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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

パリ美術巡り2 ルーヴル美術館2

2007-02-08 | 美術
その作品の前で動けなくなり、見とれて、見疲れて、いや、作品の側からきちんと見ろみたいに感じる作品は多くはない。それは多くの名画、名作であるからというこちら側の刷り込みもあるだろうし、その時の自分の気持ち、美術館の展示の仕方、観客の多寡など多くの要素があると思う。けれど、これまでクリスチャンでもない自分が涙を流し、知らないうちに跪いていたサン・ピエトロ寺院はミケランジェロのピエタ像、その部分だけ有料で、単なる教会の一角にすぎない場所に安置されていた、訪れたのが遅く閉館(4時)まで長い時間がなかったことを惜しんだゲントの聖バーフ大聖堂はヤン・ファン・エイクの「神秘の子羊」は別格だった。
 そして「岩窟の聖母」。ルーヴルは人が多い。実は今回ルーヴルには旅行期間中3回訪れたのだが、最初は来館者がとても多く作品に近づくこともおぼつかなかった。それでちゃんと見られていなかったのだが、ダ・ヴィンチの作品は「聖アンナと聖母子」、「ヨハネ像」とともに並んでいた「岩窟の聖母」。
 ダ・ヴィンチの技術については今更私が述べるまでもない。完璧なスフマート、ラファエッロのような、言わば、つくったような慈悲の笑みではなくとまどいもありながらの深い微笑をたたえるマリア像。完璧である。大げさだけれども、このマリアをあるいはヨハネを見て、許しを乞わない人などいるのだろうかというほど、慈愛に満ちている。ただ、慈愛とはキリスト教の専売特許ではない。というのいうことの証明がこの「岩窟の聖母」なのである。
 聖書には詳しくはないが、キリストの生涯は、その死、復活、昇天まで語られることは多いが、実はマリアはどうなったのか定かではないそうである。それが、画題として好まれる逆の理由かもしれないが。映画ダ・ヴィンチ・コードの影響でマグラダのマリアにスポットが当たっているが、マリアの次にキリスト教絵画の女性題材といえばマグラダのマリアであろう。近世画家の多くが描いている、レンブラントも、ムリーリョも、エル・グレコも描いているキリスト降架のそばで泣き崩れているのはマグラダのマリアではあるが、母マリアの二の次である。
 聖母子を一番美しく、慈悲深く描いたのはラファエッロと言われるが、岩窟の聖母をみてほしい。慈悲だけではない、ダ・ヴィンチの描くマリアには憂いがあるのだ。そう、慈悲と憂い。スフマートならではと言ってしまえばそれまでだが、あふれるほどの慈悲の笑みに翳る憂い。大物であるイエス(開祖者だから当然だ)を無原罪で産み落としたマリアの気高さを絵画で表してきた例は数知れない。が、これほどまでに無原罪を含みつつ、慈悲を描いたのはダ・ヴィンチだけではないか。そう、キリスト教絵画は基本的に主題ごとなので、キリスト磔刑や東方三博士の礼拝など個別的な画題が圧倒的だ。前近代の祭壇画は主題ごとにパネル展示しているが、一枚の絵でさまざまな画題を組み合わせたモノは少ないのではないか(中世教会絵画でたくさんあるがもちろん平板で技術的には低い)。そしてそれに成功したモノはなおさら。さらに慈悲を受けるイエスとヨハネの表情もおよそ幼子でないところがまたいい。
 岩窟の聖母は、一枚の絵でマリアの幼子イエスに対する思い、イエスのその後の大成、そのイエスに洗礼するヨハネとすべての要素が美しく、そして大げさでなく描かれている。数学者、物理学者であったダ・ヴィンチはバランスという点からも完璧な構図で描いて魅せ、そして先述のスフマートの曖昧な魅力。
 2回目に訪れた岩窟の聖母には人影なし。動けなかったのか、動きたくなかったのか。じっくり付き合うことのできた至福の時間であった。
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パリ美術巡り ルーヴル美術館1

2007-01-21 | 美術
 ルーヴルのような西欧の大きな美術館に来ると最初どれから見ようか、どこから歩こうかとわくわくした気持ちでいっぱいになる。しかし次の瞬間、こんなに沢山見られるわけがない、どれも十分に見るなんてできっこないと絶望にも似た気持ちに苛まされる。おそらくルーヴルはそういった気持ちにさせる最たる美術館だろう。7年ぶりに訪れた今回、デゥノン翼の入り口を入ったところでギリシアの彫刻群を眼前にして感じたのはやはりこの期待と絶望である。

 1日目はデゥノン翼とシュリー翼を少し歩いたが、デゥノン翼の2階中央に移された「モナリザ」はオフシーズンでも大きな人だかりで、その前にあるヴェロネーゼの「カナの婚宴」も十分見とれる作品であるが、多くの人は「モナリザ」に釘付けである。この部屋は撮影禁止となっているが結構フラッシュを光らせる人までいて係員に注意されていた。「モナリザ」は不思議な絵画である。ダ・ヴィンチ・コードの人気から取り上げられることも多いが、ルネサンスの時代、宗教画が圧倒的に多い中で描かれたにしてはあまりにも完成度が高い、などということは私が言うまでもないだろう。それにしても「モナリザ」を見ていると、この人はどちらを見ているのだろう? いくつなのだろう? どのような感情を抱いているのだろう?といろいろな疑問が沸き起こるとともに、これは値段なんてつけられないなと俗なことも思ってしまう。一度盗まれ奇跡的に無傷で戻った「モナリザ」はもう人類の至宝の一つだろう。と言うのは、「モナリザ」は宗教画ではないからである。もちろん偶像崇拝禁止の観点からは肖像画も許されないだろうが、肖像画というのがもともとはキリスト教絵画(あるいは壁画)に寄進者が描かれ、それが後に大きく、そして独立して描かれるようになったという背景を思えば、「モナリザ」はそういった背景さえも感じさせない風俗画でもあるからである。

 「モナリザ」からシュリー翼に至る順路(でもないが)、デゥノン翼から移動する途中にサモトラケのニケやアフロディテ(ミロのビーナス)があり、これも大勢の人だかりである。西欧の美術館、特にルーヴルやオルセーが太っ腹ななのは先の「モナリザ」室やいくつかの部屋以外は撮影自由であるということだ。まあ、美術作品はその眼で見てこそそのすばらしさを感じることができると思うので、撮影しても自己満足にすぎないのだが、ニケやビーナスを撮る人は多い。そしてニケやビーナスはある種の間さ、それはもちろん神話の世界のものであるからであるが、生硬さが心地よい。だから撮影しようが、間近に見ようがあまり変わらないと思う気持ちもわからないではない。もちろん、物見遊山の記念写真を撮る人が多いのだが。

 デゥノン翼と反対側にあるリシュリュウ翼のマルリーの中庭にはロダン以前の近代彫刻が立ち並び、最初に感じた絶望感より期待感が大きくなり、1日目のルーヴル散策は終わりにした。
(カノーバ「アモールとプシケー」)
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臨場感あふれる学芸員の活躍  ポンピドゥー・センター物語

