kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

買うな、買うシステムを許すな。だが実態をまず知ること。『性的人身取引』

2022-07-09 | 書籍

関西、大阪に長くいると飛田新地やその他の廓、女郎街の存在は知っていて、歩いたこともある。しかし、飛田も含め、現代では、廓ではなくて売買春が公然と行われている「風俗」と法律上は区分されている形態、地域であろう。そういった都会の「合法的」な営業形態とは遠く離れた地方でも「風俗」はあって、そこに働く女性は日本人でないことも多い。著者によれば東欧などからヤクザのコネクションで連れて来られた女性も多いという。日本も「性的人身取引」の当事国であったのだ。

著者の調査、データは日本語版の出版から20年以上前のものもあり、古いと思わされる。しかし、調査自体が、南アジア、南欧、東欧、東南アジア、アメリカと世界各地に渡り、その調査を裏付ける公式な統計、メディア、学術論文などを渉猟し、調査の実態を客観的に裏付けるのに数年も費やしているからだ。英語版の原著は2009年であり、翻訳者の原著の正確性、信頼性を確認しての12年後出版となった労苦がしのばれる。それくらい、大著で重要な仕事なのだ。

インド、ネパールでは子どもたちが親の債務の担保として、あるいは売買の対象として売られていく。強制売春させられるムンバイなどの大都会では、驚くほど安い値段で毎日何十人もの男性の相手をさせられる。病気や暴力にさらされ、多くが長くは生きられないだろう。性的ではないが、男の子は臓器を取られるだけ取られ、死体は闇に葬られる。現代社会にこのような非道があっていいのかと驚き、怒りが湧いてくるが、供給は需要があるからこそ成り立つ。それは、世界中どこでも変わらない。しかし、著者も指摘する通り、陸路の移動が可能、便利である場所から「商品」は調達されることが多い。タイの売春宿にはタイ奥地の村のほかラオスやビルマなどから、イタリアやバルカン半島には東欧や旧ソ連圏、西欧ではアフリカのナイジェリアからも「稼ぎに」来ているという。

東欧、旧ソ連圏からイタリアなどへ供給される「性商品」は、モルドバなど貧困国がもちろん多い。仕事がない、生計が成り立たないと被害者が一旦モルドバに帰国しても、出国、再び性産業に従事することも多いという。貧困が解消されないと解決できない問題でもあるのだ。

それにしても、著者が聞き取った彼女らの境遇には絶句する。13、4歳で無理やり、縫製などの仕事があると騙され、親が現金を得るために、全く知らない土地へ移され、そこでの暴力、幾度もの強姦、怪我や病気の手当てもなく、いつまでも「借金を返せてない」と脅かされる。そこでは医療的に十分ではない中絶や、産み落とした子どもがどこかへ奪われるというのもある。この世に希望は一切ない。しかし、それを聞き取り、明らかにするために著者は辛抱強く、調査を重ね、そして著した。

「(世界の)売買春」でもなく、「性奴隷の実態」でもなく、「性的人身取引」。サブタイトルに「現代奴隷制というビジネスの内側」に著者の意図するところは明らかだろう。現代社会では「奴隷」は冷酷なビジネスなのだ。そして、その奴隷になるのが多くの年はもいかない女性たちであることに、怒りと諦観と、でもなんとかしたいという思いを感じる。そのためには実態解明がまず必要なのだ。

もう、買うな。

(『性的人身取引 現代奴隷制というビジネスの内側』はシドハース・カーラ著、山岡万里子訳、明石書店、2022年刊)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「家族」は「家族」になってゆくもの  ベイビー・ブローカー

2022-07-02 | 映画

是枝裕和監督は「家族であることとないこと」と「家族でいることといないこと」を描くのが本当にうまい。家族とは他人である異性が結合し、子をもうけ、血縁関係が基本であるとの「理想の」「伝統的で」「健全な」家族像を疑うことから始まる。現にDVや児童遺棄などの問題は血縁家族から発生していることが多い。しかし、是枝監督が問うのは、理想の家族とは何かではなく、一人ひとりの人間がどの時点で家族を形成、意識していくかという点にあり、それを世間=多数派の他者が「そんなものは、家族ではない」という決めつけを打ち消すところにあると思う。

「誰も知らない」(2004)では、子ども置き去り事件を、「そして父になる」(2013)では、新生児取り違えを、そして「万引き家族」(2018)では、血縁のない一家の擬似家族ぶりを描いた。そして本作は赤ちゃんポストである。

日本では熊本慈恵病院のただ一ヶ所だけで運営されている通称「赤ちゃんポスト」(慈恵病院では「こうのとりのゆりかご」)は、韓国では3ヶ所あり、保護数も日本より圧倒的に多い。日本より少子化がはるかに進む韓国で(合計特殊出生率は0.81、2021年)、授かった命を手放さなければならない境遇の母親が多い事実と、その命をなんとか守ろうとする国を挙げての取り組みに驚かされる。しかし、もちろん綺麗事ではない。

本作でカンヌ映画祭主演男優賞を得た名優ソン・ガンホ演じるサンヒョンは、自身親から遺棄された過去を持つドンス(カン・ドンウォン)と赤ちゃんポストに託された子どもを売るベイビー・ブローカー。赤ちゃんを取り戻したい母親ソヨン(イ・ジウン)は、彼らと共に買い手探しの奇妙な旅に出る。途中でドンスの育った施設の子どもヘジンも加わり、ロードムービーが展開する。児童売買の現場を押さえようと彼らを追う刑事スジン(ペ・ドゥナ)は何か重い屈託を抱えていて。配役と場面ごとの間の妙に唸っているうちに、事態はとんでもない方向へ。そう、血縁関係も、もともとなんの関係もなく、感情や利害の対立さえあった人たちが「家族」になってゆくのだ。しかし、当然犯罪がらみ、警察に追われる「家族」は「家族」として成就はしない。

あらためて「家族」とはなんだろう。私ごとで恐縮だが、筆者はある資格官職として勤めていた。資格には一般的に試験通過が必要で、多くの場合、その資格を得るためには研修もあり、研修を終わった者だけが官職を名乗ることができた。しかし、私は試験に通ったから、研修を終えたからその官職を名乗れるのではなく、その官職名で呼ばれ、働いているうちにその官職となるのだと常々感じていたし、若い人にもそう伝えていた。家族も同じようなものではないだろうか。「家族」として見なされると同時に、実感することと、その「家族」の一員であることを自身が受け入れていく過程そのものが「家族」であると。そう「家族」は「家族」になってゆくのだ。だから、「家族」と見なされていることだけにすがり、その家族間にずれや軋轢が生じると容易に壊れるものでもあると。異性、年長と年少、血縁などの属性は関係ない。

同性カップルの権利や、出自の不明なままの内密出産の法的保護など「多様な家族像」という一言には納めきれない現実もまた、「これが家族です」という定義づけを不明にし、その意味をも問い直す。日本では独り世帯が増加し、高齢者の「独居」も増加の一途だ。しかし、「家族」を上記血縁や同居の有無に囚われることなく、緩やかな人間関係の上で再定義するならば、悲惨な実態とイメージは薄れるのではないか。ところが、カンヌで同時期に賞を取った早川千絵監督の「PLAN75」が上映中で、日本では「家族」どころか「無用な」人間を減らす試みが現在進行形に見えるのが恐ろしい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする