kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

始めたい!?  ジェイン・オースティンの読書会

2008-06-08 | 映画
恥ずかしながらジェイン・オースティンの作品は長編3作しか読んでいない。いずれもBBCや映画になっているので原作とフィルムの違いや面白さも知っていいるが、読んでいない作品についてはあまり詳しくない。だから、「ジェイン・オースティンの読書会」でそれぞれの作品に即した言い回しや登場人物の当てはめがあってもよく分からない部分も多かった。けれど本作は面白かった。
200年前の英国の貴族社会の感覚やしきたり、常識を感知、共有できるわけがない。しかしオースティンの描く世界は、その制度下における歴史的な特殊性ではなくて、人間の感情や人間関係における人の機微といったいわば時代を超えた普遍性である。善き人もおれば、そうでない人もいる。善き人の中にも肯ねない部分もあれば、善き人でない人の中にも理解できる、あるいは許容できる部分もある。そして、理知的、理性的な人も間違いを犯すこともあるし、またその逆もある。一筋縄ではいかない人間という存在は、時代が変わろうとも、社会環境が激変しようとも愚かさや迷い、諦観や達観、貴賤観といったもろもろのことで描き続けることのできる普遍性を持っているということなのだろうか。
「読書会」は6人のメンバー(オースティンの長編6作に合わせている)がそれぞれのパートを毎月担当し、その間、それぞれの人間関係や悩みが展開していくのであるが、「読書会」自体がオースティンの物語になっているとことろが憎い。
「エマ」を担当したジョスリンはエマのように人をくっつけることばかり考えて自分の恋にはそっちのけ、「マスフィールド・パーク」のシルヴィアは夫と離婚したばかり、きつい境遇に「パーク」のファニーを重ね合わせ、「ノーサンガー僧院」の黒一点グリッグは、ジョスリンに惹かれているのに、ジョスリンから「シルヴィアを誘え」とせっつかれ、「自負と偏見」のバーナデットはエリナーよろしく周囲に機転を利かせ、「分別と多感」のアレグラは「多感」のマリアンヌそのものの激しい恋のまっただ中、最後の「説得」を担当したプルーディーは夫と分かり合えず、教え子と不倫直前…。
とまあ、波乱含みの内容にして最後は落ち着くところに落ち着くのであるが。200年前のオースティンの価値観は現在から考えるともちろん保守的、禁欲的である。しかし最終的に「落ち着くところに落ち着いて」もその間のはらはらどきどきはサスペンスものをもしのぐといえば言い過ぎであろうか。
いずれにしても200年経っても古びないオースティンの世界が堪能できる、そしてオースティンオタクにはにやりとさせられるであろう巧さが詰まったアメリカ映画の珍しい快作である。大仰な事件や、宇宙人が攻めてこなくてもワクワク作品はできるのである。
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何を学ぶのか   光州5.18

2008-06-01 | 映画
光州事件についてはあまりにも語ることが多いと感じ、また、語るほどにはその当時無知だった自分が恥ずかしいため、綴ってはこなかった。
1980年5月18日。あの日、軍事政権はノー、もうこれ以上軍部が支配する国家にノーとデモをした学生に襲いかかった軍隊。軍の怖さは武力を持っていることそれ自体ではない、その武力が国民を守ってくれるため存在していると思っていたのに、その銃の先が自分に向けられることだ。いや、軍事力の矛先が自分ではなく他者に向けられるはずだ、と考えること自体、国家権力としての軍隊に対する理解の足りなさ、おめでたいだけなのかもしれない。それほど軍というものは国民一個人を守るためでは決してなく、国家という幻想の共同体を守るためだけに存在価値があるのだと。
光州事件の犠牲者数は今だ分からず、2000人超とも言われる。黄皙暎は犠牲者数については正確なところは記述していないが(「光州5月民衆抗争の記録」)、たとえそれを大きく下回る犠牲者数であっても、権力による不合理、不条理な殺され方という意味ではその事実確認と責任追及は厳しくなされなければならないだろう。
現在の韓国が「民主化」を成し遂げ、軍事政権の首謀者たる全斗煥もその後全政権を引き継いだ廬泰愚もその在任中の責任を問われ、追放されたのにはその証があると言える。そして、光州事件で民衆を扇動した罪で「死刑」を宣告された金大中が大統領にまでなった国として光州事件の国家犯罪性は明らかになったとも見える。しかし、「光州5.18」も語るようにあの時、自由を求めた民衆に銃口を向けた兵士のPTSDは解決されていないし、ベトナム戦争やイラク戦争の米帰還兵のPTSDが解決されていないように国家の勝手(戦争における兵士の位置とはそんなものだ)に翻弄された兵士の姿は明らかにはなっていない。というのは、韓国はいまだ朝鮮民主主義人民共和国と戦争状態であるし、国民総背番号制どころか、住基カード、指紋押捺制度といい、国民をがんじがらめに管理する韓国とは、そして徴兵制のある韓国とは軍事国家としての反省を何らしていないとまみえるからだ。
いや、反省はありえないし、軍事国家を捨てる意志はないであろう。であっても、「シルミド」や本作に見えるように、韓国の現代軍部の暗部に光を当てる作品は韓国の先進性を物語っていると言えるのではないか。と言うのは、日本ではそのような映画はできないし、しかし、安保闘争の際市民を死に至らしめている実態を鑑みれば、韓国より後れをとっている部分がかなりある。
最近田中耕太郎元最高裁長官が長沼ナイキ事件で米から自衛隊違憲判決を出すなと圧力をかけられたと明らかにしたとの報道があった。事実ならそれに従った田中長官は売国奴きわまりないが、軍隊と国家の関係がおよそその時の政府の態度だけでは決まらないあかしと言える。光州の民衆も一時アメリカが韓国の軍事政権に圧力をかけてくれるのではという淡い期待をいだていたが、霧散した。
軍隊は絶対民衆を守らない。ましてや絶対的権力の軍隊は。という言い回しは「権力は腐敗する…」を想起させるが、そのような政治学における普遍的地平からは費やされた民衆の死は還りようもない。光州事件はそれくらい身近であったのに鈍感な自分だったのだ。
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