kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

理想との距離、「近代」との距離   ロトチェンコとステパ-ノワ「ロシア構成主義のまなざし」

2010-07-19 | 美術
ロシア構成主義というと、勘違いしていたのはマレーヴィッチのシュプレマテズムの亜流と勝手に思っていたからだ。むしろ、マレーヴィッチはロシアの農民像にこだわったかに見えるのに反し、構成主義はそのようなロシアの現実(革命ですぐに貧農層が救われたわけではもちろんない)は別にして、いわば「新社会建設のため」という理念先行のようにも見える。
構成主義のはじまりとされるタトリンは、タトリンタワーで社会主義(共産主義)の力を表現、証明しようとしたが、理想と現実は別である。タトリンタワーが社会主義の勝利として完成すれば、それはそれで納得がいくが、それは所詮「理想」にすぎない。というのもまた、この時代の社会主義のあり方を示すものとも言える。なぜなら、政治課題として「社会主義的」なるものは、ソ連がどうであれ、北欧やその他ヨーロッパにおいて現実化されているのであり、芸術の力を借りたから成就あるいは成しえなかったのとは違う局面ではたらいているのである。構成主義が革命の現実化をいくら理想としようとも、タトリンやここで紹介するロトチェンコも社会主義プロパガンダとしての役割であったとしても、今は芸術性と社会性の様々な局面でだけでしか評価されるにすぎないからである。
前置きが長くなってしまったが、本展はアレクサンドル・ロトチェンコとその制作のパートナー、伴侶であったワルワーラ・ステパノーワを紹介する日本ではじめての本格的回顧展である。いつも気になるのは、男性の芸術家の伴侶やパートナーであった女性はいつも男性の付け足しみたいに扱われることだ。業績や作品で仕方ない面もあるが、ステパーノワとロトチェンコというふうには紹介されないのが、男女平等であるはずの社会主義でも解せないところだ。カンデンスキーとミュンターとか、モディリアニとジャンヌとか、対等に扱われる、あるいは男性芸術家なくして紹介されることなどあるのだろうか。
少し脱線したが、ロトチェンコの仕事は、具象から抽象、多彩から幾何学的、耽美主義から実用主義とどんどん合理主義化していく。もちろん革命が近代の産物であるとき、その合理性は必然であって、同時に、デザインにおける虚飾の排し方は近代デザインの使命を証明するのかようで心地よい。しかもロトチェンコのデザイン、工芸、建築的発想は、理想主義的、現実化に距離はあったとはいえ、「近代」を知った人類が等しく生きていくためのグランドデザイン的発想に満ちていたことこそ評価されるべきである。ロトチェンコのようにロシア革命(社会主義)ゴリゴリでこれまで紹介、評価されなかった人に比べて、大きく日の当たってきた(と筆者は思う)リートフェルトなどのオランダはデ・ステイルやル・コルビジェなどの仕事と比べても、その人に対するまなざしは十分「人間的」である。
一方、3次元を2次元で表現し、また2次元の仕事をしなくなったロトチェンコは市井の人の営みを写すのが趣味の写真家であったともいう。ロトチェンコのフォトグラフは、社会主義を離れてプレッソンよりも早く、人間の姿を切り取って見せた。それはそれで興味深いが、理想に燃えた社会主義の体現を芸術活動でこなしえたのは幸福というほかなく、また、フルシチョフによるスターリン批判(1956年)を知らずに没したこともまた、この上なく幸せでなかったかとも考えるのである。
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不可思議な饒舌さ   束芋「断面の世代」(国立国際美術館)

