kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

被害者は彼女自身なのだけれでも  「ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件」

2013-11-24 | 書籍
2010年大阪で起きた2児遺棄餓死事件は、シングルマザーの置かれた状況を最悪の形で明らかにしたことによってそれら状況が改善されるとかと思いきや、当時23歳の被告人女性の育児放棄とその奔放な生活態度ばかりを批判され、何か割り切れないものを感じていた。今回『ルポ 虐待』(杉山春著 ちくま新書)が上梓されたことにより、被告人女性の生育歴、背景がある程度明らかになり、やっぱり彼女一人を例外的な悪人として済ますのは間違いであると感じた。
はっきり言って虐待の連鎖である。特に虐待の中でもネグレクト。彼女自身、ネグレクトされ、それを自覚していない(たいがいはそうだろう)父親の悪しき対応も彼女の人格障害の一因と本書は言う。人格障害。裁判ではそう診断しなかった鑑定が全面的に採用され、判断材料に容れられなかったが、著者の杉山さんはむしろ採用されなかった鑑定の方、彼女を乖離性人格障害と診断した方を支持する。
彼女は、彼女が閉じ込めて世話をしなかった娘そのものであった。彼女の眼は娘の眼。彼女自身が、自分が遺棄されていることを認めたくなかったのだ。だから、彼女は自分のしたことを覚えていなかったり、他者から見れば嘘ばかりついているように見えたのだろう。しかし、きつい現実を現実と受け止めないために、自身を守るために現実と認識しない、自分は別の自分に成り代わるという、生きて行く術がある。それが彼女の人格障害だったのだ。
彼女を弁護した側は、彼女を乖離性人格障害とした鑑定書も提出したが、採用されず、上告審まで行って結局懲役30年と確定した。仮に20年程度で仮釈放されても、出所したときは45歳。職に就ける見込みも薄く、生活保護となり、薬物その他に侵される危険性もある。なにが更生になるのかを考えての判決とは思えないし、だからといって最適の更生方法もすぐには見つからない。
話は変わるが、『We』誌で「同時代の男性学」を連載中の沼崎一郎東北大教授が、この事件について、付き合っていた男たちは彼女の子どもたちのことを心配しないのか、問い尋ねてみなかったのかと問題にしていた。杉山さんによると、彼女の付き合っていた男たちは皆彼女に子どもがいることを知らなかったか、祖母に預けているなどとの言を簡単に信じていたという。しかしだ。杉山さんの取材にケチをつけるつもりはないが、やはり、彼女と付き合っていた男性は知らないフリをしていた、あるいは、そもそも付き合う女性のバックボーンなんて興味がない男たちだけだったのではないか。そして、それら男たちは彼女の不安定性に懐疑の念を抱かない単なるボンクラたちだけだったのではないか。
いずれにしても、彼女の両親のように子どもを全面的包摂、受容できない人も親になる。ネグレクトがなくなることはないし、人手の足りない児童相談所を責めても解決しない。彼女が子どもたちの父親と離婚することが決まった時、彼女と夫の親族が集まり、彼女は当事者ではなかった。家族、親族以外の眼が閉ざされた家族にこそ必要だ。
彼女は、現在、彼女を支えようと決めたご夫婦の養子となったそうだ。見捨てる人が多いけれど、見捨てない人もいる。彼女を非難し、厳罰を簡単に言う人が多い中でも人には希望がある。と思いたい。
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群舞の複雑さに感嘆   NYCB2013

2013-11-04 | 舞台
有吉京子「SWAN(スワン)」で主人公の聖真澄が、正統派クラシックの世界からニューヨークのバランシンに指導を受けるシーン。正確には覚えていないが、バランシンは「考えるな」「構成するな」「解釈するな」と体が自然に音楽に反応、あるいは身体そのものが音楽になることを要求した。ロシア・バレエの正統にて大御所マリンスキー、バレエ・リュス出身のバランシンがアメリカに渡った後は、クラシックの伝統的な舞台ではなく、身体反応としてのバレエを求めた。
バランシンのすごいところは、そうは言ってもクラシック・バレエの基本を押さえた上での振り付けであるということ。それはもちろんそうだろう、白鳥と黒鳥のダンスが入れ替わるなんてありえない。が、今回NYCB(New York City Ballet)の公演で分かったのは、体が反応とは正反対のコール・ド・バレエの構成力の高さ。コール・ド・バレエと書いたが、ここでは群舞がぴったりとくる。今回の「白鳥の湖」ではソロはとても少なく、ほとんどが群舞の醍醐味を実感する演出となっている。それは群舞がおそろしく複雑であるから。通常、コール・ド・バレエというと、16人や24人が同じ動きをくり返す。そろったアラベスクの美しさと言ったらない。しかしバランシンの振り付けは各人が同じ動きをすることを許さない。ある時は一人ひとり順に開くグラデーションに、ある時はまるで美しい統制を拒否するかのようなランダムな舞い。
圧巻は国鳥の乱舞。ヒッチコックの怖い映画に「鳥」があったが、まるで無数の鳥が無秩序に舞っている様。この時、黒鳥に魂を奪われた(白鳥オデットと間違えた)ジークリフトも落命するが、あの黒鳥の群れに巻き込まれれば一たまりもない、と思わせる演出。本当に黒鳥が舞っているように見えたのだ。ブラボー!
ところでNYBCといえば、ストラヴィンスキーの諸作品を圧倒的な技術で展開したことで有名だ。ストラヴィンスキーと言えば「ペトルーシュカ」「火の鳥」「春の祭典」といった難解な作品が多く、それを振り付けた場合の舞いはときに「難解」を継承していて、分かりやすいクラッシック・バレエに慣れた浅薄生にはつらい時がある。その時に冗長な振りではなくて、魅せる振りとは、を体現したのがこのバランシンの群舞である。
群舞を美しく見せるためには一人ひとりの高い技術が必要だ。だから、今回の公演では群舞のダンサー全てがプリンシパル(主役)であり、端役は存在しないのだ。バランシンは最初、乱舞を白鳥でしようと考えていたが、衣装合わせの段階で黒鳥もいいなと転換したという。そう、ジークフリフトを追い込む暗黒の舞いは複雑、そして奔放な無数の黒鳥の舞いこそふさわしい。その一羽、一羽がすばらしく迫力ある前提とともに。
「白鳥」のほかに今回の舞台はコンテンポラリー「The とFour Temperaments」、ビゼーの初期楽曲(17歳のときの作品という!)に着想を得た「Symphony in C」。「Symphony in C」は、コンテンポラリーに少々に戸惑いを感じた観客にサービスのオーソドックスなクラシカル。うまい組み合わせだ。
圧倒的な運動量、目くるめく展開はNYBCの面目躍如。楽しい時間を新しいフェスティバルホールで堪能できた。
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知りたい、ただそれだけ。   『隣人が殺人者に変わる時』

