kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

子ども視線に気づくべき大人の目線   ダルデンヌ兄弟「少年と自転車」

2012-04-30 | 映画
20代のころから随分長いあいだ付き合いさせてもらっている『We』という小雑誌がある(フェミックス刊 http://www.femix.co.jp/)。『We』にいま「ジソウのお仕事」との連載で、児童相談所の勤める児童福祉司の青山さくらさんが執筆している。『We』誌には悪いが、記事の中では特集よりも一番青山さんの連載を気に入っているし、ときに涙を禁じ得ない。
「ジソウのお仕事」では、暴力を受けた子(もちろん性暴力もある)、ネグレクトされた子らがジソウにやってきて、その子らとの壮絶なかかわりの一端が紹介されるが、現実は文字面で分かることを超えている。青山さんは、ジソウが持つ限界=児童養護施設など児童を保護する施設への連携や権限、入所期間などさまざまな限界、がある中でも、一人ひとりの児童にどう付き合ってきたか、その実態と悩み、希望を吐露されていて頭が下がる。
「少年と自転車」もダルデンヌ兄弟が来日した際に「赤ちゃんの頃から施設に預けられた少年が、親が迎えに来るのを屋根にのぼって待ち続けた」というエピソードを聞いたことで脚本執筆・映画化となった作品である。このエピソードは少年犯罪で付添人などとしてかかわってきた石井小夜子弁護士の話でもたされたものであった。(石井さんの『少年犯罪と向き合う』岩波新書は必読)
シリルはもうすぐ12歳。ホーム(児童養護施設)に預けられるが、父に会いたいし、また一緒に暮らしたい。しかし、行き先も告げずに転居してしまい、シリルの大事な自転車を売り飛ばした父は、やっとのことで会えたのに「もう会いに来るな」「電話もしない」。
週末だけの里親であったサマンサしかもう頼る人はいない。しかし、体の割にけんか強いシリルに目を付けた不良グループに引き込まれ、強盗を犯すことに。窮地に陥ったシリルを助けたのはやっぱりサマンサだった。
おそらくは貧困層が住む団地で父と暮らしていたシリルだが、祖母にはやさしい不良のボスにも両親はいなそうだ。団地の近所で美容店を営むサマンサがたまたま団地の診療所に来ていたため二人は出会うことになる。これは運命的とも言える。しかし出会いは運命でもそれを持続させ、よい方向に向かわせるには努力や相手への思いやりが必要だ。シリルとサマンサには深い信頼関係ができたように見えるが、「親に棄てられた」シリルの心の傷は簡単には癒えまい。それは一人サマンサだけの力でない。ホームの教師をはじめ、大きな社会的後見が必須だ。ベルギーのこの地域の福祉はどうだろうか。
ダルデンヌ兄弟は「子どもの視線」を描くのが本当にうまい。「息子のまなざし」「ある子ども」と恵まれない家庭環境、犯罪に手を染め、その更生をサポートする人などが描かれるが、決して美談で終わらないし、むしろ子どもたちはこの先どうなっていくのか心配の種を大きく残したままで途切れる。そう、アンチエンディングなのだ。「少年と自転車」も終盤、シリルが強盗を働いた少年に襲われ、危うく命を落としそうになるなど前途は多難である。しかし、その多難をサマンサとの生活でうまくいくなどと回収しないところがダルデンヌ兄弟らしいし、それが実際なのだろう。愛では解決できない現実と、お金では解決できない心情と。簡単な「解決」ではなく、息長く見守る社会こそをとダルデンヌ兄弟は示唆しているように見える。そう、子どもの視線を見逃さない大人や社会の目線こそが問われているのだと。
翻って、日本では「二重行政」批判、国の出先機関を統廃合しようという「小さな政府」志向が強まっている。子どもの視線に気づく大人の目線がこれら「小さな政府」路線でますます脅かされると思うのだが、それは「自己責任」だというのだろうか。

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50年前のアメリカの話ではない  分離は差別と敏感たれか  The Help

2012-04-15 | 映画
黒人の大統領が誕生したこの国の出来事、ほんの50年前まで黒人の地位とはこのようなものだったのだと驚かされる。ローザ・パークスがバスで白人に席を譲らなかったために逮捕されたのが55年、翌年にはキング牧師によるバスボイコット運動が起こっていた。しかしミシシッピ州では60年代に入っても、黒人差別のジム・クロウ法(人種分離法)とそれを社会が従順に!執行し、幅を効かせていたということに驚かされるのだ。