2006-12-15 | 美術
以前書いたかもしれないが、私が海外の美術館に行くようになったのはポンピドゥー・センターに行きたかったのがきっかけである。当時は近・現代美術ばかり興味があり、ルネサンスやロココ、バロックなどにあまり興味がなかったので広大なルーブル美術館でも「モナリザ」や「ミロのヴィーナス」など超有名作品には見入ったが、他の珠玉の逸品の数々(今にして思えば)にはあまり関心を向けなかったのだ。
そのポンピドゥー・センターが開館したのが1977年。ポンピドゥーの名はもちろん時の大統領名。開館したときにはポンピドゥー大統領はすでに亡くなっていたがミッテラン大統領はその遺志を引き継ぐと開館挨拶をした。開館当初はもちろん非難、悪態も多かったらしい。何やら訳の分からない現代美術その他に多額の税金をつぎ込み、しかも由緒あるパリの街並みを壊す奇天烈な外観が登場したのであるから。その開館当時の雰囲気、そして文化の都と言ってもとっつきにくい現代美術にどれだけ人が来てくれるだろうか、あるいは来てほしいと思う企画の立案。フランス学芸員の登竜門、国立ルーヴル学院をそれこそ優秀な成績で卒業した(でないと進級、卒業そのものができない)筆者がポンピドゥー・センターの国立近代美術館の研修生となり、数々の展覧会開催に関わり過ごした激動の日々が綴られる。
 ポンピドゥー・センターは国立美術館のほか、図書館、映像センターなどをまさに現代文化の殿堂である。さすが文化保存には金に糸目をつけない(ルーヴル学院もその一環である)フランスの面目躍如といったところだ。ルーヴル美術館が印象派以前、オルセーが印象派、そしてそれ以降が近代美術館と時代ごとに明確に分かれているので訪れやすいのだが3カ所合わせるとそれだけ巨大な規模になるということだ。「近代」と区分された大規模美術館はテート・モダンとMoMAがあるが、ポンピドゥーはその独自の特別展で爾来世間を驚かせているという。筆者が関わり、あるいはそばで見てきた特別展はどれも意欲的、斬新な発想に裏打ちされたものばかりだ。それができるのは資金力というより豊富な人材である。筆者もその「人材」の一人であるが、その美術知識、創造性、好奇心、行動力はすさまじいばかりである。一度特別展にスタッフと関わることになれば、その前提としてフランスでは学芸員=ミュゼオロジーの地位が非常に高いことにある。フランスではミュゼオロジーは国家公務員なのでフランス国籍を持たない筆者はなれないのだが、その資質はミュゼオロジーそのものであって、非常にハイレベルな議論を前提としてイクスヒビションが構築されていく様は圧巻だ。本書の魅力は筆者がその一つ一つの出来事=それは、英知を集めたポンピドゥーの真骨頂なのだが  に冷静かつ熱く関わってきた様子がまるでサスペンス小説を読むように次々と展開される記述にある。
 筆者は近代以降の美術が専攻であるので現代の映像、インスタレーションにも力を割いているが、その取り上げ方の基本には美術に関する近代以前の驚くばかりの知識量にある。ルーヴル学院に学んだ後には遠くの作品を一瞥しただけで、その作品・画家名はもちろんのこと所蔵美術館、出自、由来を即座に諳んじた美術コンピューターであるからこそポンピドゥーに請われ、そして真っ先に写真展まで任されたのである。まだコンピューターのそれほど普及していなかった時代に図書館に通い、蓄積した美術に対する深い洞察は現在武蔵野美術大学の教壇で、あるいはメルシャン軽井沢美術館館長として生かされているのであろうが、日本で女性の地位が上がってきたのは85年の雇用均等法。それ以前、筆者が学んだ時代は女性の日本でも地位が低かったときでも、フランスではミュゼオロジーはすでにジェンダーバイアスがなかった、あるいは低かった証拠だ。
 フランス・パリでは、久しぶりに新設の国立美術館としてケ・ブランリー美術館が開館したばかりだが、文化保存にかける並々ならぬ意識(それが、王朝を長く戴き、その恩寵の歴史であったとしても)に改めて感嘆するとともに、東京に2月に開館する新国立美術館が先進国の中でも文化大国として問われる事象だが、そもそもジェンダーバイアスなど日本が超えられなければならない前近代的規範はまだまだ多いように思える。
 本書が出たのは1997年。現在も第一線で活躍する筆者の美への執着に喝采。

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エコール・ド・パリ展

2006-11-06 | 美術
エコール・ド・パリと言えばシャガール、モディリアニ、キスリングなど日本で人気の高い画家たちが思い浮かぶ。実際、シャガール展は日本のどこかでいつもしているくらい頻繁に見えるし、今年は藤田嗣治の回顧展も大々的に開催されていて、余計に身近に思えるかもしれない。けれど、「パリ派」と呼ばれたのは彼らが「芸術の都」パリに来て活動をしたからで、白ロシアのシャガール、リトアニアのスーチン、ブルガリアのパスキン、ポーランドのキスリングと彼らの多くが東欧出身のユダヤ人であることをどれだけの人が知っているのだろうか。異郷という意味ではイタリア人のモディリアニ、日本からの藤田も同根である。
東欧出身の理由は第1次大戦後の不安な社会状況、ロシア革命の匂い、芸術の都に出ればなんとかなるとか様々であろう。事実、彼らが依拠したパリの一角には詩人のアポリネールやすでに大成していたピカソをはじめとして「洗濯船」(モンマルトル)や「蜂の巣」(モンパルナス)など芸術家の溜まり場が存在していたし、芸術家と文学者の交流は当たり前だった。そんな中で日々芸術論、文学論をたたかわせていた画家たちがかれらエコール・ド・パリの面々である。
しかし、彼らの多くが世紀末でもないのに世紀末的な頽廃さを前面に押し出し、「放蕩」の末若く命を落としていったのには近代を一早く成し遂げたパリならではの雰囲気も感じる。戦争美術で頂点にたった藤田、ユダヤ人迫害から逃れアメリカに渡ったシャガールなどを除いて、モディリアニ、スーチンなど総じて若死にである。まるで生き急ぐ、死に急ぐかのように。
印象派以降の画壇で美しく、まとまったフォルムの姿がキュビズムであるなら、キュビズム以降、フォーブも含有し、さらなる人間存在への突きつけをなしたのは正式な美術教育を全く受けていないアンリ・ルソーの影響を強く受けたエコール・ド・パリの面々というのは面白い。というのは、シャガールモディリアニもスーチンもその多くは本国では「正式な」美術教育を受けているからだ。さらに、ルソーが示したプリミティブな観念(フォービズムのゴーガン、ドランはその典型とされるが)もまた彼らに色濃く見えるというのが本展の狙いの一つである。
エコール・ド・パリ派の画家の多くが若く散ったためにその燃焼がどう燃え広がったか想像するしかないが、第1次大戦後の好景気とは裏腹に「世界大戦」という欧州以外にも戦火が広がった人類初の誤謬をザッキンやオルロフの彫刻は後世の教訓をたしかに示しているようにも思える。
そう、モンパルナス近辺のザッキン美術館には、あの人を殺す時代の絶望が天を仰ぐ人型として鋭く表現されているのだ。
キスリングの、パスキンの、モディリアニの肖像が誰も笑っていないのは、彼ら自身の生の短さの予感だけではない。世紀を超えてこそ20世紀が長くないことの予感だったのだ。(スーチン「マキシムのボーイ」)
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ノルウェー、ドイツ美術めぐり ベルリン2

2006-09-24 | 美術
ベルリンは、東西に分かれていたときそれぞれの美術館を持っていたため、統一した時には互いにテーマや時代が似たような美術館が数多くあった。現代都市として変貌するベルリンの課題のなかにこの重複する美術館の整理があった。世界遺産として登録される博物館島にあるいくつかの美術館群も含め、これらの美術館が整理統合、改修されるのは2015年を待たなければならないという。そのすべての作業が終わるまでは待っていられない。それで5年ぶりにベルリンを訪れたのだ。そして今回のベルリン訪問で一番行きたかった美術館が国立絵画館(ゲマルデガレリー)である。
と言うのは、もともと近現代美術が見たいがためヨーロッパまで行くようになったのだが、西洋絵画はキリスト教(聖書)がわからないと全然面白くない。そして、この絵画館で大げさに言えばキリスト教美術に開眼したのだった。ちょうど前回訪れた際、美術館中央のホールで女性が聖歌を朗々と歌い上げていて、美術館全体にその澄み切った声が谺していたく感動したのだ。そして眼前に居並ぶ数々のキリスト教絵画。この時、もっとキリスト教のことを勉強しておればよかった、また来るぞと誓ったのだった。
なかでもあまりにも作品数が多く、見疲れてきた時に小さな作品であったが、はっと眼を覚まされた一品があった。レンブラントの「スザンナと長老」である。旧約聖書続編(外典)に出て来る美しい女性スザンナと、彼女に邪な気持ちを持った長老らがスザンナの拒否にあい、裁判官も兼ねていた長老らが死刑判決を下すが、ダニエルが長老らの矛盾を暴き彼らを死刑に処すという物語である。純血を守ったスザンナを讃えるお話ではあるが、もちろん水浴するスザンナを覗き見する長老らという主題で、画家らが裸婦を描く口実としてきた選ばれた格好の題材である。
この「スザンナと長老」のすぐ近くにあり、これも眼を開かされたのが風俗画フェルメールの傑作の一つ「真珠の首飾り」であった。国立絵画館の展示は18世紀以前の絵画に固められており、ルネサンス、バロック、ゴチックそしてロココまでである。場所がら北方ルネサンスも充実、ブリューゲルの「ネーデルラントの諺」はじっくり見たいのに一人の男性が一つ一つの諺を確認しているのだろうか、容易には絵の前を離れずいらいらしたものだ。ほかにもデューラー、クラナッハの充実ぶりは言うまでもなくそこで過ごした4時間が足の痛みさえなければ感じられないほどの魅力にあふれている。次ベルリンに来るのがいつになるかわからないが、絶対にここへは来るだろう。そして、中央ホールは本来彫刻スペースなのだが、今回は現代アートのインスタレーションが1点飾ってあっただけでバロック彫刻が展示されていなかったのは残念であった。
ヨーロッパのある程度の規模をほこる有名な美術館はたいてい訪れたが、国立絵画館はルーブルやプラド、ナショナルギャラリーに比べると規模は小さいがとても好きな美術館の一つである。ポツダム広場近辺のクルトゥーア・フォーラムには国立絵画館のほか、ノイエ・ナツィオナールガレリー(=新美術館。今回は旧館中だった)、クンストゲヴェルベムゼウム(美術工芸博物館)、銅版画ガレリーまであって全部回っていたらとても一日では終わらない。ノイエ…が開館する時を見計らってまた来ることにしよう。
ノルウェー、ドイツの美術めぐりもこれで終わりである。(写真はシャルロッテンブルク宮殿)
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「見えるがまま」にたどり着けるか  アルベルト・ジャコメッティ展

