kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

花森安治のデザインとその背景に出会う  「花森安治 『暮らしの手帖』の絵と神戸」展

2021-01-19 | 美術

新型コロナウイルス感染症禍の下、巣篭もり需要で生活調度品、調理器具や家電の売れ行きが好調という。暮らしに潤いをもたらす工夫は、モノに限らないが、選ぶなら使いやすい、その生活スタイルにフィットする、そして長く使用できるなどが重要だろう。現在、日本中、いや世界中あまねく目指せ?と鼓舞されているSDGs(持続可能な開発目標)を先取りしたような地球に優しく、個々の豊かさを満喫できる暮らしのあり方だ。それを戦後間もない頃から提唱していたのが『暮らしの手帖』(1〜26号、1954年12月1号までは『美しい暮らしの手帖』)である。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で唐沢寿明演じた頑固な編集者は花森がモデルだが、そこで描かれたのは、戦争に協力した自己の過去に苛まれ、大橋鎭子(暮らしの手帖社社長。「とと姉ちゃん」では高畑充希演じる小橋常子)の勧誘になかなか首を縦に振らない姿であった。本展覧会では、花森の戦争への関わり、思いに焦点を当てたものではないので、その点はすぐには見えにくい。しかし、花森が徹底的にこだわった毎号の表紙、幅広く呼び込んだ随筆の数々、そして暮らしを、平穏な日常を彩る家事の道具や衣装など、平和な日々であるからこそ得られる反戦の証ではなかったか。

花森が死の直前まで描いた表紙のモダンさはどうだ。その丁寧な筆はやがてクレヨン、版画など技法を変え、手法を変えて継続していくが、一貫して時代に沿い、時代を先取りするデザイン感覚に溢れている。描かれる街や家具・調度品、女性らはそこにある、いるだけで安心し、そして次の表情を期待させる。同時に、決して媚びない。さすがに幼少の頃から絵の才に恵まれ、学生時代には新聞のレイアウトを担当したからであろう。また時代的に阪神間モダニズムを享受した世代であることも関係あるかもしれない。花森の描く表紙にはフォービズム、キュビスム、構成主義、シュルレアリスムなどヨーロッパ、そして日本に輸入された前衛絵画の要素が全てある。もちろんそれでいて具象からは離れない。デザインが絵画と違うのは、こういった絵画の歴史的変遷を取り入れつつ、それらのいいとこ取りだけしていても、理解できない前衛とは見なされないことだ。そしてそれを巧みに行き来するだけの技術と発想が花森にはあった。

随筆を寄せたメンバーも豪華で心憎い人選だ。小倉遊亀や猪熊弦一郎、津田青楓といった画家、工芸家の芹澤銈介、民俗学者の森口多里、山びこ学校の無着成恭、作家の犬養道子など。そして平塚らいてふと山川菊栄らの対談まである。しかし出色は、「とと姉ちゃん」でも描かれた家電を中心とする生活用品の綿密な商品テストと戦争中の暮らしの記録であろう。平和な暮らしは、行き過ぎた大量消費と公害を生み出す利益第一主義の製品生産に警鐘を鳴らす前者と、食べるものにも事欠き、精神主義によって全ての解決を目指す不合理主義の極致である後者を検証、徹底的に見つめ直すことによって担保される。そうであるためには消費者、生活者、権力を持たない者は愚かであってはならない。花森が描き続け、保とうとした「暮らし」には先人の知恵と同時代に生きる人の智慧が必要と訴えたのではなかったか。

戦後間もなくスカートを履き、長髪で登場した花森の姿はさぞかしぶっ飛んで見えたことだろう。しかし、イクメンという言葉が生まれる半世紀以上前に花森はジェンダー解体も見据えて奇行に励んだのかもしれない。(『花森安治 『暮らしの手帖』の絵と神戸』展は神戸ゆかりの美術館にて3月14日まで)

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女性の活躍にインドの思惑と、現実と  「ミッション・マンガル」

2021-01-09 | 映画

惑星探査機はやぶさ2が小惑星リュウグウの地表小片を取得したとかのニュースにはさっぱりその意義も分からないし、その過程も知らなかった。ましてやインドがアメリカやロシアなど宇宙開発先進国に先駆けて火星に到達していたことなど。

国策映画である。描かれるのは低予算で重要視されていなかった宇宙開発部門の技術者らの意気込みと工夫、チームワークで火星到達に成功する物語。インド映画といえばマサラムービーであるが、文脈のよく分からないダンスのシーンもあるけれどそうではない。もちろん技術者らの家族関係における葛藤や技術者同士のラブもあるがほんの付け足し。要諦は後発国インドで成し得た成功物語である。BRICsの一員として「次の」先進国として名をあげたインドは宇宙開発にも力を入れた。有名な数学教育のレベルの高いことはもちろん、知識層は普通に英語を話す。作品中も多分基本はヒンディー語なのだろうが、ときおり英語が混じり、ちゃんぽん語も聞こえる。

主人公の技術者らは貧困層が人口の80%以上を占めると言われるインドにおいてエリート、中間層より上であるのは明らかだ。開発を引っ張った女性の家は広く、子どもらも高等教育の生徒に見えるし、彼女自身車で通勤する。インドの通勤、交通機関の定番リキシャではない。チームの一員はいろいろ変わる彼との逢瀬を瀟洒なマンションで。他のメンバーの一人は夫が軍人で大怪我をしたので病院に駆けつけるが、夫は「看護師としてではなく君のしたい仕事をしてほしい」。出来過ぎ、女性の地位向上、民主主義を見せつけたいモディ政権の思惑があざとい。なにせ、映画のラストクレジットでモディの偉業とも紹介されるのであるから。映画ではチームの主要メンバーが女性で占められているが、実際、開発セクションは映画で描かれたような少人数ではなく大所帯で、女性比率が低くはなかったが、映画ほど高かったほどでもない。全てが実話をもとに膨らませたと言える。

とここまで本作の悪口ばかり書いたが、インド映画にヨーロッパ映画のような国家からの独立性や個人的合理主義を求めても野暮というものだろう。しかし、野暮であっても個人は大事にされなければならないし、科学者の独立性は担保されなければならないだろう。同時にインドが国家政策として自国の宇宙開発を映画で宣伝されることをおおいに利用して、その組織の独立性、情報開示性を示していることも伺えるし、映画側はそれを利用した。そういうメガネを通して見ると本作はまた違った様相を見せ、魅力も感じられる。モディ政権の大インド主義下でも描ける、制作できる映画はある。結果的にはインドの成功を喧伝するように見えても、そこにほのかに見える科学者、技術者の気概はある。そしてその気概は時の政治権力に利用されていていることを自覚していることを描くこともまた気概の一部になり得る。

反政府主義活動家として国内での著作発表が不自由とも伝えられるアルンダティ・ロイは、開発独裁、グローバリズム企業の横暴を鋭く告発してきた。宇宙開発という地上の戦争危機とはすぐには無縁と見える科学オタクの成功譚は、トランプの宇宙軍を引き合いに出すまでもなく、宇宙が覇権の現実的争訟の場であることを覆い隠すという希望の物語で終わってはならない。

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「残された」人を想像したい   「この世界に残されて」

2021-01-01 | 映画

近頃よく聞く言葉「レジリエンス」を描く作品である。しかし、もともと物理学の弾力性、復元性をさすこの語は、ホロコーストを生き延びた孤児の内面を追跡調査する過程で使用されたそうであるから、先祖返りしたと言えなくもない。その調査では孤児の中には、過去のトラウマから抜け出せない人と、トラウマを克服し、充実した生活を送っている人との双方が存在するとした。だからレジリエンスは復元力とともに、適応力、復活力と今日では訳されているのである。

ハンガリーが舞台とは珍しい。そして、ホロコーストではハンガリーのユダヤ人も56万人がナチス・ドイツの犠牲になったと言う。家族を奪われ自分一人だけが残されたクララも、クララが自分と同じ孤絶感を感じ、懐いていくアルドもそうであった。16歳のクララは両親と妹を喪っていたが、生きていると信じたい両親宛に手紙を書いている。一方、42歳のアルドは幸せだった時の家族写真を見ることができない。アルドが写真を見ることができない理由を知ったクララは、ますますアルドと過ごす時間を欲する。しかし、ソ連の支配下となりスターリニズムがひしひしと国をおおう時代の中、収容所帰りのアルドは監視され、クララとの関係も邪推される。再び強権政治の下、息苦しい時代が再来するのだった。

頭の回転が早く、饒舌なクララと静かで寡黙なアルド。対照的に見える二人がお互いに求めるものはもちろん異性間の性愛ではない。父を喪くしたクララと、娘二入を喪ったアルド。お互いにあったはずの穴を埋めるかのように、時間の共有を大事にする。家族を喪った理由に、自分を責めるサバイバーズギルトが伺える。しかし家族の命を奪ったのはナチス・ドイツで、その理由はユダヤ人であったからだけだ。理屈では分かっていても、自分を責めてしまい、その思いから逃れられない。クララもアルドもずっと喪失を生きるのだろうか。二人の内面を丁寧に描くことで、平々凡々に生きる現代の私たちに(戦時)トラウマへの想像力を喚起する。逝かされてしまった家族に対し「残された」人たち。「残される」とは生き残ったことであるのに、なぜか喜べず、今や社会主義へと国家が変転する中でも再び時代から「残される」。時代が、国家が、小さな個々人を翻弄する物語と言ってしまえば簡単だが、一人ひとりの物語こそ歴史を作ってきた。クララやアルドのトラウマに気づかず、見捨てる世界は、また同じ過ちを繰り返すだろう。

数年後スターリンの死を伝えるラジオ放送にクララの婚約者は歓喜する。これで自由が来ると。そこにはアルドの再婚相手もいる。二人ともレジリエンスに成功したのだろうか。しかし、その数年後ハンガリーの民衆は自由を求めて蜂起したが、瞬く間にソ連の戦車に踏み潰された(「ハンガリー動乱」、1956年)。ソ連崩壊によって民主化したはずのハンガリーでは、現在、オルバーン・ヴィクトルの強権政治にさらされている。オルバーンは反移民を唱え、独裁者のプーチンに接近し、国際協調主義のEU批判を繰り返す。21世紀のクララやアルドが生まれないために、そして、現在も何らかのトラウマを抱える人たちと伴走する社会でありたいと考えさせられる作品だ。

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ついに完結 日本いや世界で一番リーメンシュナイダーを撮った『完・祈りの彫刻』

2020-12-21 | 美術

私のリーメンシュナイダー巡礼の師匠福田緑さんが4冊目を上梓し、完結した。今回は3冊目に続いて同時代の作家も多く取り上げている。もちろん知らない作家ばかりだ。しかし、リーメンシュナイダーを見出した福田さんの慧眼は同時代の作家にも及んだことがわかる。そう、福田さんのレンズから逃れることはできないのだ。そしてそれらの多くは、教会など宗教施設に収蔵され、今も祈りの対象となっていたりする。私も訪れたことのあるドイツはクレークリンゲンのヘルゴット教会に座する「マリア祭壇」は圧巻であった。

今号ではまずリーメンシュナイダーの作品を「聖母の手」「息づく手」といった各々の作品の魅力的なパーツから紹介、分類しているところから始まるのが面白い。これは勝手な想像だが、2019年11月に開催された「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」展(ギャラリー古藤)https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/352a04fba9248de9ae20e0f7d1f13c0f)で永田浩三さんが、リーメンシュナイダーは手(の彫刻)が素晴らしい旨話されたことと関係があるのではないか。そういえば、私もリーメンシュナイダー・ファンの端くれとして彼の作品は眼や顎など顔を表情から遠くから見つけることができるが、手の出来栄えも見極める重要なファクターだと思うからだ。もちろん、私には見極められないが。ところで、聖母子像では彫刻であろうと絵画であろうと幼子イエスはマリアの左側(向かって右側)に頭部がきて、マリアを見上げるように抱かれているのがお決まりだが(もちろん例外はある。例えばリービークハウスの聖母子像(9頁〜))、この体勢ではマリアから見ると左下に視線を向けていることになる。この理由を西洋美術がご専門の先生に尋ねたことがある。先生は例外もあるとした上で、キリスト教絵画では構図的に、右側が重要あるいは聖性が高く描かれることが多く(例えば、ミケランジェロの《最後の審判》では右側に救済された人、左側は地獄に堕ちる人)、そういった意味もあるかもしれないが、ルネサンス期より以前、ビザンチン美術では正面にイエスを座らせている構図が多いと紹介された。私見では遠近法が確立された初期ルネサンス以降、絵画ではもちろんのこと、彫刻の世界ではもっと以前から写実的な表現は格段に進歩していたであろう。そして抜きん出た技量の持ち主であるリーメンシュナイダーは、どのような構図にすればその聖性が伝えられるか考え尽くしたに違いない。そしてそれはマリアとイエスとの位置のみならず、全体としての構図が祈る者をしていかにドラマチックに迫ってくるかを表現したと思える。

リーメンシュナイダーを「抜きん出た」と記したが、今回紹介されている同時代の作家も味がある。例えばミヒェル・エーアハルトの聖母子像(バイエルン国立博物館 139頁〜)やペーター・フィッシャー(父)の「いわゆる「枝を折る人」」(同 174頁〜)など。あるいはエラスムス・グラッサーの「モーリス・ダンスの踊り手」(ミュンヘン市立博物館 153頁〜)は楽しい。しかし、これらの作家の作品のいずれもリーメンシュナイダーの峻厳な表情彫刻にはかなわないように思える。ただ、リーメンシュナイダーの凄さを実感できるのは、ここで同時代の作家たちを多く取り上げ、細かに紹介されているからできることで、自分の不勉強を棚にあげてなんだが、多くは名前も覚えられず見過ごされてきた可能性も高い。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)禍のため、福田さんは今年予定されていた第二回目の写真展を開催できなかったという。リーメンシュナイダーのこととご自分の撮影作品には妥協しない福田さんのことゆえ、きっと開催を成し遂げられることと思う。私自身も行けるどうなるか分からないが、とても楽しみだ。

(『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』丸善プラネット 2020年11月)

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視線の勝利と男性像の不在  「燃ゆる女の肖像」

2020-12-18 | 映画

必要があって、戦後数年間の美術雑誌を繰っている。例えば『芸術新潮』では巻頭グラビアの最後の「期待する新人」ページはたいてい女性だ。『芸術新潮』なので画家ばかりではなく、役者や舞踊家などもあり、女性の比率も上がるがその女性重視は明らかだ。一方、画家や作家など「女流」が付くのは時代を感じさせるが、2020年の現在、冠側も問題だが、メディアでは今だ棋士など「女流○○」と書いている。60年経っているのに何も変わっていない。

