裁判官が取り調べ時間の長さを計り、勾留期限直前に自白に転じたことに疑問を抱くシーンがある。また布川事件では桜井昌司さん、杉山卓雄さんのいずれもが、警察で「杉山は桜井がやったと言ってる」(その反対も)と虚偽の誘導で自白に追い込まれたことを語っている。
要は、自白に頼る捜査機関の手法を見逃し、自白を唯一の証拠としないとした憲法38条を厳格に適用すべきである裁判官の姿勢が問われているのだ。市民集会での会場からの発言を「積極的な政治運動」とされ、戒告処分を受けた寺西和史裁判官(仙台地裁=当時)は、勾留請求があっても代用監獄を認めず、拘置所を指定するなどの扱いに心掛けていたという。要は、被疑者の言うこと(=否認)に耳を傾け、捜査機関の暴走を止める法の番人としての姿勢があるかどうかである。
袴田事件では、熊本裁判官以外の二入(裁判長と右陪席)が警察の自白調書だけを信じ、否認調書その他の調書を採用しないようにとか、「大きな事件」で「検察に恥をかかす」ようなことになっては、今後の自分たちの出世に響くかのような言動で二人して熊本裁判官に圧力をかけるようなシーンが出てくる。熊本裁判官が合議の秘密を明かしたのは、この二入が鬼籍に入ったからだそうなので、今となってはどれくらい真実を伝えているか分からないが、裁判官という人種を見る限りうなずけるシーンではある。
さきに裁判官という「奴隷的心性を内面化した人種」と書いたが、そのような「人種」はもちろんない。むしろ、前述の寺西和史裁判官などはその「人種」には入らないだろうし、一人ひとりの裁判官の中には熊本さんのように悩みぬいている人もいるだろう。つまり「検察の言いなり」(令状発布についての寺西裁判官の投書より)になってしまう裁判官としてやっていくことの心性、さがみたいなものがあるのではないか。そのあたりは好著とまでは言えないが、裁判官になる者(特に出世欲の強い人や刑事裁判で冤罪を言い渡してしまった裁判官ら)の精神構造をたっぷり示唆してくれるものに最近裁判官を辞めた人たちが著しているものもある(森炎『司法権力の内幕』、瀬木比呂志『絶望の裁判所』など)。
「BOX 袴田事件 命とは」は、大阪弁護士会主催の「袴田再審事件と死刑を考える」シンポジウムでの上映であった。これからも「死刑を考え」ていきたいものだ。