主要なキャラクターは、とても分かりやすい。白人でありながら、黒人メイド(白人の子育ても担うHelpと呼ばれる)の境遇に疑問を持ち、記者として聞き書き・執筆を始めるスキーター、スキーターの同級生らはスキーターが大学に行っている間にどんどん結婚、出産し、その狭いコミュニティで女王然とするヒリー、ヒリーの元カレと結婚したシーリア、そして本作の主役たる黒人メイドのエイビリーンとミニー。
スキーターにメイドの話を聞かせてと取材依頼され、最初はけんもほろろのエイビリーンだったが、息子を白人に殺されたも同然の仕打ちを受けたことを思い出し、スキーターに語り始める。嵐の夜に室内の雇い主用トイレ使ったことでヒリーにクビにされたミニーはもともと肝が据わっていて、これも書けと大胆に。メイドらが協力するなかで完成したスキーターの『The Help』はベストセラーに。しかし、そこに書かれたのはミニーのヒリーに対する笑える復讐劇や、スキーター自身の自分の家で長い間雇っていたメイド、コンスタンティンのクビの本当の理由も書かれていた。
人種差別に否定的だったケネディ大統領が暗殺された後、ジョンソン大統領の時代になって成立した公民権法。しかしキング牧師は68年に暗殺、公民権運動が沈静化し、人種差別がおさまったかにも見えたのに実は収まるどころかベトナム戦争などにより黒人も多く「平等に」志願し、顕在化しにくかっただけ。91年にはロドニー・キング事件、それを引き金に92年「ロサンゼルス暴動」、さらにNYにおける黒人暴行事件など。冒頭で述べたように黒人大統領が生まれたこの国では、もはや、黒人は最下層ではない。しかし、オバマ氏のような超エリートもいるだけで、現在でも最下層の黒人はいるし、その間、中間層もどんどん厚くなっている。それは、イギリスから渡ってきた白人層がアフリカから連れてきた奴隷としての黒人層という構図から、ヒスパニックをはじめ、アメリカに多民族が移り住んだことの証左である。言い換えれば、グローバリズムとは、自国が他国へ進出することではなく、自国に他国の人たちをどう受け入れていくかが問われていることなのである。
陸続きのヨーロッパ諸国では、自国に入ってくる膨大な移民層とどう付き合っていくか、どう自国民として遇していくかに腐心し、「シチズンシップ」概念のもとに現在もその関係を模索している。自由の国アメリカにも多くの人が渡ったが、無理やり連れてきた黒人の人間としての本来の人権を顧みず、その後の移民にもWASP優位を押し付けたことは歴史の事実である。
エイビリーンやミニーに黒人メイドの置かれている境遇について口を開かせたのはおそらくスキーターの情熱ではない。むしろ、スキーターがいなくとも、機会があれば、エイビリーンらは訴えたであろう。なにしろ、ミシシッピは特に遅れた地域であったし、このままいけばエイビリーンやミニーは暴力的な手段に出ざるを得ない(出ても、もちろん事態が好転するわけではない)からだ。バスの乗ることをボイコットするなどおよそ平和的に続いていた公民権運動さえも、かの地では遠い手段であったことこそ60年代初頭のアメリカの社会運動が地勢的情勢に左右されていたことを実感せねばならない。
終盤、事実を明らかにされたヒリーは、友人をけしかけ、エイビリーンをクビにさせる。お茶会、パーティ、ブリッジ、結婚相手探しにくれるむなしい保守的な地盤、田舎の白人女性社会のルサンチマンをこのような形でしか発散できなかったヒリーを笑うなかれ。人権、人間の愛情や友情などといった人にかかわること以外の価値観を守ろうとするものがあると、余計にその価値観にしがみつき、人をないがしろにする。それは60年代アメリカの保守的な地域の話ではない。より「いい思いをしている」人を引きずりおろそうと狂騒する現在のこの国のメンタリティーとも相通じるものであるのだ。
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戦争の民営化の実相  ケン・ローチ「ルート・アイリッシュ」

2012-04-08 | 映画
ジャーナリストの安田純平さんがイラクで取材中武装勢力に拘束され、日本で「そのような危険なところ行くから」「自己責任だ」とすさまじいバッシングを受けたのが2004年。安田さんはその後、民間会社の手による軍事進攻の象徴たる米軍展開後のイラクの実相をルポしようと、料理人として入り込んだ。『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(集英社新書)としてイラク戦争がいわば国家の戦争ではなく、ある意味私企業主導であること、公務員たる軍人を派遣するより「民間人」を募ることによってはるかに安くつくこと、そしてその「民間人」にも明らかな人種格差、貧困の実態が深層にあることを明らかにして好著だった。