2006-09-18 | 美術
人出の多い日曜日の午後に美術館には行かないようにしているのだが、今回は事情が違った。その日の午後に館長中原佑介氏の講演があったからである。中原氏がこの4月に兵庫県立美術館の館長に就任したのには驚いたが、こんなに早く講演会に接することができるとはと二重に驚いた。現代彫刻に関する著作も多い中原氏の名前を知ったのは、『ブランクーシ』(86年、美術出版社)の著者であるからである。おそらくブランクーシのことだけをこんなに体系的に著わした日本語での著作はこれをおいて他にないだろう。今夏の休暇を利用してルーマニアはブランクーシの最初の家出先であって、現在ブランクーシ公園のあるトゥルグ・ジュ市になんとか行けないものか計画したのだが他都市をも経て行くには困難なことがわかり断念したばかりだった。ブランクーシの作品が言わば作者に見えたカタチを極限までシンプライズしたものであるとするならば、ジャコメッティの場合は見えたものを見えたままこだわるあまりあそこまでそぎ落とされた肉体(もはや“肉”さえも感じられない)として結実したのではあるまいか。
現代彫刻は難解とも思われがちだが、ジャコメッティの作品は逆に理解しやすいのではないか。いくら細くそぎ落としても女性像なのかそうでないか判るし、彫刻と並んで描いた膨大な量の絵画は被写体の輪郭を捉え切るまで何度も書き直した結果、あのような一瞬ぐちゃぐちゃにも見える描線の数となったことが分かるからである。
本展はジャコメッティの友であり、モデルをつとめた矢内原伊作との親交にスポットをあて展示しているが、もちろん他の作品ー肖像彫刻もーも多い。ジャコメッティの作品はどうしてもあの極端に細長い人物像が思い出されるため「あんな人間はいない」と見限ってしまいそうであるが、実は作品の中で矢内原なり、弟のディエゴあるいは妻のアネットなどを題材にし、作品名にもそう記している胸像等はあのような極端に細長い像とは違っていて「人間らしい」。
極端に細長い像の題はたいてい「裸婦像」とか「女性立像」とかで固有名詞がない。ジャコメッティは見えるものを見えるがままに描いた(彫った)というが、むしろ「見えるがまま」に表現する方が勝手な想像やデフォルメを排して描くよりはるかに難しい。写真であっても被写体にポーズをとらせ、何度も撮り直すことがあるならば「見えるがまま」とは言い難いだろう。ジャコメッティが「見えるがまま」にこだわり、作品に没入していくうちに固有名詞こそ必要なく、女か男か、人間かさえ曖昧になるほど彫り進んだのではあるまいか。そういう意味では「矢内原」とか「アネット」とかモデルの名前がわかる作品はモデルに対する信頼関係とそのモデルを他のモデルとは区別が可能なだけのサインを、いやジャコメッティなりの配慮をしていたのではないか。そう思える。
画家にもいろいろなタイプがあるだろうが、多くの場合作品完成に至るまで多くの習作を遺している。いや、常に書いているのだ。今回出品された多くのスケッチ、新聞の余白やレストランのナプキンや手帳の一片にまで、ジャコメッティの常に納得がいくまで描き続ける姿勢が見て取れて興味深い。
中原氏の講演はロダンがあまりにも見事に人物像を彫り出したので、ロダンは生身の人間の鋳型を作って製作しているに違いないと疑われたというエピソードから始まった。カタチにこだわるということはどういうことか、それが人間を対象にした時、作家の探究心と(非)妥協心が彫刻家も同じ人間であるのにここまで研ぎすまされるということ。ジャコメッティの細長い作品群はその長さだけ相対する者を惹き付ける。
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ノルウェー、ドイツ美術めぐり4 ベルリン1

2006-09-13 | 美術
ベルリンは2回目である。89年に壁が崩壊し、変貌の激しいベルリンを実感したいと思い訪れた。前回訪れたときは、東西ドイツにそれぞれあった美術館が整理されておらず、東側に位置する博物館島(世界遺産)の整地も未了、ブランデブルグ門にいたっては修復中で厚いクロスに覆われ見ることができなかった。
博物館島の旧ナショナルギャラリーは前回は閉館中であったが、改修も終わりとてもぜいたくなたたずまい。ドイツ印象派中心で恥ずかしながら知らない作家ばかりだったが、逆にドイツにおけるフランス印象派の影響の弱さと、しかしその豊かさと、そしてそれにもかかわらずナチス時代に迫害を受けたゆえ体系的には作品数も少ない19世紀頃のドイツ絵画の全貌に触れることができる。規模はそれほど大きくはないが、じっく見ることができる造りといい(小さなスペースなのに椅子も多い)、静かな空間に確かな作品群(ロマン主義的でもある)に触れられる環境でもある。
ベルリン中心地から列車で1時間、歩くこと30分で行くことができるのがザクセンハウゼン強制収容所跡である。こんな近郊にと驚くなかれ、20万人も収容されていた場所である。前回ベルリンを訪れたのはポーランドはアウシュビッツを訪れた後。ザクセンハウゼンはアウシュビッツのように当時の建物がそのまま残っているのは少ないが、その広大さに身震いする。ベルリン近郊であるし、そんなに遺していはいないだろうという浅はかさを破壊する広大さ。
人を殺すための工場がこれだけの土地を要したということ。そしてそれをいまだ遺しておこうとする言わば戦争責任を自覚した者の知恵。広大な土地に遺るものは少ないが、荒れ果て、無惨に野原と化した平原こそザクセンハウゼンで流された血、失われた命を像像することができるのかもしれない。
美術巡りとは少し離れたが、ベルリンは改修中の美術館も多いがやっぱり楽しい。ただ変貌が激しすぎて、美術館の改修期間、開館時間はきっちりと確かめて行った方がいい。そして、シャルロッテンブルグ宮殿は美術品はともかく、ガイド時間など不便なところもある。ヴェルサイユを真似たと言うが、ロシアはピョートル大帝のペテルゴフよりはかなり小規模。質実剛健のドイツらしいのだろうか。
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ノルウェー、ドイツ美術めぐり3 ドレスデン