2013-11-04 | 書籍
NIESやBRICsなど、新興国を指す用語が生まれた後の新興国をグループとして指す用語はない。それだけグループというより一つひとつの国が、様々な試練の後で復興してきたということなのだろう。
それら今、外貨債を売り物にしている(た)南アフリカ(BRICsのs)やブラジル(同B)など経済発展著しい国ではなく、現在も著しい発展とは言い難いが、政情が安定したため先進国企業が投資する国の筆頭がミャンマー(ビルマ)そしてルワンダである。
ルワンダの虐殺については映画で描かれているので(「ホテルルワンダ」(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/43bf244d1a2e571005f1e02d57474579)、「ルワンダの涙」(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/dbd629392f555a209549a4892a455410))で紹介したが、
書籍は多くはない。唯一ルワンダ現代史の「体系的」な物語となっているのが『ジェノサイドの丘  ルワンダ虐殺の隠された真実』(フィリップ・ゴーレヴィッチ著 2003年WAVE出版)である。ルワンダ虐殺から9年、早い段階!でのこの好著は新装版や文庫版も出ているようでルワンダ虐殺を知る手掛かりとなっている。そして、今回『隣人が殺人者に変わる時 ルワンダ・ジェノサイド 生存者たちの証言』として、まさしく傍観者、研究者の立場ではなくてサバイバーたち一人ひとりに語ってもらった、あの虐殺の瞬間が生々しく再現されることとなった。証言者は14人。ここまで詳しく語ってもらうために著者のジャン・ハッツフェルドは信頼関係ができるまで粘り強くニャマタ(虐殺犠牲者の多い地域)を訪れ、何回も何回も話しかけたのだ。
証言者の性別、年齢、境遇はさまざま。農民もいれば教師などの知識層、比較的裕福な大家族から、シングルマザーもいる。それら証言者の語るところはフツ族に対する空気として―それはおそらくフツ族によるくり返されたツチ族攻撃・虐殺の長い歴史がある―違和感とフツの友人に対する親和感、殺人者となったフツに対する拭いきれない恐怖感がないまぜになった感情である。付き合いのあったフツの知人がマチェーテ(農具であるナタ)を手に殺人者となる様は、理解の範疇を超えているが、ここに「理解」は存在しない。あるのは理屈や背景説明はなにもない、ただ、まるで業務のように(朝9時からツチを殺し始め、4時にはきっかり終えて帰る。そのために昼間は泥沼に身をひそめ、夜に食糧を調達し生き延びた生存者のツチたちの姿がある)殺人をするフツのインテラハムエ(フツ族の民兵集団)とその暴力性、狂暴性にしたがった普通のフツの人たちである。
ルワンダはキリスト教信仰が篤く、これまでの虐殺の歴史の中でも教会はツチの避難場所として安全であった。しかし、94年の虐殺では、ニャマタの教会に逃げ込んだ5000人ものツチの人々を、フツは教会を攻撃してまで殺戮したのである。むしろ、一か所に集まっていたツチを「まとめて」殺すことができる地獄と化したのである。「ホテル・ルワンダ」では、教会は神聖な場所、侵してはならない場所としてあるのに、同じキリスト教徒であった(はずの)フツが押し入り、あろうことかシスターをレイプし、殺戮するシーンがある。しかし、生き残ったツチの人々は信仰に救いを求めているように見える。教会ボランティアとなったり、朝夕の祈りを欠かさないと。
ルワンダでここまで広がった大殺戮を防げなかったのは西側諸国(特に旧宗主国として逃げ出したフランスなど)が見て見ぬふりをして、国連の介入が大きく遅れたからと言われる。見て見ぬふりはヨーロッパ諸国に限らず日本も同じだろう。そして、安定したルワンダに投資するハゲタカ資本たち。
繁栄を謳歌し、発展した市街地に続く道にはまだ頭蓋骨が見つかるルワンダ。生存者の証言を大事にすること、そして、忘れてはならないことが絶対にあるということ。ルワンダ・ジェノサイドの実相解明はまだ端緒にさえ着いていない。
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