2010-07-18 | 美術
束芋のビデオインスタレーションを初めて見たのはたしか2001年の横浜トリエンナーレだったか、電車?が流れていく様に引き込まれたのを覚えている。ただ、そのときはビデオインスタレーションが多くて、束芋の作品だったかよくわからないが、単調な中にも惹かれる作品があり、もう一度見たいと思い探しているが、いまだにたどり着いていない。それはさておき、今回の束芋のテーマは「断面の世代」。
今回のテーマと記したが、束芋自身の問題意識が自己を「断面の世代」と規定することに本展の見所がある。「私が想定した、私を取り囲む入れ子になった球体状の世界を両手に収まるくらいの大きさで捉え、その世界に包丁を入れる。両手の中で切り口が露になり、私の目にはその断面が私を取り囲む世界を理解する上で役立つ二次元の地図となる」「二次元の地図の段階では判然としなかった地図上の要素が、時間軸にならべられることで、私にとって「キュウリ」や「かんぴょう」といった意味の形になっていく」「断面は、社会に属する個や時代に属する個の一端を浮かび上がらせることを信じ、私はそれを眺めてみたいと思う」(キーワード【断面】展覧会図録)。
1975年生まれの束芋は、自分の親の世代である団塊の世代が、太巻きの「キュウリ」や「かんぴょう」と違った個性の集合体が時代をつくっていったことに比し、自分たちは太巻きを断面で切った(時にうすっぺらな)一枚であるという。いろいろな要素はあるけれど、これといった強い自己主張や、かといって他の強い自己主張に対する共感もない。兵庫の平凡なサラリーマン家庭に生まれ、大阪の団地暮らしを経験している束芋はその平凡さが、世界でおこっている大きな出来事(束芋が小学生・中学生をすごした時代、80年代後半以降はソ連の解体、ベルリンの壁崩壊など東西冷戦が終焉するまさに激動の時代であった)とはかけ離れた、変わらない日常であることを醒めた目で束芋は見続けていたのかもしれない。
京都造形芸術大学の卒業制作であった「にっぽんの台所」にはじまり、「にっぽんの横断歩道」や横浜トリエンナーレで筆者が見たと思われる「にっぽんの通勤快速」など「にっぽんの」シリーズはもちろん、「団地層」や新聞の連載小説「惡人」(吉田修一原作)の挿絵など、どこかおかしさ、怖さ、シニカルな眼を持ちながら決定的な意図や構図といったものが見つけられない不安定さや不気味さがあふれている。それは、「惡人」に見られるように束芋の作品群が手や足など、ときには臓器といった体の一部を切り取って、それがメタモルフォーゼとなって他の物質に変転していく不可思議さばかりのせいではない。人間に拠り所などないのだというあきらめと、それでいて、その拠り所のなさこそが自己の存在証明であるかのような「断面の世代」故の大きな物語から遠い存在である自分たちを現している証なのだろう。
テレビも3Dの時代。日本が誇るアニメーションの世界では、表現できないものはないのではないかと思われるくらい緻密で、時にスタイリッシュである。それらデジタル世代のはずの束芋が描く風景は泥臭く、アナログを思わせる古くささでもある。しかし、束芋の手法は自ら描いた何百枚、何千枚ものコンテをパソコンに取り込んで、ととても高度で緻密なものである。ビデオインスタレーション作家というとパソコンに手慣れた、絵もあまり自分で描かないIT世代という偏見を見事に打ち壊す職人芸である。そう、束芋の部分、部分を描く、手や足、髪はどこかおどろおどろしいと書いたが、すぐれたデッサン力を背景にそれはそれで美しいのだ。
束芋の映像には奇妙なBGMはあるが、台詞はない。けれど、落ちてくる家具(にっぽんの台所)、人並み(にっぽんの通勤快速)、パンツから枝が生え、シャワーになり、その水泡の中から指が生えてくる様(惡人)など、これ以上に饒舌な表現もないと思えてくるから不思議だ。
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ロミオとジュリエット   2010英国ロイヤル・バレエ団公演

2010-07-06 | 舞台
ロミオとジュリエットというとバレエより映画や演劇で有名なので、今更あらすじを確認することもないのが幸いした。ただ台詞のない分、踊りでどれほど登場人物の感情を表現できるか興味深かった。
ジュリエット役のロベルタ・マルケスは西欧のバレエ・ダンサーにしては大変小柄(ブラジル出身という)、ジュリエットの少女のイメージがよく出ていた。もちろん04年からロイヤル・バレエ団のプリンシパルをつとめるだけあり、そのパフォーマンスは申し分ない。親が決めた婚約者を嫌がる様、ロミオに会ったときのときめき、ロミオとの二人きりの夜、そしてロミオの死を知ったときの絶望。表情も豊かで、その軽やかな舞は戸惑い、幸福、悲嘆をポアントのまま10メートル以上もバックする繊細な動きで表現。随所に見える完璧な基本動作の数々は、幼く可憐で、その無知さ加減もよく出ていて喝采ものだった。
数幕に渡る演目では多くのプリンシパルは登場しっぱなしではないという。その例外が「うたかたの恋」のルドルフとロミオなそうな。出っぱなし、踊りっぱなしで、ハードなことこの上ない。その上、今回はジュリエット役が小柄な相手とは言え、リフトも多い。男性ダンサーはつくづくハードだなと思ったのが今回で、それをこなしたのがスティーブン・マックレー。マルケスと同じ年にロイヤル・バレエ団に入団し、ロミオ役ははまり役なそうな。バレエの男役というとたいがい単純、幸福と絶望を繰り返し演じる単細胞である。というか、やはりプリマの相手役に過ぎないという部分はある。けれど、それでもキュピレット家に対する敵愾心あらわに血気盛んな様、友人が倒されると思わずキュピレット家のティボルトを刺し殺し、死んだように寝ているロミオの後を追って自ら命を絶つ。ばかである。
そのばかさ加減がマックレーの踊りにはよく現れていた。そして美しかった。バレエにおける男性ダンサーは(女性ももちろんだが)美しくなければならないという原則中の原則を体現してくれていたとも言える。表情とともに振りが大きく変化するジュリエット役のマルケスとともに大げさな動作で、といっても、超絶技巧は多くない。それがよいのだ。
全3幕、結構長いステージに飽きさせない甘美を送ってくれたロイヤル・バレエ団の実力に満足の公演であった。
ただ、兵庫公演は最終日だったので、カーテンコール後になにかサービスがあるかと期待したが、わりとあっさりしていた。疲れていたのか、ロイヤル・バレエ団のしきたりとしてそうなのか分からないが、それはそれでよし。本編の感動が薄れるものではないから。
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