2006-09-03 | 美術
第2次大戦で連合軍の爆撃により灰燼に帰したドレスデンがその美しい町並みの復活の道のりを歩み始めたのは東西ドイツの統一後数年経ってからである。その瓦礫の山を一つ一つ積み上げ、気の遠くなるような作業の末今年フラウエン教会が完成し、ドレスデンは今観光客でごったがえしている。とはいえ、ドレスデンの街の修復作業はまだ続いている。街の至る所が工事中なのは致し方ない。破壊されたドレスデンで生きながらえたのがザクセン王国のアウススト強王が造営したツヴィンガー宮殿である。現在宮殿内は7つの美術館、博物館からなっており中でも有名なのがアルテ・マイスター(古いマイスター=職人芸、名人芸 とでも訳すのだろうか)である。
「古い」というだけあって18世紀以前の絵画しか収めていないのがいないのがよい。ボッティチェリやマンティーニャなどイタリア初期ルネサンス期の作品から有名なラファエロの「システィーナのマドンナ」、ティツィアーノの「貢の銭」、コレッジョの「聖ゲオルギウスの聖母」、カラッチの「聖母の戴冠」などうれしくなる。アウグアウト強王は勢力にあかせて美術品を蒐集しまくったらしく、イタリア絵画以外にもエル・グレコやベラスケスなどのスペイン絵画、レンブラント、フェルメールなどのフランドル、そしてもちろんお膝もとのクラナッハやデューラーなどうっとりするほどだ。ちょうどクラナッハコーナーを開催していて幸運だった。
そしてザクセンのアウグスト強王といえば錬金術師ヴェトガーに作らせたマイセン陶磁器。宮殿の陶磁器コレクションはとてつもない数の焼き物が。大きな伊万里までお目にかかれてすばらしい。規模は小さいが彫刻コレクションもいい。
宮殿の斜め向かいのGrunes Gewolbeは最近開館したらしく、装飾工芸品の美術館でゆっく見回れば1日はかかろうというもの。職人の国だけあって本当に細密な技巧の粋が楽しめる。残念ながらアルベルティヌム(ノイエ・マイスターを併設)は閉館中だったが、どの美術館も歩いて行ける範囲ににあり、また一度訪れたいものだ。
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ノルウェー、ドイツ美術めぐり2 オスロ/ヴィーゲラン彫刻公園