その200年数十年前、フランスはロココの時代、1770年頃、ブルターニュの孤島での旧家の令嬢がイタリア・ミラノに嫁ぐための肖像画を依頼された「女流」画家が島を訪れるところから始まる。画家は生徒を抱え、実力も十分であるのに、自分の名前では出品できず父親の名で。島の娘は、姉が嫁ぐことになっていたが、それを拒んだ姉は自死。妹が急遽、ミラノへ嫁ぐことになることが決まっているのだが、抗うかのように嫁ぎ先へ送る肖像画を描かせない。画家としてではなく、散歩友だちとして現れた画家は、次第に親しくなるが、完成した絵を前に令嬢は「私に似ていない」。描き直しを約束して、母親の不在のとき、濃密な時間を過ごした二人は恋に落ちる。

しかし単純な同性の恋愛物語ではないと思える。画家と令嬢と召使いの女性は、母親不在の間、階級を超えて親しく過ごす。そこにはシスターフッドも見(まみ)えるし、召使いが望まない妊娠して堕胎する場面の後では、村の女が総出で歌う様が描かれる。圧倒的な男性の不在だ。画家の父も、令嬢の婚約相手も、召使いの相手も登場しない。描く必要がないからだ。そこで明らかにされるのは、男性がいない社会でも完結する物語ということだ。あるいは、種(馬)の役目しかない男性が、その役目以上に偉ぶる、いや、社会構造を支配している不均衡と差別性を衝いているのだ。

ストーリーは狭い島内での数日間の、少ない登場人物の、しかも台詞の少ない視線の交わりだけであるのに、なんと緊張感に溢れ、スリリングであることか。それは世界を描くということは、愛を描くということで  実は時代的には同性愛は許されなかった、もちろんキリスト教世界観の中では当然  自立した個の意志とは、愛を描くことで、男性優位やロマンチック・ラブ・イデオロギーも包含する、決まり切った世界に対する別の世界を描いたのではなかったか。固定観念からの解放や、視線こそが真実に近しいという意味でフェミニズムである。

ロココの時代の女性画家といえばマリー・アントワネットに寵愛されたヴィジェ=ルブランが思い出されるが、父や夫の後押しで宮廷に入り込み、同年でフランス文化に戸惑っていたアントワネットと親しくなり、破格の出世をしたとされる。あるいは、印象派の時代には、マネのモデルをつとめ、後にマネの弟と結婚した後は制作がしぼんだベアト・モリゾ。いずれも「父の娘」「夫の妻」といった実際と評価が付いて回る。本作では時代的に女性が職業生活の中で生きるのに不可分な男の影が一切ないことが革命的だ。

カンヌでパルム・ドールを受賞した女性監督セリーヌ・シアマの映像はただただ美しい。先に視線に触れたが、主演の二人、画家マリアンヌ役のノエミ・メルランと館の令嬢エロイーズ役のアデル・エネルの表情演技も素晴らしい。女性が自立を目指さなかった時代などないのだ。

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「分断」と「熱狂」の背景を知る 『アメリカ大統領選』

2020-12-15 | 書籍

2020年のアメリカ大統領選は民主党のジョー・バイデン氏が制した。ドナルド・トランプ現大統領は選挙に不正があるとして、法廷闘争などを続けているが、大勢は変わらない。しかし、選挙不正といった完全に陰謀論に見える主張にトランプ支持者は熱狂し、各地で抗議運動が続くという。なにせバイデンが史上最多の8000万票を獲得したとはいえ、トランプも7400万票も獲得したのだから、それだけ支持が厚い証拠だ。また、日本にもこの陰謀論の乗っかり、不正選挙だとトランプ支持のグループがいるから驚きだ。ところで、トランプという人物は、国際協調主義に真っ向から背を向ける政策からして支持できないと考えていたが、その人物の発言に見える品性、様々なセクハラ疑惑、脱税、金儲け以外に興味がない風情といった人格であるのに、なぜここまでアメリカ国内で支持されるのか不思議であった。トランプ支持のラストベルトの人々を、住み込んでまで取材した金成隆一記者の連載(『ルポ トランプ王国 もう一つのアメリカを行く』(岩波新書2017年)、『ルポ トランプ王国2 ラストベルト再訪』(同2019年))でその実態が分かった気がしたが、それが大統領選という次代の命運を決める大切な行動にどう反映されているのかも本書で明かされる。

まずアメリカ大統領選の歴史的経緯と今日の2大政党制の成り立ちが語られる。南部を基盤に奴隷解放に反対した民主党にはもともと白人層の支持が高かったこと、それが黒人層や白人以外の人たちに対する平等政策を掲げて、民主党支持層が増えたこと、反対にキリスト教原理主義に重きを置く政策で、白人層が共和党支持になったことなど。現在でも基本的構図はそうであろうが、中南米からの移民がカトリックであり、民主党の中絶擁護に反感を持って共和党支持に流れたことなど、フロリダでの共和党勝利の背景も明かされる。多様なアメリカか、2色(シンボルカラーである民主党の青、共和党の赤)のアメリカか。それはグラデーションの部分もあるだろうが、分断は深い。支持層の学歴、職業、地域できれいに別れる。非大卒の白人ブルーカラー男性なら共和党、大卒で移民ルーツを持つ都会のホワイトカラーは民主党。バラク・オバマを押し上げた層は後者でそれが勝利をもたらしたが、トランプの支持層は、そういったインテリ風情を嫌った。「上から」目線だというのだ。地球温暖化や核廃絶より、目の前の仕事がなくなる事態をどうかしてくれ、自分で頑張らないやつにまで福祉を施すから(オバマ・ケア)、自分たちが苦しいのだと。そこにはもともと分断の要素があった諸政策に対する態度がトランプ以前からあったのだ。しかし、トランプはそこを口汚く煽った。そしてその煽り方にゼノフォビア(外国人嫌悪)、マチズモ(男性優位主義)そしてセクシズム(性差別主義)が顕著にある。それらをひっくるめてレイシズムやヘイト言動に結びつけたのだ。それは、差別はいけないが区別はいいといたったレトリックを超えて、自身の立場を守るためには差別も許容するといった、いわば民主主義そのものを否定する倒錯した論理が見えるが、そこまで追い詰められた結果と言えなくもない。つまり、自分さえよければ、なのである。ここにトランプの一番好きな言葉、そして自分には受け入れられない言葉「負け犬」と、なんでもディール(取引き)に帰する極端な個人主義の発露が見られる。

けれど、そういった個人感情だけで7400万票は説明できないと思う。本書では、予備選会場を回り、支持者の声を拾う。あのファナティックなトランプ支持者に普通に話してみると、冷静で穏やかな人たちという。そう、煽る者がいるからファシズムは進行するが、煽られたことを自覚しつつ、行動する人がいるから完成するのだ。あのトランプ支持の熱狂は、どこか冷めた現代人が自己の欲望を激化していると見せたい「祭り」なのかもしれない。しかし「祭り」の後は、大抵傷つく人が出て、あたりはゴミだらけ、その再生に時間がかかるものなのだ。(『アメリカ大統領選』久保文明、金成隆一 岩波新書 2020年)

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物語で知るナチス下フランスの村の話 「アーニャは、きっと来る」 

