間違いなくディアスポラ映画の金字塔である。ディアスポラ映画とは筆者が勝手にカテゴライズした、言わば国や土地を追われた、あるいはそもそも依るべき国家や土地を持たない避難民の物語である。「国家」が幻想の共同体として最大規模のものであったとしても、人は必ずしも国家に頼らなくても生きていけるし、国家の側が民を裏切ることの方が圧倒的に多い。いや、国家は民を裏切り、傷つけ、排除するものだ。しかし、国家以前に人は土地に住まい、土地=landとともに生きていく。遊牧民族であってもそれに変わりはない。
バビロン捕囚後にユダヤ人が四散したことがディアスポラの語源だが、ホロコーストの時代を生きたユダヤ人もディアスポラなら、トルコやイラン、イラクなどから度重なる迫害を受けながらも今なお自前の国家を一度も持ったことのないクルド人もディアスポラである。20世紀まで国家を持たず、ホロコーストの故強固な国民国家を築いたイスラエルから迫害されているパレスチナの民も、あるいは、内戦や国家権力の迫害により土地を追われたボスニア人、アルメニア人、またアフリカの地で流浪する民もまたディアスポラである。
物語はロシア革命が全土を覆い、入植地オデッサから逃げてきたギリシャ人の移民らはニューオデッサを築くところから始まる。オデッサで両親を失い孤児となったエレニは成長し、移民のボスであるスピロスの息子アレクシスと愛を交わし、また妻を失ったスピロスは親子以上年の離れたエレニを娶ろうとする。スピロスから逃れアコーデオン弾きのアレクシスと貧しいながらも生きるエレニにとって生きていく心の支えはアレクシスとの愛と、一度は養子に出したが手元にいるアレクシスとの間の双子の息子たち。やがてニューオデッサは増水で消え、ギリシャ政府は音楽を退廃の象徴と見なし、労働運動と関わりのあったアレクシスの親方ニコスらを迫害する。ニコスはファシズム勢力が牛耳った政府軍の銃弾に倒れ、アメリカに夢を抱いてアレクシスは渡米する。しかし、「左翼」を匿った疑いで獄に繋がれるエレニ。エレニが獄にいる間、アレクシスは市民権取得のため米軍に入るがオキナワで戦死。二人の息子は政府軍と反乱軍に別れ、どちらも死んでしまう。
出獄し、息子の死体の前で「もう誰もいない。思う相手が誰もいない。愛する相手も誰も…」と号泣するエレニ。
2時間50分の長丁場のカメラはロングショト、劇的なクローズアップを一切拒否、水没する村の映像でもCGを排除し、ひたすら詩的映像の連続だ。それもそのはず、ギリシャ人監督アンゲロプロスは詩人としても著名で、現代の悲劇をずっと描いているにもかかわらずそこには静かな叙情性が醸し出されている。アンゲロプロスの作品には河がよく描かれ、本当に静かに静かに体と心の奥底から絞り出されるような痛い涙を流すシーンが多いと言う。河は涙につながり、河が流れ着く先には湖か海が必ずある。日本の諺「水に流す」とは正反対に河の流れの理由(わけ)と行き先を最後まで見据えようとする言わば非情な、名もなき民を一切の同情抜きで描く透徹した眼差しは、ディアスポラとして生きる者たちへのアンゲロプロス流の哀歌とも思える。
トロイア戦争で活躍したユリシーズ(オデュッセウス)になぞらえて「ユリシーズの瞳」でも国家や国境に翻弄される難民の姿を描いたアンゲロプロス。本作が20世紀史を描く3部作の1本目であるという。次作以降も大きな期待を抱かせるが、現実は常に物語や映像を先んじる傾向にある。これ以上一人でも多くのディアスポラを増やしたくない。
バビロン捕囚後にユダヤ人が四散したことがディアスポラの語源だが、ホロコーストの時代を生きたユダヤ人もディアスポラなら、トルコやイラン、イラクなどから度重なる迫害を受けながらも今なお自前の国家を一度も持ったことのないクルド人もディアスポラである。20世紀まで国家を持たず、ホロコーストの故強固な国民国家を築いたイスラエルから迫害されているパレスチナの民も、あるいは、内戦や国家権力の迫害により土地を追われたボスニア人、アルメニア人、またアフリカの地で流浪する民もまたディアスポラである。
物語はロシア革命が全土を覆い、入植地オデッサから逃げてきたギリシャ人の移民らはニューオデッサを築くところから始まる。オデッサで両親を失い孤児となったエレニは成長し、移民のボスであるスピロスの息子アレクシスと愛を交わし、また妻を失ったスピロスは親子以上年の離れたエレニを娶ろうとする。スピロスから逃れアコーデオン弾きのアレクシスと貧しいながらも生きるエレニにとって生きていく心の支えはアレクシスとの愛と、一度は養子に出したが手元にいるアレクシスとの間の双子の息子たち。やがてニューオデッサは増水で消え、ギリシャ政府は音楽を退廃の象徴と見なし、労働運動と関わりのあったアレクシスの親方ニコスらを迫害する。ニコスはファシズム勢力が牛耳った政府軍の銃弾に倒れ、アメリカに夢を抱いてアレクシスは渡米する。しかし、「左翼」を匿った疑いで獄に繋がれるエレニ。エレニが獄にいる間、アレクシスは市民権取得のため米軍に入るがオキナワで戦死。二人の息子は政府軍と反乱軍に別れ、どちらも死んでしまう。
出獄し、息子の死体の前で「もう誰もいない。思う相手が誰もいない。愛する相手も誰も…」と号泣するエレニ。
2時間50分の長丁場のカメラはロングショト、劇的なクローズアップを一切拒否、水没する村の映像でもCGを排除し、ひたすら詩的映像の連続だ。それもそのはず、ギリシャ人監督アンゲロプロスは詩人としても著名で、現代の悲劇をずっと描いているにもかかわらずそこには静かな叙情性が醸し出されている。アンゲロプロスの作品には河がよく描かれ、本当に静かに静かに体と心の奥底から絞り出されるような痛い涙を流すシーンが多いと言う。河は涙につながり、河が流れ着く先には湖か海が必ずある。日本の諺「水に流す」とは正反対に河の流れの理由(わけ)と行き先を最後まで見据えようとする言わば非情な、名もなき民を一切の同情抜きで描く透徹した眼差しは、ディアスポラとして生きる者たちへのアンゲロプロス流の哀歌とも思える。
トロイア戦争で活躍したユリシーズ(オデュッセウス)になぞらえて「ユリシーズの瞳」でも国家や国境に翻弄される難民の姿を描いたアンゲロプロス。本作が20世紀史を描く3部作の1本目であるという。次作以降も大きな期待を抱かせるが、現実は常に物語や映像を先んじる傾向にある。これ以上一人でも多くのディアスポラを増やしたくない。