ケン・ローチの最新作は、イラクでの民間(軍事)会社(PMC)のすさまじい関与の実態と、そこに雇われたコントラクター(民間兵)の傷をあますところなく描いていると思う。戦争が国家による国軍兵士による、国家の責任と管理・統制によって行われていたのは20世紀の話。イラク戦争はアメリカの石油関連企業が自己の営利目的を遂行するのにサダム・フセインが邪魔であるからおこしたとまことしやかに言われていたが、あながちウソではないと思う。イラクに展開した米軍を支えたのはPMC、石油利権が大きいハリバートンであるとか、ベクテルであるとか、昨年NYを席巻した貧困デモ「我々は99%だ」の対極に位置する年収が億単位の経営者たちの会社だ。
ストーリーはローチらしく複雑なものではない。イラクでコントラクターの経験のあるファーガスは会社を興し、イギリスに帰国している。幼馴染の親友フランキーがイラクで襲撃され死ぬが、その死に疑念が。フランキーの遺された妻レイチェルとも惹かれあうが、フランキーの死を調べていくうちに恐るべき真相が。自車の走行中、無実のイラク民間人を殺してしまったフランキーは自責の念にかられ、会社の罪を告発しようとするが、それをもみ消したい勢力にフランキーは消されたのでは。
主人公のファーガスもイラクでコントラクターとして働き、派兵するなどきれいな人間ではない。フランキーの仇討とファーガスはフランキーの汚い同僚のコントラクターやPMCの経営者や直接関係のない人まで手にかけるが、ファーガスにも正義はない。そう、ローチが描きたかったのは、戦争の暗部ではなく、戦争には暗部以外はないということだ。
イラクで展開した「多国籍軍」のリーダーは当然米軍である。その米軍兵士がイラク民間人に対しテロリスト探しを理由にすさまじい拷問をくり返す。アブグレイブなど、早い段階から米軍の蛮行は明らかになっているが、彼らにとってイラク人は同じヒトではない。イラク戦争での民間人犠牲者は8万人とも10万人とも言われるがもちろん正確なところは分かっていない。アメリカは「数えていない」そうであるから。戦争の民営化は国際法規さえも無視する。民間人がしたことだからということで真相究明も、被害に対する補償もないがしろにされ、従軍したコントラクターの年金、精神疾患など正規兵なら当然のアフターケアが不要であるからこれほど安くつくことはない。
戦争はするべきではないし(アメリカはけしかけたのが明らかであるが)、民間に任せてはいけない。そういえば、イラク戦争に参加すると決定した小泉首相は「民間でできることは民間で」が口癖であったような。イラク帰りの自衛隊員が国会議員になり、憲法9条や対中、対北朝鮮などで強行な主張を繰り返すこの国では、ケン・ローチのような作品は生まれまい。ましてや支持率の高い橋下大阪市長率いる「維新の会」は9条を廃棄、軍事強化を企図しているような昨今。
ローチが本作を撮った動機は明快だ。イラク戦争で無辜の民を殺したブッシュもブレアも責任をとらないことを告発したいためと。小泉首相を戦争犯罪人として国際法廷にかける動きはどうなったのだろうか。「カルラの歌」「大地と自由」「麦の穂を揺らす風」など主に過去の戦争を描いてきたローチが初めて現代の戦争を描いた本作は「許さない」ことを「忘れない」というメッセージだと思えたのだが、どうだろうか。
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近代絵画の新しい楽しみ方  「美術をみる8つのポイント」展

2012-04-06 | 美術
美術館が常設展の入れ替えで勝負するとき、要は収蔵作品の豊かさとそれをプレゼンテーションできる学芸員の力量によるものが多いと考えられる。
「美術をみる8つのポイント」展は、県立美術館が「原田の森」の地にあったときから集めた作品群が豊かであること、それらをみせる工夫を学芸員が知恵を絞っていることがとてもわかって好もしい。日本の近代化絵画の渓流、暖流を切り取ってみてみようという試みは、日本の近代絵画が、西洋のそれと比して決して遅れていないことを表す証となっていることを示すものだ。8つのポイントの一つひとつをみてみよう。
「1 いちばんリアルな絵はどれ?」。リアルとはここでは、現実の対象をいかに表現し得つくしているかにある。たとえば、神戸が誇る近代絵画の巨匠、小磯良平の絵は(今回は取り上げられていないが)、分かりやすいリアリズムの極致である。いかに近代技術の粋である写真に近づけるか、写真に負けない画を描くか。写実とはかくありなんとの筆致に画家の実力が問われていると、美術初心者にも分かりやすい題材ではある。