2020-12-02 | 映画

原作は児童文学だそうである。しかし訳者も評しているとおり、内容は決して「子供だまし」ではない。12歳の牧羊見習いの少年ジョーから見た戦争。そこには大人なら知っているユダヤ人差別やナチスの非道について、都市から遠く離れた農村だということもあり、彼は知らない。スペインとの国境ピレネー山脈の小さな村レスカンにもナチスの手は伸びて来る。駐留するドイツ軍は割と友好的だ。穏やかで村人とも対等に付き合う伍長ホフマンと仲良くなり、一緒に鷲を見に行ったりする。しかし、羊を追っている時熊に出会い、逃げた山中娘と別れて、今はユダヤ人の子供をスペイン側に逃そうと計画するベンジャミンと出会うことで、人生が変転していく。ベンジャミンを匿っている村はずれの偏屈バアさんオルカーダに食料を運ぶ役を引き受けることになるのだ。やがてジョーの頼りになる祖父アンリ(実はオルカーダをずっと好きだった)、捕虜となっていた父ジョルジュも還って来て、村をあげてユダヤ人の子供を助けようとする。一方、ベンジャミンは強制収用所送りになるところをすんでのところで逃れさせた娘アーニャとの再会を待っている。

登場人物が分かりやすい。日々成長するジョーと仲の良い多動の少年ユベール、子供らを羊飼いに化けさせ山越えを発案するジョーの母リーズ、教会の神父、冷たい雰囲気と貫禄のナチスの中尉など。それぞれの役割が明確で、個々の微妙な心の揺れが詳しく描かれるのはジョーとホフマンだけだ。冷酷無比の権化とされるナチス将兵にこんな人間臭く、おおらかな人がいるのかと思うが、人間は一様ではない。ジョーも未熟な羊飼いだが確実に成長していく。

実話ではなく、創作なのでどうとでも描けると言ってしまえばそれまでだ。しかし多分、実際未熟な目から見た戦争の実相は必ずあり、冷酷だけではなかったナチス将兵もいただろう。事実フランス側から中立国スペインに農民らによって逃れたユダヤ人は7500人に及ぶという。近年のナチス映画では、一市民がユダヤ人を匿ったり、助けたりする作品が多い。「ソハの地下水道」(2011)、「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」(2016)、「ユダヤ人を救った動物園」(2017)など。いわば市井の小さな人、小さな話から人を助ける、それも逃れられない死が待っているユダヤ人を救うという物語へ。小さな物語の積み重ねと、普段からその物語の準備という精神性と差別を許さないという批判的視点。その積み重ねが次代のホロコーストやジェノサイドを防ぐのだという思いでフィルムは作り続けられているのだろう。

作中、レスカンの村人が第1次大戦を「グレート・ウォー」と呼び、ナチス中尉が、否定し「現在の戦いがグレート・ウォーだ」という下りがある(フランスが舞台なのに会話が全て英語というのはさておき)。ドイツにとっては第1次大戦の屈辱が、究極の排外主義ナチスの伸長を許したとの歴史的解説がなされるが、過去の戦争をどう評価、命名するかという課題は、再びその惨禍を引き起こさないという人間に普遍的に課された宿命とも思える。

そして、ジョーも一家も、ユダヤ人の子供らを助けるモチーフとなった羊(飼い)は、言うまでもなくキリスト教における犠牲の象徴である。

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「ブラック・ライブズ・マター」運動の背景を知る  「フライデー・ブラック』

2020-11-25 | 書籍

ハリウッド映画の謳い文句「全米が震撼」とか「全米で絶賛」をとかく胡散臭く思っていたので「全米」で賞賛、人気とされるアフリカ系アメリカ人作家ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーのデビュー短編集もそういった評を先に見たら手に取らなかったかもしれない。しかし別のところで人気に触れない書評を読んでこれはと感じるものがあった。

表題の「フライデー・ブラック」と「アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」」はどこかのモールの一角を占めると思しき大きなファスト・ファッションの店舗。店で一番売り上げる「俺」は、同僚の手管を冷静に分析・観察し、死人まで出るバーゲンの乱闘をこれも静かに描写する。妻や家族に無理やり付き合わされてきたファッションに興味のないオヤジをその気にさせ、最後には彼が予定していたのよりかなり高いジャケットを売りつける。その日の売上の多寡を同僚と話す「俺」のそばには死体が転がっている。

冒頭の「フィンケルスティーン5〈ファイブ〉」では、黒人少年少女らに脅かされると感じ、5人の首をチェーンソーで切り落とした白人の陪審員法廷で彼の「正当防衛」が認められる様を描く。その法廷を横目で見ながら自身の「ブラックネス(「黒人度」とも訳すのだろうか?)」を低めて、白人が大勢いる乗合バスで目立たないようにするエマニュエル。

エンタテイメント・ランドのVRゲームコーナーで強力な戦闘服を身にまとい、斬り殺し、斬り殺される体験を繰り返す「ジマー・ランド」。あるいは学校で繰り返される銃撃事件がスポーツよりニュース価値が低い現実に、銃撃事件の現場を体験した誰もがどこか冷めた描写を繰り返す「ライト・スピッター   光を吐く者」

血と暴力と無感動にあふれていて、主人公とまみえる登場人物の誰もが自分ごととしての体験の重みを感じさせない。「ブラック・シュールレアリズム」という範疇の作品であるそうだが、シュールであるのは間違いない。しかし、実はその異様さも含めてアメリカの今を語るレアリズムそのものではないのか。加害者が白人、被害者が黒人の場合、白人に有利な陪審員裁判。「消費される」と形容されるほど頻繁に起こる銃撃事件とそれに慣れているほど進まない銃規制。大量消費社会を象徴するモールでは競争で斃れていく人間には無関心。ゲームが先か、現実が先か不明なほど切り分けも難しい殺傷の連続とそれがもたらす愉楽。

ブレイディみかこは「シャープでダークでユーモラス。唸るほどポリティカル。恐れ知らずのアナーキーな展開に笑いながらゾッとした。」と評する(書籍オビ)。そう、非現実であるからこそその格差と不条理がユーモアに描かれるのにも惹かれる短編の数々は、実はアメリカの現実の断面をそれぞれ切り取っているからこそポリティカルなのだ。

小説とは文字・文節など言葉で勝負するエンタテイメントではあるが、同時に今ある社会をどこまで非現実的に現実化するかが問われる知的作業でもある。その語りの向こうに流れる告発性と客観性こそ読み取らねければならないという読み手が問われる作業にも快感を覚える。同時に、現在バイデン新大統領が掲げる分断の収束に必須の要素、ブラック・ライブズ・マターの原因を垣間見たような気がした。

(『フライデー・ブラック』は押野素子訳、駒草出版刊 2020)

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映画公開で改めて痛みを知る 『82年生まれ、キム・ジヨン』

2020-11-04 | 書籍

出版されて瞬く間に評判となり、気にはなっていたが、今回映画も公開されたので読んでみた。

毎ページ、読んでいてこれほど痛い物語はない。そうキム・ジヨンを取り巻く男性社会、韓国社会からすれば全部些細なことだろうけれど、それらが全部とてつもなく痛いのだ。彼女の心に、人生に刻み込まれる「女性ゆえに」というスティグマ。しかし大きく「女性ゆえに」と括ることもできるが、キム・ジヨンは「女の子ゆえに」「女子学生ゆえに」「女性社員ゆえに」「息子の妻となる女性ゆえに」「妻ゆえに」「母ゆえに」とずっと彼女自身が「私」を規定することは許されず、常に身近な人たちが、周囲がキム・ジヨンを規定してきた。それをなしたのは儒教的価値観の強い男性社会はもちろんのこと、彼女を日常から支える良き家族・親族、友人、隣人も含まれる。周囲は言う。「キム・ジヨンのことを思って言っている。」それがキム・ジヨンをして離人症でカウンセリングに通うことになるほど、彼女を蝕んだのだ。

