kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ついに完結 日本いや世界で一番リーメンシュナイダーを撮った『完・祈りの彫刻』

2020-12-21 | 美術

私のリーメンシュナイダー巡礼の師匠福田緑さんが4冊目を上梓し、完結した。今回は3冊目に続いて同時代の作家も多く取り上げている。もちろん知らない作家ばかりだ。しかし、リーメンシュナイダーを見出した福田さんの慧眼は同時代の作家にも及んだことがわかる。そう、福田さんのレンズから逃れることはできないのだ。そしてそれらの多くは、教会など宗教施設に収蔵され、今も祈りの対象となっていたりする。私も訪れたことのあるドイツはクレークリンゲンのヘルゴット教会に座する「マリア祭壇」は圧巻であった。

今号ではまずリーメンシュナイダーの作品を「聖母の手」「息づく手」といった各々の作品の魅力的なパーツから紹介、分類しているところから始まるのが面白い。これは勝手な想像だが、2019年11月に開催された「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」展(ギャラリー古藤)https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/352a04fba9248de9ae20e0f7d1f13c0f)で永田浩三さんが、リーメンシュナイダーは手(の彫刻)が素晴らしい旨話されたことと関係があるのではないか。そういえば、私もリーメンシュナイダー・ファンの端くれとして彼の作品は眼や顎など顔を表情から遠くから見つけることができるが、手の出来栄えも見極める重要なファクターだと思うからだ。もちろん、私には見極められないが。ところで、聖母子像では彫刻であろうと絵画であろうと幼子イエスはマリアの左側(向かって右側)に頭部がきて、マリアを見上げるように抱かれているのがお決まりだが(もちろん例外はある。例えばリービークハウスの聖母子像(9頁〜))、この体勢ではマリアから見ると左下に視線を向けていることになる。この理由を西洋美術がご専門の先生に尋ねたことがある。先生は例外もあるとした上で、キリスト教絵画では構図的に、右側が重要あるいは聖性が高く描かれることが多く(例えば、ミケランジェロの《最後の審判》では右側に救済された人、左側は地獄に堕ちる人)、そういった意味もあるかもしれないが、ルネサンス期より以前、ビザンチン美術では正面にイエスを座らせている構図が多いと紹介された。私見では遠近法が確立された初期ルネサンス以降、絵画ではもちろんのこと、彫刻の世界ではもっと以前から写実的な表現は格段に進歩していたであろう。そして抜きん出た技量の持ち主であるリーメンシュナイダーは、どのような構図にすればその聖性が伝えられるか考え尽くしたに違いない。そしてそれはマリアとイエスとの位置のみならず、全体としての構図が祈る者をしていかにドラマチックに迫ってくるかを表現したと思える。

リーメンシュナイダーを「抜きん出た」と記したが、今回紹介されている同時代の作家も味がある。例えばミヒェル・エーアハルトの聖母子像(バイエルン国立博物館 139頁〜)やペーター・フィッシャー(父)の「いわゆる「枝を折る人」」(同 174頁〜)など。あるいはエラスムス・グラッサーの「モーリス・ダンスの踊り手」(ミュンヘン市立博物館 153頁〜)は楽しい。しかし、これらの作家の作品のいずれもリーメンシュナイダーの峻厳な表情彫刻にはかなわないように思える。ただ、リーメンシュナイダーの凄さを実感できるのは、ここで同時代の作家たちを多く取り上げ、細かに紹介されているからできることで、自分の不勉強を棚にあげてなんだが、多くは名前も覚えられず見過ごされてきた可能性も高い。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)禍のため、福田さんは今年予定されていた第二回目の写真展を開催できなかったという。リーメンシュナイダーのこととご自分の撮影作品には妥協しない福田さんのことゆえ、きっと開催を成し遂げられることと思う。私自身も行けるどうなるか分からないが、とても楽しみだ。

(『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』丸善プラネット 2020年11月)

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視線の勝利と男性像の不在  「燃ゆる女の肖像」

2020-12-18 | 映画

必要があって、戦後数年間の美術雑誌を繰っている。例えば『芸術新潮』では巻頭グラビアの最後の「期待する新人」ページはたいてい女性だ。『芸術新潮』なので画家ばかりではなく、役者や舞踊家などもあり、女性の比率も上がるがその女性重視は明らかだ。一方、画家や作家など「女流」が付くのは時代を感じさせるが、2020年の現在、冠側も問題だが、メディアでは今だ棋士など「女流○○」と書いている。60年経っているのに何も変わっていない。

その200年数十年前、フランスはロココの時代、1770年頃、ブルターニュの孤島での旧家の令嬢がイタリア・ミラノに嫁ぐための肖像画を依頼された「女流」画家が島を訪れるところから始まる。画家は生徒を抱え、実力も十分であるのに、自分の名前では出品できず父親の名で。島の娘は、姉が嫁ぐことになっていたが、それを拒んだ姉は自死。妹が急遽、ミラノへ嫁ぐことになることが決まっているのだが、抗うかのように嫁ぎ先へ送る肖像画を描かせない。画家としてではなく、散歩友だちとして現れた画家は、次第に親しくなるが、完成した絵を前に令嬢は「私に似ていない」。描き直しを約束して、母親の不在のとき、濃密な時間を過ごした二人は恋に落ちる。