「2 イズムを読みとれるか?」。キュビズム、フォービスム、シュルレアリスム、未来派。展示ではどの絵がどのカテゴリーに分類されているかクイズ形式になっているが、クイズそのものは難しくはない。むしろ日本の近代絵画だけを取り上げているのに、日本に「未来派」が勃興していたとは驚きである。言うまでもなく未来派はイタリアの前衛芸術運動。絵画の世界では「カンヴァスに我々が再現するのはもはや止まった瞬間であってはならない…」(未来派宣言)と高らかにうたわれたことからも分かるように機械的な連続画で、ボッチョーニ、カッラやバッラなど極端な展開構成である。イタリアではないフランスのドローネーにおいて、一応の完成を見るが、ドローネーの手法は戦後アメリカのミニマリズムにつながっていくことから分かるように一時の実験的描法でないことは明らかである。
「3 どんな事件/体験? どんな記憶/記録?」。いろいろな作品が出展されているが、体験の重みという点では浜田知明の「初年兵哀歌」が秀逸である。20代のほとんどを軍隊生活で費やした浜田は、軍隊の不条理を簡明なタッチで余すところなく伝えている。線画ともおぼしき銅版画は、浜田の経験した過酷な体験を突き刺すような細い線、シンプルであるからこそ伝わる痛さ、みたいなものを十二分に表現しつくしていて、それでいて滑稽さをさそう。兵庫県立美術館であるから当然、阪神・淡路大震災をテーマにした作品も多い。ただ、説明がないと分かりにくいのであれば、鑑賞者が作品に共感、思い入れを込められない場合もあり、作家とその表現方法・能力が問われる。
「4 どんな動きがかくれている?」。具体のメンバー白髪一雄が足で描画をはじめたのは有名なので、大きな筆とはまた違う迫力にいつ見ても感心させられる。アクションペインティングの流れをひく嶋本昭三(絵の具の入ったガラス瓶を投げて飛び散らせる)、今井俊満(フランスでアンフォルメ運動に参加)らの実験は、時代を意識させるが、今となっては具体ほどの新しさはないように思える。
「5 どれがいちばんモダニズム絵画?」。これは結構難しい。モダニズムという場合広義ではパリを中心としたアカデミズム画壇に対抗するものとして始まり、印象派以降、フォービズムやキュビズム、戦後のミニマルアートまでその守備範囲は広く、日本では主に戦前からの抽象絵画を指すものとして「モダニズム」と一口に言っても、想起する範囲が違うからである。そういった「抽象」の範疇で考えるなら、具体がなしたハプニングなどよりももっと描画や立体に徹底したものと言え、その時々の新しさというよりむしろその後の画壇を牽引するかもしれない普遍的な香りがモダニズム作品には不可欠にように思える。そういった目で見ると菅井及はいたってモダンで、ミニマルアートぽいし、今見ても古びないのは、ミニマルアートは極限までそぎ落とした分、簡明さや印象は絵画の普遍を構成するからだろう。
「6 どんな考えかを考えてみる?」。ここでは高松次郎、河口達夫、植松奎二ら見る者の想像力をかき立てるときに不思議な空間、映像、立体が現出する。それは、抽象ではなくきわめて具体的かつ現実的なものだ。高松の影(絵)、河口の星の軌跡を追った写真群、植松の金属やその他の素材を使った彫刻など作者の意図するところを推し量ると、こっちが迷宮に入り込みそうで心地よい。
「7 何のイメージ?」。森村泰昌ら現在活動、活躍するコンテンポラリーな話題提供として現実を切り取って見せた試みを楽しめるが、おもしろさが前面にでている分、「6 どんな…」に比して深さに足りない部分があると感じるのはいたし方ないことか。
「8 景色をどう切りとるか?」。西洋で風景画・風俗画が発達するのは、美術を楽しむ層が宗教画をありたがる教会や王侯貴族から庶民に移ったバロック期以降であるのに比べて、日本では仏画などとは別に花鳥風月を楽しむ歴史があるという。そういったバックボーンが日本の現代絵画や建築にどう影響しているかいないか分からないが、少なくとも美術が王族その他の一部の特権階級のものでない現代、楽しみ方はさまざまで、その前提として見やすさ、気安さ、近寄りやすさは美術に対する裾野をますます広げるに違いない。
今回の「8つのポイント」は、前述のとおり県美の財産が豊富であるのが幸いの楽しい企画であるとともに、見せる工夫のための切り取り方に感心してしまう。自分なりに8つ以上のポイントを探し出して近代絵画を楽しみたい。(坂田一男 「女と植木鉢」)
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