キム・ジヨンの母親は男を生まないと責められ、キム・ジヨンとのその姉とで女の子が続いた後、次の妊娠が女の子と分かると中絶させられる。キム・ジヨンの4歳下に男の子が生まれると祖母は本当に可愛がり、甘やかす。キム・ジヨンが高校生の時遠い塾へ通っていたバスで男子高校生のストーカー被害に遇う。なんとか逃れて父親に迎えにきてもらったが「お前の服装が問題だ」。大学に行ってやりたかったことがあったのに、家から通えるソウルの私大へ。女が学問ややりたいことを目指すべきではないと(弟のために家に負担はかけられない。)。彼ができたが、韓国の男子は兵役がある。兵役に行かない女子は楽してる。就職面接では落とされまくり。やっとの思いで就職できた職場では新卒女子がお茶を入れるのが当たり前。他の仕事が新卒男子より軽減されているわけでもないのに。結婚した夫は家父長制の権化でも暴君でもなかったが、祝祭で夫の家には行くのに、キム・ジヨンの家に行くわけではない。そして義父母の家では召使いのように走り回り、ゆっくり自分の食事もできないのに「男の子を生めない嫁なんて」。万事がキム・ジヨンを蝕んだのだ。子どものために仕事を辞めたキム・ジヨンに夫は「ぼくも手伝うよ」と家事・育児の主体意識もない。そして直接、間接を問わずキム・ジヨンに助言や意見し、小言を言う人たちは善意と慣例踏襲で悪気が全くないから、よりキム・ジヨンを蝕んだのだ。

この小説がうまく客観的なのは、心療内科を受診したキム・ジヨンの担当医のカルテの説明という構成になっていること。ここではキム・ジヨンが幼い頃から成人、結婚・出産するまでの個人史が語られている。それはキム・ジヨンが病むに至った外部的原因、影響も明らかにしている。キム・ジヨンを病気に至らしめた加害者は、その時々の周囲の人たちであり、近しい家族などであり、そして韓国社会そのものだ。

合計特殊出生率の低さでは日本よりはるかに先を行く韓国。その理由は明らかだろう。韓国で生きる女性はキム・ジヨンなのだ。しかし後に訴追されたとはいえ、日本より早く女性大統領まで輩出した。光州事件からまだ40年。軍政から民政へ急激に変容した韓国は、戸籍制度をなくし、中絶目的の出生前性別診断を禁止し、性差別禁止法を定め、法曹一元(弁護士経験を経てから裁判官になる)や陪審制度まで、日本より一歩も二歩も先を行く。しかし、その急速な民主的諸制度を支える国民の意識はどうか。制度の次は、人々の意識だ。そう鼓舞しているようにも思えるが、制度さえ追いついていないこの国はどうか。

性被害にあう女性に対するケアや犯罪対策などを話し合う会合で「女性はいつも嘘をつく」と言い放った女性国会議員がいた。当の女性議員が言うのであるからこの発言も嘘になる。うん? では女性は本当のことしか言わない? なら当該議員の発言は? 頓知問答のような世界に止まっているこの国はある意味、キム・ジヨンの韓国より病理が深いのかもしれない。

映画版の「82年生まれ キム・ジヨン」は、小説とは趣を変えて救いがありそうに見える。しかし、人生そのものが「ガラスの天井」の女性の立ち位置はそれほど変わっていないのだろう。いや、天井を目指す女性ばかりではない。私やあなたのそばにいる人がキム・ジヨンなのだ。(『82年生まれ、キム・ジヨン』はチョ・ナムジュ著 筑摩書房 2018年。映画は2019年の韓国映画 監督キム・ドヨン)

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平和があふれる言葉を紡ぎ出す  ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記

2020-10-10 | 映画

私もこのブログをしたためているように文章を書くことで、自己確認をしたり、何度も書くことにより、より上手く書こうと思うところはある。ところが、誰しも文章を書くというのは次第に上手くなればいいけれど、そうとは違って最初から読ませる、読んで引き込まれるというのもある。坂本菜の花さんの紡ぎ出す言の葉はそうだったのだ。そしてそうした言葉を編み出す背景には菜の花さんのひときわ鋭い感受性があったのだろう。

菜の花さんは北陸は能登半島の先端、珠洲市の生まれ。中学卒業後、沖縄のフリースクール珊瑚舎スコーレで学び、日々の出来事を綴っていた文章が北陸中日新聞の記者の目に止まる。「珊瑚舎スコーレで学び」と書いたが、珊瑚舎での学びは学び以上、「生きる」ことと「つながる」であった。菜の花さんが過ごした時、沖縄はやっぱり揺さぶられていた。米軍属による女性暴行殺人事件、度重なる米軍機の部品落下、オスプレイの墜落、高江のヘリパッド建設予定地でのヘリ墜落、そして翁長雄志知事が命を削って止めようとした辺野古の新基地埋め立ては進んだ。この間、住民投票はもちろんのこと、国政選挙で全て辺野古NO!の民意を示し、推進候補は全て破れたのに安倍政権は民意を一顧だにしなかった。それを「説明」し続けたのが現首相、菅義偉官房長官であった。

菜の花さんが言葉を出せるのは、よく聞くからだ。高江や辺野古で座り込んでいるおじい、おばあの話を聞く。沖縄戦が終わって75年、本土復帰して50年弱。米軍基地がどんどん集中し、米軍関係者の犯罪は止まない。95年の女子児童暴行事件を機に県民がノーと言い続け、それでも時の政権は差別の温床である日米地協定には手を出さず、「粛々と」沖縄の米軍化を進め、拡大して来た。菜の花さんが話を聞く海人(うみんちゅ)は、新基地建設に条件付き賛成と言いつつ「日本はアメリカの植民地としか思わない」とはっきり。そして基地工事が始まれば見えなくなる綺麗な海を見ていけと言う。海を見つめた菜の花さんの頬に涙がつたう。

翁長知事の意志を引き継いだ玉城デニー知事の元で行われた県民投票で72%が「反対」。しかし県民投票ができるまでには紆余曲折があった。基地賛成の保守系首長の自治体が県民投票に参加しないとしていたからだ。全自治体が参加しなければ県民投票の意味がなくなる。そこで参加してほしいと我が身を危険に晒し、ハンガーストライキをしたのが当時大学院を休学していた若い元山仁士郎さんだった。元山さんは沖縄出身とはいえ、直接沖縄戦を体験した世代ではないし、復帰運動も知らない。しかし、彼の中に差別され続ける沖縄がこのままでいいのかと言う、沖縄と自分の周囲と、そして自分自身を守り抜くと言うDNAが刻み込まれているのだろう。沖縄出身ではない菜の花さんにもそれは伝播した。(ちなみに元山さんの祖父は『証言 沖縄スパイ戦史』(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/78964418fe2fdd383eeee0d63f85876a)で「護郷隊」の体験を語った親泊康勝さん。)

「ちむぐりさ」とは、ヤマトの言葉には翻訳しづらいそうだ。「悲しい」の代わりに「誰かの心の痛みを自分の悲しみとして一緒に胸を痛めること」。沖縄に基地を差別を押し付け続けているヤマトの私たちに問われるのは、菜の花さんが感受した「ちむりぐさ」の共感と行動だろう。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。 そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(菜の花さんが映画の最後に引用したマハトマ・ガンジーの言葉)

