ロシア構成主義というと、勘違いしていたのはマレーヴィッチのシュプレマテズムの亜流と勝手に思っていたからだ。むしろ、マレーヴィッチはロシアの農民像にこだわったかに見えるのに反し、構成主義はそのようなロシアの現実(革命ですぐに貧農層が救われたわけではもちろんない)は別にして、いわば「新社会建設のため」という理念先行のようにも見える。
構成主義のはじまりとされるタトリンは、タトリンタワーで社会主義(共産主義)の力を表現、証明しようとしたが、理想と現実は別である。タトリンタワーが社会主義の勝利として完成すれば、それはそれで納得がいくが、それは所詮「理想」にすぎない。というのもまた、この時代の社会主義のあり方を示すものとも言える。なぜなら、政治課題として「社会主義的」なるものは、ソ連がどうであれ、北欧やその他ヨーロッパにおいて現実化されているのであり、芸術の力を借りたから成就あるいは成しえなかったのとは違う局面ではたらいているのである。構成主義が革命の現実化をいくら理想としようとも、タトリンやここで紹介するロトチェンコも社会主義プロパガンダとしての役割であったとしても、今は芸術性と社会性の様々な局面でだけでしか評価されるにすぎないからである。
前置きが長くなってしまったが、本展はアレクサンドル・ロトチェンコとその制作のパートナー、伴侶であったワルワーラ・ステパノーワを紹介する日本ではじめての本格的回顧展である。いつも気になるのは、男性の芸術家の伴侶やパートナーであった女性はいつも男性の付け足しみたいに扱われることだ。業績や作品で仕方ない面もあるが、ステパーノワとロトチェンコというふうには紹介されないのが、男女平等であるはずの社会主義でも解せないところだ。カンデンスキーとミュンターとか、モディリアニとジャンヌとか、対等に扱われる、あるいは男性芸術家なくして紹介されることなどあるのだろうか。
少し脱線したが、ロトチェンコの仕事は、具象から抽象、多彩から幾何学的、耽美主義から実用主義とどんどん合理主義化していく。もちろん革命が近代の産物であるとき、その合理性は必然であって、同時に、デザインにおける虚飾の排し方は近代デザインの使命を証明するのかようで心地よい。しかもロトチェンコのデザイン、工芸、建築的発想は、理想主義的、現実化に距離はあったとはいえ、「近代」を知った人類が等しく生きていくためのグランドデザイン的発想に満ちていたことこそ評価されるべきである。ロトチェンコのようにロシア革命(社会主義)ゴリゴリでこれまで紹介、評価されなかった人に比べて、大きく日の当たってきた(と筆者は思う)リートフェルトなどのオランダはデ・ステイルやル・コルビジェなどの仕事と比べても、その人に対するまなざしは十分「人間的」である。
一方、3次元を2次元で表現し、また2次元の仕事をしなくなったロトチェンコは市井の人の営みを写すのが趣味の写真家であったともいう。ロトチェンコのフォトグラフは、社会主義を離れてプレッソンよりも早く、人間の姿を切り取って見せた。それはそれで興味深いが、理想に燃えた社会主義の体現を芸術活動でこなしえたのは幸福というほかなく、また、フルシチョフによるスターリン批判(1956年)を知らずに没したこともまた、この上なく幸せでなかったかとも考えるのである。
構成主義のはじまりとされるタトリンは、タトリンタワーで社会主義(共産主義)の力を表現、証明しようとしたが、理想と現実は別である。タトリンタワーが社会主義の勝利として完成すれば、それはそれで納得がいくが、それは所詮「理想」にすぎない。というのもまた、この時代の社会主義のあり方を示すものとも言える。なぜなら、政治課題として「社会主義的」なるものは、ソ連がどうであれ、北欧やその他ヨーロッパにおいて現実化されているのであり、芸術の力を借りたから成就あるいは成しえなかったのとは違う局面ではたらいているのである。構成主義が革命の現実化をいくら理想としようとも、タトリンやここで紹介するロトチェンコも社会主義プロパガンダとしての役割であったとしても、今は芸術性と社会性の様々な局面でだけでしか評価されるにすぎないからである。
前置きが長くなってしまったが、本展はアレクサンドル・ロトチェンコとその制作のパートナー、伴侶であったワルワーラ・ステパノーワを紹介する日本ではじめての本格的回顧展である。いつも気になるのは、男性の芸術家の伴侶やパートナーであった女性はいつも男性の付け足しみたいに扱われることだ。業績や作品で仕方ない面もあるが、ステパーノワとロトチェンコというふうには紹介されないのが、男女平等であるはずの社会主義でも解せないところだ。カンデンスキーとミュンターとか、モディリアニとジャンヌとか、対等に扱われる、あるいは男性芸術家なくして紹介されることなどあるのだろうか。
少し脱線したが、ロトチェンコの仕事は、具象から抽象、多彩から幾何学的、耽美主義から実用主義とどんどん合理主義化していく。もちろん革命が近代の産物であるとき、その合理性は必然であって、同時に、デザインにおける虚飾の排し方は近代デザインの使命を証明するのかようで心地よい。しかもロトチェンコのデザイン、工芸、建築的発想は、理想主義的、現実化に距離はあったとはいえ、「近代」を知った人類が等しく生きていくためのグランドデザイン的発想に満ちていたことこそ評価されるべきである。ロトチェンコのようにロシア革命(社会主義)ゴリゴリでこれまで紹介、評価されなかった人に比べて、大きく日の当たってきた(と筆者は思う)リートフェルトなどのオランダはデ・ステイルやル・コルビジェなどの仕事と比べても、その人に対するまなざしは十分「人間的」である。
一方、3次元を2次元で表現し、また2次元の仕事をしなくなったロトチェンコは市井の人の営みを写すのが趣味の写真家であったともいう。ロトチェンコのフォトグラフは、社会主義を離れてプレッソンよりも早く、人間の姿を切り取って見せた。それはそれで興味深いが、理想に燃えた社会主義の体現を芸術活動でこなしえたのは幸福というほかなく、また、フルシチョフによるスターリン批判(1956年)を知らずに没したこともまた、この上なく幸せでなかったかとも考えるのである。