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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

グリッドの明るみ、楽しさ、華やかさに魅入られる  吉川静子の仕事に触れて

2025-01-19 | 美術

20世紀を代表するオランダは構成主義のアート・デザインのグループ「デ・ステイル」のリーダー、テオ・ファン・ドゥースブルフと盟友であったピート・モンドリアンが絵画に斜めの線を入れるかどうかで喧嘩別れした話は有名である。斜線を絶対に拒否したモンドリアンは、その後フランスに渡り、ナチスに追われて渡米するまでパリを拠点に活動した。

バウハウスの流れを引くウルム造形大学の最初の日本人女子学生となった吉川静子は、ウルムに進む素養と実力がすでにあった。最初の進学先である津田塾大学で語学力を磨き、東京教育大学(現筑波大学)で建築や工業デザインを学んでいたからだ。自己の影響力を広めようとバウハウスに乗り込んだドゥースブルフ、同時代にマレーヴィチはじめロシアを席巻した構成主義の流れなど、吉川のデザインには先達の遺産、功績、技量の全てが詰まっている。

しかし、全体のフォルムは正四角形を斜めにしたものや、円を用いるのに画面には縦と横の直線しか登場しなかった吉川の画業にモンドリアンの頑固さを見てとったのは、完全に筆者の無知ゆえである。計さされ尽くしたグリッド(格子)は、その色調、長短、カッティングの妙とも変奏し、頑固どころか自由であり、さらなる展開を期待させる。吉川がこのような旺盛な制作をこなしたのは1960年代から21世紀にまでわたる。デザイン作家がエアーブラシを駆使する時代に、筆で細かく丹念に、愚直に線を引く様は画家の描画というより、建築家の製図を思わせる。しかし、間違いなく展開図などではなく画なのだ。

吉川の評伝を見ると、キネティック・アートの大家ブリジット・ライリーとも親交があったことが判明する。歴史として扱われる構成主義にとどまらず、同時代の規則的、数理的なデザインも貪欲に取り入れていたことが分かる。さらにローマ滞在中には、日の出や落日を思わせる幾つものカラーを組み合わせた反円の中のグリッドを、20世紀も終わる頃には竹林から着想を得たのか、斜めのラインが躍動し、そして21世紀に入ると楽しげな水玉模様まで現れる。しかもそれらが全て考え抜かれたフォルム、配色、配置であるのに驚嘆させられるばかりだ。そして、幾何学的矩形しか登場しない作品群は決して無機質ではなく、名状し難いが精神的な明るみ、楽しさ、華やかさに溢れている。

思うに、構成主義的絵画の起源は、ヨーロッパにおける聖堂建築の緻密さや、後期印象派やキュビスム以降の表現主義とも関わりがあるのではないか。しかし、幾何学的矩形という意味では、ミニマルアートを牽引したアメリカでも昨年亡くなったフランク・ステラなど著名な仕事も多いが、ヨーロッパ的な緻密さ、繊細さは見られない。そして、障子や襖など、日常の生活デザインにグリッドがふんだんに現れる日本の美意識とも親和性が高いのかもしれない。

吉川は、通訳を担ったことが縁となり、スイス人デザイナー、タイポグラファーであるヨゼフ・ミューラー=ブロックマンと結婚し、生涯ほとんどをスイスで過ごした。吉川が日本に留まっておれば、このような偉業は成し得なかったのではとは考えすぎであろうか。

(「Space In-Between:吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」展は、大阪中之島美術館 3月2日まで)

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「教育」や「学校」は子どもを生かしも殺しもする 「型破りな教室」

2025-01-03 | 映画

2021年4月19日、大阪市松井一郎市長(当時)が、新型コロナウイルス(COVID19)禍で緊急事態宣言が出されたら市立学校を全てオンライン授業にするといきなり発表した。その年の2月すでにオンライン授業を経験し、ネット環境などのインフラ不備や低学年も含む全ての児童へのオンライン授業はふさわしくないと考えていた大阪市立木川南小学校校長の久保敬さんは、それまでの市の教育行政への違和感も含めて松井市長に考え直してほしいと「直訴状」を直送した。これが久保さんの友人を介してネット上に一気に広まり、久保さんの意見に賛同する声とともに、松井市長・大阪市教育委員会側からの久保さんへの「事情聴取」が始まった。結果的に久保さんは8月20日に公務員の信用失墜行為として文書訓告を受けた。久保さんは翌2022年3月に定年退職し、文書訓告の撤回を求めて活動を続けている。

「型破りな教室」のファレス先生と久保さんの実践は同じではない。けれど、「教室」で描かれる子どもや学校現場の実態を無視した一斉学力テストや、その点数だけで子どもや学校を序列化し、いたずらに競争を煽る教育行政の姿勢、IT環境の不備、学力テストの予習以外の授業を認めず、学校に乗り込んで来る市長や、はてはファレス先生の停職まで、全て大阪の教育現場で実践されてきたことだ。「教室」はメキシコの国境の町マタモロスの学校での事実に基づく。2011年の出来事なので久保さんの事件より10年前のことであるが、上述の学校、教員への締め付けや攻撃は、大阪では2008年に橋下徹大阪府知事が誕生した時から進行していたことだった。

「教室」が大阪の状況と大きく異なるのは、貧困や暴力が町にはびこり、麻薬組織の抗争などで道に死体が転がる情景や学校に行かない、行けない、途中に消えてしまう子どもが少なくないという実態だ。もちろんテストの成績は全国最下位クラス。ごみの中から鉄屑など金目のものを拾っては生計を立てる父と暮らすパロマ、無計画に子を増やす家庭でヤングケアラーの役割を押し付けられているルペ、そして兄が銃や麻薬などの運び屋でそれを手伝うニコ。日本ならみんな小学6年生に当たる年頃。「裕福」や「恵まれた」環境と正反対の彼らのもとに赴任してきたのはちょっと熱血なファレス先生。机を取り払い、校庭に飛び出す実践的な授業で生徒らに自ら学ぶ楽しさを気づかせるタイプはまさに「型破りな教室」。しかし、おそらくギフテッドのパルマは宇宙工学研究につながる数学や物理に才を見せ、家庭責任か自己実現かの葛藤に悩むルペは哲学や倫理学を志し、学校が嫌いだったニコも前向きな少年に。だが物事が全てうまくいくわけではない。

原作は雑誌『Wired』2013年10月号に掲載された記事から、クリストファー・ザラ監督が着想を得て脚本、制作も担った。ファレス先生とパルマは実在で、ルペらは虚構の世界だが、学校の存在や子どもらが全国テストで国内試験のトップに食い込んだのは事実。ファレス先生は現在もメキシコの学校で勤めているという。学校では子どもに夢を見させるのが教師の仕事という面もあるが、現実の世界では夢を諦めさせる、夢を見させない役割を担わされている。そして、現在の教育システム自体がそうなるように組み立てられており、また、「教育は2万%強制」とのたまった橋下知事に象徴されるように、教育や学校を為政者の思惑通りにコントロールしようとする政治家も多い。ファレス先生の授業実践を「見学」して、停職を発する市長の行動は、東京都立七生養護学校(当日、現在は七生特別支援学校)に大挙して、教員らを攻撃、処分を課した当時の東京都議会議員らの行動を彷彿させる(2003)。

本作品の「教室」と大阪の状況は相似形と前述したが、「教室」の周辺では子どもが暴力事件に巻き込まれ命を落とすことがあるが、現在日本で小学生の自殺まで報じられていることと同じではない。しかし、子どもを守る大人の役割・責任が不全であることに違いはない。

(「型破りな教室」2023 メキシコ映画。参考文献『フツーの校長、市長に直訴! ガッツせんべいの人権教育論』久保敬 2022 解放出版社。『ルポ 大阪の教育改革とは何だったのか』永尾俊彦 2022 岩波ブックレット)

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