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『ジョージ・オーウェル ー「人間らしさ」への賛歌』でオーウェルロスになる

2020-10-03 | 書籍

いつからだろうか「ディーセント・ワーク」という言葉がよく使用されるようになった。「働きがいのある人間らしい仕事」のことだが、人間らしく生きるための労働条件として、雇用の保証はもちろん、賃金や保険、労働組合活動の自由なども含む概念である。現在のSDGsの1項目にも挙げられていて、非正規雇用や外国人労働者の処遇など日本社会でも解決すべき大きな課題である。英語のdecentはいうまでもなく「きちんとした」とか「適正な」という意味であるが、『1984年』を遺作に長くはない生涯を終えたジョージ・オーウェル(本名エリック・アーサー・ブレア)のその反帝国主義、親共産主義志向を支えたキーワードが、名詞形decency、人間らしさ、であった。

上層中流階級出身のオーウェルは名門イートン校で学び、学友の多くがケンブリッジ大学に進むのに大学には行かずに植民地インドの帝国警察官となり、ビルマに赴任する。そこでの「帝国」の横暴を実際経験し、自身も現地の民に手をあげたことも。高給の警察官をやめた後は、作家になるべく様々な職業を経験し、パリやロンドンでの貧民街での暮らし、編集者やフランス語教師なども経て、「人間らしさ」を求めて、電気、ガスも水道もない離れ島に住み着き、荒れ野を一から耕したり。やがてスペインの反フランコ共産勢力に義勇軍として参加するが、首に銃弾を受けるという大怪我もあり、英国に還る。それら様々な現場での壮絶な経験が、批評家、ルポルタージュ作家として結実するが、印税で食べられるほどにはなかなかならなかった。しかし、スペイン共産党で経験したスターリニズムへの反感から生まれた『動物農場』(1945)でやっとベストセラー作家になるが、その年に彼を支えた妻アイリーンが急死。オーウェル自身も結核が進行し、病の中執筆した大作『1984年』を刊行した翌1950年1月大量に喀血し、没する。享年46歳。

「反ソ」「反共」の作家として知られるが、『1984年』で描かれる監視・管理社会は反ナチスの要素も当然ある。オーウェル自身、反帝国主義の姿勢は生涯変わることはなかったであろう。本書はそのオーウェルを『1984年』の著者というより、それを執筆するに至った彼の少年期から晩年までの行動と作品を丹念にたどる。彼が創造した近未来のディストピアは、人間を解放するはずの社会主義革命がスターリンによって恐怖政治と人民を幸せにはしなかったという経験がまずあるに違いない。そして大英帝国が対峙した究極の人種差別帝国であったナチス・ドイツ、あるいはソ連やナチス・ドイツのようにはならなかったものの、多くの植民地を有し、時に人と人とも思わない圧政を敷いた自身の国イギリス、さらに早くに王政を打倒した共和制の国であるのに労働者が底辺にうごめくフランスなどの理想と現実の大きな乖離を目にしたその総体とも言える。そこには物事を多方面から見ることのできる他者性、客観性、そして「decency 人間らしさ」を信じたある意味理想主義を捨てない強靭さと現実との葛藤が、オーウェルをして筆を進めさせたのだろう。逆説的な言い方であるが、ユートピアを信じ、そこを目指すからこそ、酷薄なディストピアを描ける。どこか、アンチエンディングで救いのない境遇に置かれた労働者ばかりにカメラを向けるケン・ローチにも通じるところがある。

ちょうどこのブログを準備していたとき、本書の書評が載った(「多様な目線が磨いた自己嘲笑力」 藤原辰史(「朝日新聞」2020.10.3))。安倍政権で勧められた数々の悪政は、『1984年』で描かれた「ニュースピーク」や「ダブルシンキング」、「真理省」など、その欺瞞、管理国家ぶりになぞらえられることも多かった。折しも、菅政権は日本学術会議から政権に批判的な新会員を指名しなかった。藤原も「暗い未来はもう私たちの現在だ、と世界各地で叫ばれ(中略)この国も、例外ではない」と記す。そして「読み終わった後、私はしばらくオーウェルロスに取り憑かれた」とも。先を越された(ともちろん朝日の書評欄と渡り合えるわけではないが)が、オーウェルロスは同感だ。(川端康雄 岩波新書 2020年)

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「私は政権に仕えているのではない。国民に仕えている」  オフィシャル・シークレット

2020-09-13 | 映画

イラク戦争の開戦要件の疑惑については、たくさん解明、論述されているのでここでは触れない。ではない。大量破壊兵器がなかったことをブッシュ政権も認めているし、イギリスも真相解明が進んでいる。しかし、アメリカが主唱した有志連合の一角を占め、自衛隊を海外派兵した小泉純一郎政権の判断に対する検証は一切行われていないからだ。今となっては、小泉首相の「自衛隊が活動している所は非戦闘地域」という迷言くらいしか残っていない(ただし、筆者も原告に参加した「イラク派兵違憲訴訟」では、違憲との名古屋高裁判決が確定している。2008年)。

イラク派兵の理不尽さは、当初から明らかであった。その理不尽さの一端を明らかにしたのが、イギリス諜報機関の一職員が見つけたアメリカのNSA(国家安全保障局)から送られた一通のメールであった。メールには国連でイラク派兵の可否が論議されている中、非常任理事国メンバーを盗聴するよう求めるものだった。これはアメリカが主導し、イギリスがそれに続くが、中国、ロシアは反対、フランスは保留とするイラク派兵への国連決議を左右する非常任理事国の動向を把握し、場合によっては圧力をかける政治的駆け引きの産物で、実際に攻撃を受けるイラク市民の現状を想像した上での判断ではなかった。イラク攻撃が国連決議されれば、無辜の民が殺される。その決議をこんな風に歪めて取ろうとしていることを知った一諜報部員は、そのメールをマスメディアに託す。困難を経て、英大手オブザーバー紙にメールは暴露されるが、待っていたのは諜報部員の公務秘密法違反の罪であった。

事実である。映画は、イラク戦争の是非ではなく、一職員の葛藤にスポットを当てる。

結局、彼女の勇気ある行動は有志連合軍によるイラク攻撃を止めることはできなかった。しかも、彼女が公務秘密法違反に問われた場合、抗弁する手立てはないという。戦争で多くのイラク市民の命が奪われていく上に、法的に彼女を助ける手立てもない。英国当局は、彼女の配偶者がクルド系トルコ人で永住権を求めていたことを逆手にとって、いきなり強制送還しようとさえする。大量破壊兵器の存在という不確かな情報だけで、イラク市民が殺されていくのを許せないと思った彼女の素朴な正義感も揺らいでいく。ところが、彼女の弁護を引き受けた人権派弁護士が、彼女の行為は「不法な戦争を止めさ、人命を救うための、止むなき事情がある」とする答弁を主張、さらに、彼女のリーク記事を載せた記者が、開戦直前に渡米し、イラク攻撃は不法としていた司法長官がその意見を180度変えたことも突き止める。起訴された第1回公判廷で検察は「裁判を続けることは税金の無駄遣い」と言って起訴を取り下げてしまうのだ。自由の身になったキャサリン・ガンの胸の内は晴れない。