しかし単純な同性の恋愛物語ではないと思える。画家と令嬢と召使いの女性は、母親不在の間、階級を超えて親しく過ごす。そこにはシスターフッドも見(まみ)えるし、召使いが望まない妊娠して堕胎する場面の後では、村の女が総出で歌う様が描かれる。圧倒的な男性の不在だ。画家の父も、令嬢の婚約相手も、召使いの相手も登場しない。描く必要がないからだ。そこで明らかにされるのは、男性がいない社会でも完結する物語ということだ。あるいは、種(馬)の役目しかない男性が、その役目以上に偉ぶる、いや、社会構造を支配している不均衡と差別性を衝いているのだ。

ストーリーは狭い島内での数日間の、少ない登場人物の、しかも台詞の少ない視線の交わりだけであるのに、なんと緊張感に溢れ、スリリングであることか。それは世界を描くということは、愛を描くということで  実は時代的には同性愛は許されなかった、もちろんキリスト教世界観の中では当然  自立した個の意志とは、愛を描くことで、男性優位やロマンチック・ラブ・イデオロギーも包含する、決まり切った世界に対する別の世界を描いたのではなかったか。固定観念からの解放や、視線こそが真実に近しいという意味でフェミニズムである。

ロココの時代の女性画家といえばマリー・アントワネットに寵愛されたヴィジェ=ルブランが思い出されるが、父や夫の後押しで宮廷に入り込み、同年でフランス文化に戸惑っていたアントワネットと親しくなり、破格の出世をしたとされる。あるいは、印象派の時代には、マネのモデルをつとめ、後にマネの弟と結婚した後は制作がしぼんだベアト・モリゾ。いずれも「父の娘」「夫の妻」といった実際と評価が付いて回る。本作では時代的に女性が職業生活の中で生きるのに不可分な男の影が一切ないことが革命的だ。

カンヌでパルム・ドールを受賞した女性監督セリーヌ・シアマの映像はただただ美しい。先に視線に触れたが、主演の二人、画家マリアンヌ役のノエミ・メルランと館の令嬢エロイーズ役のアデル・エネルの表情演技も素晴らしい。女性が自立を目指さなかった時代などないのだ。

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「分断」と「熱狂」の背景を知る 『アメリカ大統領選』

2020-12-15 | 書籍

2020年のアメリカ大統領選は民主党のジョー・バイデン氏が制した。ドナルド・トランプ現大統領は選挙に不正があるとして、法廷闘争などを続けているが、大勢は変わらない。しかし、選挙不正といった完全に陰謀論に見える主張にトランプ支持者は熱狂し、各地で抗議運動が続くという。なにせバイデンが史上最多の8000万票を獲得したとはいえ、トランプも7400万票も獲得したのだから、それだけ支持が厚い証拠だ。また、日本にもこの陰謀論の乗っかり、不正選挙だとトランプ支持のグループがいるから驚きだ。ところで、トランプという人物は、国際協調主義に真っ向から背を向ける政策からして支持できないと考えていたが、その人物の発言に見える品性、様々なセクハラ疑惑、脱税、金儲け以外に興味がない風情といった人格であるのに、なぜここまでアメリカ国内で支持されるのか不思議であった。トランプ支持のラストベルトの人々を、住み込んでまで取材した金成隆一記者の連載(『ルポ トランプ王国 もう一つのアメリカを行く』(岩波新書2017年)、『ルポ トランプ王国2 ラストベルト再訪』(同2019年))でその実態が分かった気がしたが、それが大統領選という次代の命運を決める大切な行動にどう反映されているのかも本書で明かされる。

まずアメリカ大統領選の歴史的経緯と今日の2大政党制の成り立ちが語られる。南部を基盤に奴隷解放に反対した民主党にはもともと白人層の支持が高かったこと、それが黒人層や白人以外の人たちに対する平等政策を掲げて、民主党支持層が増えたこと、反対にキリスト教原理主義に重きを置く政策で、白人層が共和党支持になったことなど。現在でも基本的構図はそうであろうが、中南米からの移民がカトリックであり、民主党の中絶擁護に反感を持って共和党支持に流れたことなど、フロリダでの共和党勝利の背景も明かされる。多様なアメリカか、2色(シンボルカラーである民主党の青、共和党の赤)のアメリカか。それはグラデーションの部分もあるだろうが、分断は深い。支持層の学歴、職業、地域できれいに別れる。非大卒の白人ブルーカラー男性なら共和党、大卒で移民ルーツを持つ都会のホワイトカラーは民主党。バラク・オバマを押し上げた層は後者でそれが勝利をもたらしたが、トランプの支持層は、そういったインテリ風情を嫌った。「上から」目線だというのだ。地球温暖化や核廃絶より、目の前の仕事がなくなる事態をどうかしてくれ、自分で頑張らないやつにまで福祉を施すから(オバマ・ケア)、自分たちが苦しいのだと。そこにはもともと分断の要素があった諸政策に対する態度がトランプ以前からあったのだ。しかし、トランプはそこを口汚く煽った。そしてその煽り方にゼノフォビア(外国人嫌悪)、マチズモ(男性優位主義)そしてセクシズム(性差別主義)が顕著にある。それらをひっくるめてレイシズムやヘイト言動に結びつけたのだ。それは、差別はいけないが区別はいいといたったレトリックを超えて、自身の立場を守るためには差別も許容するといった、いわば民主主義そのものを否定する倒錯した論理が見えるが、そこまで追い詰められた結果と言えなくもない。つまり、自分さえよければ、なのである。ここにトランプの一番好きな言葉、そして自分には受け入れられない言葉「負け犬」と、なんでもディール(取引き)に帰する極端な個人主義の発露が見られる。