雑感が2点。イギリスには明文憲法がないため、違憲訴訟というのは考えにくいと思っていたら、このような戦い方があるのだなと感心したのがひとつ。一方、「恥ずかしい憲法」だから「改憲」と騒いでいた安倍政権の退陣は決まったが、そのコピペである菅政権。こんな政権下であるからか、いや、日本の裁判所は違憲判断について極めて抑制的であることからか、自衛隊や在日米軍などに関わる訴訟で原告側が「平和に生きる権利」(平和的生存権、憲法前文)を理由に求めてもほとんど認められたことはない(先述のイラク派兵違憲名古屋高裁判決と、長沼ナイキ事件一審判決のみ。)。憲法のないイギリスの方が進んでいるようにも見えたのがもう一つ。

安倍晋三首相の内輪優遇、私利私欲優先の典型と思われる森友学園疑惑では、近畿財務局が公文書を改ざんし、その作業に携わった赤木俊夫さんは自死をもって、その事実を訴えた。しかし、赤木雅子夫人が財務省に再調査を求めているのにも、菅新首相はしないと明言。公務員の倫理とは何か、内部通報者の保護と取材源の秘匿、論点は多岐にわたるが、キャサリン・ガン氏の言「政権は変わる。私は政権ではなく、国民に仕えている。国民に嘘はつけない」は、赤木俊夫さんの「僕の雇用主は国民です」と相通じるものがある。しかし、ガン氏は生きながらえ、赤木さんは亡くなった。事実を葬り去ろうとするこの国の闇は深い。

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沖縄戦を語ることは現在の状況を直視すること 『証言 沖縄スパイ戦史』

2020-09-10 | 書籍

新書でありながら750頁の大部である。その多くを沖縄戦を体験した人たちの証言に割く。中でも戦況も芳しくない1944年9月に沖縄で配置された秘密部隊、第一、第二護郷隊に動員された少年兵らの証言が多く占め、その実相を明らかにする。少年の年齢は15〜17歳。その任務は遊撃隊としての活動、即ちスパイ活動である。まだ中学生くらいの年齢の少年に戦闘員としての射撃や擲弾筒の技術のほか、スパイ、テロ、ゲリラ戦・白兵戦の訓練を短期間に課した近代戦争の歴史上類例のない秘密作戦であった。秘密であるから資料は少ない。そして正規の軍人ではないから戦後の補償も一切ない。著者はこの数々に明らかにされてきた沖縄戦の歴史の中での空白を体験者の証言を通して一つずつ繙いてゆく。

護郷隊を指導、指揮したのは陸軍中野学校を出たばかりの22、23歳の青年将校や下士官ら。中でも第一護郷隊長村上治夫と第二護郷隊長岩波壽(ひさし)は少年らの尊敬と羨望を一手に集める陸軍の超エリートにて優れた指導力の持ち主だったようだ。帝国陸軍には「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が絶対であるほど、敵に囚われるような事態になれば自刃しろとの定めがあったが、スパイは囚われてからの行動こそその真価を問われた。であるから「死ぬな」というのが絶対的命令であったというのが皮肉だ。村上隊長と岩波隊長は性格的に動と静、行動型と沈思黙考型と正反対のようだったが、いずれも少年らの信頼厚く、戦後は二人とも沖縄に通い、慰霊と追悼、元少年兵らのへの気遣いなど、二人を非難したり、悪く言う人は少ない。著書の三上智恵は考える。この二人の戦争責任を問うには、「悲惨な沖縄戦」や「捨て石にされた沖縄」と言った通り一遍の言説だけで説明はつかないと。わずか15歳ほどで戦場に放り込まれ、死んでいく仲間を嫌という程見た一人ひとりの思いを聞き取ってこそと。

しかし、いくら元少年兵らが二人の隊長を「立派だった」と評しても、戦場が過酷であったことには変わりない。そこには、沖縄ゆえの地域的特性、すなわち日本軍がそもそも沖縄の人間を信用しておらずスパイ視する素地があったこと、実際、米軍が上陸し、敵軍との攻防は眼前で展開される喫緊、実際にある事態であったことなど。本書では皇軍兵士に敵軍のスパイとして殺される沖縄住民らの実態も明かされる。そして、スパイを征伐したと褒めそやされる「敗残兵」や、スパイ視されてあわや殺されかけた少女など。しかし、凶暴な敗残兵も、スパイリストを作成し住民殺戮を指導した兵士も、別の側面からは尊敬され、愛された存在であったことも明かされる。人間の多面性と簡単には分析できないが、多くの善良な男子が、中国その他侵略した地では、悪魔と化したことと同根であるかもしれない。戦地、戦場は人から善良さを奪い去ってしまう事実。

ただ、著者も押さえておかなければならないとする。「戦争末期とはいえ、(護郷隊創設という)こんな法も道義もかなぐり捨てた無茶な作戦を当時の大人たちが東京(=大本営)から平然と下命したことに驚きを禁じ得ない。間違いなく日本戦争史に残る大きな汚点」で「大本営の過ちは厳しく追及されるべきである」と(330頁)。ところで、著者は証言者の隊長、下士官、正規の軍人らに対するアンビバレンスな感情を丹念に拾い上げるとともに、指導した隊長や住民虐殺に関わった軍人らの責任についても言及するが、そういった皇軍が本源的に内包していた不合理性、住民は守らないのは国(体)を守るため、と言う構造としての責任にはあまり触れない。いや、著者が明らかにしたかったのは、一人ひとりの兵士そのものが死ぬために戦地に赴くという絶対的な不合理性、そのようなことはあり得ないが、生き残るのは天皇のみと言う非科学性への射程ではない。しかし、天皇制軍国主義の思想では、合理性や科学性は捨象される。ここでは住民は人としてではなく、武器・弾薬と同じ消耗品であったことを明らかにすることによって、著者の立場を明らかにしているのであろう。現に、沖縄戦の最中、本土でも護郷隊の計画が進んでいたことも著者は調べ上げている。

本書を読むきっかけは三上と大矢英代が共同制作したドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(2018)を見たことであった。大矢はマラリアが蔓延して危険な地であることが分かっている波照間島に住民を強制疎開させ多くの犠牲者を出した事件、強制疎開を指揮したのもまた中野学校出身者であった、も認めている(『沖縄「戦争マラリア」 強制疎開死3600人の真相に迫る』あけび書房 2020)。こちらも併せて推薦したい。

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希望は届かなかった手紙の束に 『オルガ』

2020-08-18 | 書籍

小説は多分あまり読まない方なので、たまたまそう感じたのかもしれないが、翻訳ものの語りにとても惹かれる。カズオ・イシグロがノーベル文学賞を取ったので『わたしを離さないで』を読んでみたが、抑揚感の希薄な語りが素敵だった。それでいて引き込まれた。ベルンハルト・シュリンクの『オルガ』(松永美穂訳 新潮クレスト・ブックス)は映画にもなった『朗読者』(映画邦題 愛を読むひと)以来だが、やはり淡々とすすむ語りにまたしても夢中になった。

主人公オルガは、ドイツ東北部ブレスラウ(現ポーランド)で生を受けるが、幼くして両親が発疹チフスで死去。祖母に引き取られ、ドイツ北東部に移るが祖母がスラブ系でなくドイツ系の名前に変えようとするが頑として拒否。祖母とはソリが合わず孤独な少女時代を過ごすが、貧しい中勉強を教えてくれる教師に出会い、師範学校に進学でき、学生寮にも入れる。教師になったオルガは農園主の息子で幼馴染のヘルベルトと恋に落ちる。しかしドイツ帝国の威信を体現したいヘルベルトは外国に出征し、北極圏の探検に命を懸け、オルガのもとにいない。ここまでは貧しさ、拭いきれない孤独感などのハンディがありながら人一倍の努力と独立心で自立を果たした女性の物語。しかし、これは3部構成の第1部。第2部で老いたオルガに可愛がられ、親子以上に年の離れたオルガに寄り添い続けたフェルディナントのオルガとの思い出が語られる。そして第3部ではフェルディナントが、オルガがヘルベルト宛に送ったもののヘルベルトのもとに届かなかった大量の手紙を読み、オルガの本当の思いを知るというもの。

切ない。みなし子ではないとはいえ唯一の肉親祖母とはソリが合わず、ヘルベルトと妹のヴィクトリアとは幼い頃あんなに仲よかったのに、年頃になり、ヘルベルトがオルガとの結婚を望むようになると身分違いを理由にヴィクトリアはオルガを徹底的に差別、妨害する。教職を得て安定した生活であったが、ヘルベルトはいつ戻ってくるかも分からない。そして不十分な装備のまま極寒の地に出かけついに帰って来なかった。いつも孤独だったオルガ。そのオルガが支えた、いや、支えられたのは同僚の養子である幼いアイクの成長を見守られたことと、耳が聞こえなくなって教師を辞め、お針子として勤めていた家の息子フェルディナントと交流できたこと。しかし、オルガを支えていたのは二人の男の子と過ごせたことより、ヘルベルトへの変わらぬ思いと膨張する帝国ドイツへの不信感だったのかもしれない。

だが、ドイツ帝国の膨張政策になんの疑念も持たず、他国との戦争に出かけ、武勲をあげ、次第に極北探検家として夢を大きくするヘルベルトこそ「帝国」=男像の権化であったのかもしれない。あんなに慈しんだアイクは成長するとナチ党を信奉するようになり、ナチスドイツでは非道な指揮官となっていく。

二つの大戦を経験し、時代に翻弄されたと書けば簡単だが、オルガの周囲はその時代の流れに敏感な者と鈍感な者のグラデーション。そして多分オルガの孤独の正体は、「帝国」「ナチスドイツ」「男の」と言った大文字のはびこる時代と、それに反する声も粗雑に聞こえたことへの違和感ではなかったか。そしてオルガが貫いたのは、帝国を帝国たらしめたビスマルクへの拒否の態度であった。オルガの立ち位置は子どもの頃から何も変わっていない。大文字が時代ごとに変わり、貧しい者、持たざる者を差別し、排除し、そしてまたその対象を作り出していく。オルガの賢さ、敏感さが清々しいとともにやはり切なくて、淡い読後感を伝えられなくてもどかしい。

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まず疑う、そして考える 『わかりやすさの罪』(武田砂鉄)

2020-08-13 | 書籍

例えば東京に行って居酒屋で一杯やっていると隣の常連さんが話しかけてくる。どちらから来ましたか?「神戸です」と言うと、「ぼく、神戸好きなんです。神戸いいですよね」と言われる。ひとしきり神戸の美点を並べて「神戸の人はどうですか?」と訊かれて、「はあ、145万分の一なんで」と答えると、怪訝な顔をされて、もうあまり話しかけられなくなる。

くどいがもう一つのエピソード。職場で自己啓発セミナーに入れ込んでいる人が一度来てみてと誘ってくれ、好奇心とかで行ってみて、講師が決まり切った内容で話を進めて「あなたは、この時こうしますか、こう考えますよね」と振ってきたので、「でも、前提がそうじゃない場合もありますよね」と返した時の講師の絶句した表情。

武田砂鉄さんは『紋切型社会−言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社 2015)の時からあまりにも同意点が多いので、いつか著書を紹介したいと考えていたが、武田さん自身がそういった安易な同意を好んで書いたのではないであろうことは「容易に」想像できるので書くのを控えていた。それくらい武田さんは答えを安易に求めない、そもそも答えがあるかどうかも分からないことを良し、としつつ答えを探さない。そして、答えを求める自分て、なんなのだと。

ややこしい。面倒臭い。共感しづらい。全部、本書への賛意のつもりだがそれも無用。本書への賛意は多分いい。しかし、それで武田さんの主張するところを分かったような気になってもそれは武田さんの思うところでもない、多分。あるいは、武田さんの“金言”の数々、例えば「「違和感」というテーマについて。全員が「共感」してくれたという理由で提出してくれる感じってなんだか怖い。齟齬がない。混在がない。」(206頁)、「いちいちしっかりと考えることを放棄してはいけない。それを人に言うと、あるいは、こうして書き記すと、たちまち説教っぽくなる。わかってるよそんなこと、と返される。でも、それを言わないと、「雑」がはびこってしまう。」これにはこう続く。「雑でいいんだよ、言いたいことを言っちゃえばいいんだよ、と公権力が率先してバラまいていく。」ここは「あいちトリエンナーレ2019」における河村たかし名古屋市長の発言や、関東大震災での虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式での追悼文を送らなかった小池百合子東京都知事の記者会見での発言とそれらを考察している項だ。このブログでは「あいちトリエンナーレ」での「表現の不自由・その後」が展示中止になった追い込まれた件でも書いているので(『公の時代』と『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』をどちらも読むことをお勧めする 

https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/843625f1057f5bf5c0062b8898e2fb0c)、ここでは、武田さんが河村たかし名古屋市長のずさんな言説とその影響などを詳しく解読しているので取り上げたいと思う。河村市長は展示について、「日本人の心を踏みにじるようなもの」と決めつけた。さらに「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれ(表現の不自由展の展示=ブログ者注)を認めたように見える」と言ったが、武田さんは「この論理でいけば、図書館に所蔵されている本は、すべて行政の指針に準じていなければならない」と指摘しつつ(226頁)、「公的なお金が出ているから、その意向に沿わないことをやってはいけない、という考えってあまりに危険だ」。至極真っ当である。しかし河村市長のような、戦略的「雑」な主張はメディアやSNSで増幅され、検証されることもない。だからこそややこしい、雑と正反対に場にある「複雑」を厭わない議論が必要なのだ。

なぜ雑(な議論展開)を欲するのか?分かりやすいテーゼに落とし込むのか?それは、例えばテレビのテロップや週刊誌のリードで引き付けるためのテクニックという部分もあるだろう。しかしそれで何か伝わったのであろうか?伝えたいというそもそもの複雑さを自ら捨象している怠慢ではないのか。言葉を操る職業人として。いや、言葉を発するメディア側の責任でもない。それを疑問と思わない「分かりやすさ」に慣れ、欲する受け手側の問題でもあるのではないか。それは、武田さんはさすがに大上段が苦手そうなので、述べていないが、すこぶる民主主義とその練度の問題である。

関東大震災で虐殺された朝鮮人への追悼文の送付を断った小池百合子東京都知事は、政策的に明確、都民の納得できるような説明もなく、新型コロナウイルス感染症対策として頻繁にテレビに登場し、カタカナ語を乱発して、都知事選でも政策論争を一切拒否して再選を果たした。都民有権者はテレビ出演とカタカナ語のわかりやすさに投票したのかもしれない。問われているのは「わかりやすさ」なのではない。それを許し、はびこらせた一人ひとりなのだ。と思う。(『わかりやすさの罪』は朝日新聞出版刊)

 

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