けれど、そういった個人感情だけで7400万票は説明できないと思う。本書では、予備選会場を回り、支持者の声を拾う。あのファナティックなトランプ支持者に普通に話してみると、冷静で穏やかな人たちという。そう、煽る者がいるからファシズムは進行するが、煽られたことを自覚しつつ、行動する人がいるから完成するのだ。あのトランプ支持の熱狂は、どこか冷めた現代人が自己の欲望を激化していると見せたい「祭り」なのかもしれない。しかし「祭り」の後は、大抵傷つく人が出て、あたりはゴミだらけ、その再生に時間がかかるものなのだ。(『アメリカ大統領選』久保文明、金成隆一 岩波新書 2020年)

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物語で知るナチス下フランスの村の話 「アーニャは、きっと来る」 

2020-12-02 | 映画

原作は児童文学だそうである。しかし訳者も評しているとおり、内容は決して「子供だまし」ではない。12歳の牧羊見習いの少年ジョーから見た戦争。そこには大人なら知っているユダヤ人差別やナチスの非道について、都市から遠く離れた農村だということもあり、彼は知らない。スペインとの国境ピレネー山脈の小さな村レスカンにもナチスの手は伸びて来る。駐留するドイツ軍は割と友好的だ。穏やかで村人とも対等に付き合う伍長ホフマンと仲良くなり、一緒に鷲を見に行ったりする。しかし、羊を追っている時熊に出会い、逃げた山中娘と別れて、今はユダヤ人の子供をスペイン側に逃そうと計画するベンジャミンと出会うことで、人生が変転していく。ベンジャミンを匿っている村はずれの偏屈バアさんオルカーダに食料を運ぶ役を引き受けることになるのだ。やがてジョーの頼りになる祖父アンリ(実はオルカーダをずっと好きだった)、捕虜となっていた父ジョルジュも還って来て、村をあげてユダヤ人の子供を助けようとする。一方、ベンジャミンは強制収用所送りになるところをすんでのところで逃れさせた娘アーニャとの再会を待っている。

登場人物が分かりやすい。日々成長するジョーと仲の良い多動の少年ユベール、子供らを羊飼いに化けさせ山越えを発案するジョーの母リーズ、教会の神父、冷たい雰囲気と貫禄のナチスの中尉など。それぞれの役割が明確で、個々の微妙な心の揺れが詳しく描かれるのはジョーとホフマンだけだ。冷酷無比の権化とされるナチス将兵にこんな人間臭く、おおらかな人がいるのかと思うが、人間は一様ではない。ジョーも未熟な羊飼いだが確実に成長していく。

実話ではなく、創作なのでどうとでも描けると言ってしまえばそれまでだ。しかし多分、実際未熟な目から見た戦争の実相は必ずあり、冷酷だけではなかったナチス将兵もいただろう。事実フランス側から中立国スペインに農民らによって逃れたユダヤ人は7500人に及ぶという。近年のナチス映画では、一市民がユダヤ人を匿ったり、助けたりする作品が多い。「ソハの地下水道」(2011)、「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」(2016)、「ユダヤ人を救った動物園」(2017)など。いわば市井の小さな人、小さな話から人を助ける、それも逃れられない死が待っているユダヤ人を救うという物語へ。小さな物語の積み重ねと、普段からその物語の準備という精神性と差別を許さないという批判的視点。その積み重ねが次代のホロコーストやジェノサイドを防ぐのだという思いでフィルムは作り続けられているのだろう。

作中、レスカンの村人が第2次大戦を「グレート・ウォー」と呼び、ナチス中尉が、否定し「現在の戦いがグレート・ウォーだ」という下りがある(フランスが舞台なのに会話が全て英語というのはさておき)。ドイツにとっては第1次大戦の屈辱が、究極の排外主義ナチスの伸長を許したとの歴史的解説がなされるが、過去の戦争をどう評価、命名するかという課題は、再びその惨禍を引き起こさないという人間に普遍的に課された宿命とも思える。

そして、ジョーも一家も、ユダヤ人の子供らを助けるモチーフとなった羊(飼い)は、言うまでもなくキリスト教における犠牲の象徴である。

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