2006-08-28 | 美術
オスロに行ったのはムンクが目的ではない。ヴィーゲランである。ムンクと並ぶノルウェーの国民的芸術家であるのに日本ではムンクほど知られてはいない。その理由は、ヴィーゲラン自身が作品のノルウェー国外への持ち出しを禁じたこと、そしてもう一つは抽象彫刻が勃興する現代彫刻の時代にあってヴィーゲランの作品は古めかしさを感じさせるを得なかったこと、である。後者は私の勝手な想像であるが、ロダンが近代彫刻の師であるならば、ブールデルやマイヨールがその力強いあるいは滑らかな肉体にこだわった造形を完成させたのに比べ、ヴィーゲランの作品はその模倣とは言えないまでも「古い」とは言えるだろう。しかし、キュビズムの洗礼を受けた近代彫刻は大きくその姿を変質させていく。ブランクーシは言うに及ばず、未来派のボッチョーニやエルンストなど。
ブランクーシの鳥はおよそ鳥とも思えないし、エルンストの人物像は人ではない。けれどその極端化、洗練さは認めたとしても北欧の言わば田舎でせっせと人間讃歌を彫り続けたヴィーゲランもまた心惹かれる彫り物師なのである。
ルネサンス期のミケランジェロやその後のベルニーニなど前近代彫刻や、ロダンの人物主題はすべて聖書や神話世界からとったものである。実際に市井の名もなき人物像を彫りだしたのは近代彫刻以降であるが、ヴィーゲランのそれは本当に名もなき母と子、男と女、子どもたちなど無名の対象である。でもそのどれもが心さそう陰影を持っている。というのは、ヴィーゲランの主題は明るいもの 例えば、歓喜、抱擁ばかりではないからである。むしろ、「戸惑い」や「死」など人間のつらい場面をとらえたものが多い。いや、しかしヴィーゲランの眼は常に人に向けられているというのが正しいとろかもしれない。
若さも老いも、性の快楽も、その蹉跌もすべて描こうとしヴィーゲランは病や死を迎えざるを得ない人間の宿命に真っ向から彫ることで立ち向かおうとしたのかもしれない。直視とは、逃げないだけのことではなくて、むしろそこまでもと常人なら眼を背けたくなるようなときには現実の過酷さを描き切る芸術家の矜持なのかもしれない。
人は人の世界からは逃れることはできない。それこそをヴィーゲランは描きたかったのではないか。美術館と公園に設置されたおびただしい数のヴィーゲランの作品群。一人一人の表情を見ていると彫刻が持つ(と私が勝手に思う)無限の可能性に思いを馳せてしまった。
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ノルウェー、ドイツ美術めぐり1 オスロ/ムンク博物館・オスロ国立美術館

2006-08-26 | 美術
ムンクは日本でもよく開催されるので何回か行ったことがある。なかでも、数年前の京都国立近代美術館の「ムンク版画展」はとてもよかったので、マドンナのポスターを買ってしまい今も部屋に飾ってあるほどだ。ムンクは5歳のときに母親を亡くし、14歳のときには長姉が結核で、成人してからも自身も病身に悩まされ、弟も死去と「病」と「死」が常に隣り合わせの人生で、それゆえに暗く深い死のイメージがつきまとう画風として知られる。若くから画才を発揮したムンクはパリに留学を果たすが、病身ゆえに留学期間が延長されたりもしている。パリ以外にもベルリンで製作活動を続けたムンクはさまざまな芸術家、文学者らと交友を重ね視野を拡げてゆくがその間の作風は「死と乙女」や「ヴァンパイヤ」のような前述の死、病と分ちがたいテーマが多いように思える。
しかし、ムンクの画題を死と病だけに帰するのは単純すぎる。もちろん自身精神の病に苦しみ、恋人との別離の際の銃暴発事件で指を失うなど穏やかならざる時期もあったが、ノルウェーを代表する画家となり、晩生は療養と製作という比較的穏やかな生活を送っており、それが後期の力強い版画作品などに見て取れるのである。
ムンクと言えば「叫び」が有名だが、ムンクは「叫び」を油彩でも版画でもいくつも製作しており、また「叫び」以上に幾度も描いた題材もある。「叫び」や先にあげた「マドンナ」、男女のイメージは不安と不可分であるが、その不安を克服、あるいは直視せんがために幾度も選んで描いたように思える。そして、死や病への偏執狂的(でなくとも当然ある)不安をくぐり抜けたゆえの晩年の開放感あふれる人物像へと連なってゆくのである。「叫び」のイメージしか持っていなかった人にはぜひムンクの版画をはじめとした晩年の作品群に触れてほしいと思う。
ムンク博物館はそれほどの規模ではない。修復中の部屋もあり、じっくりムンクに触れるには格好の場所。国立美術館はムンク室もあり、近代以降の作品群でそれ以前のものは少ない。国立美術館はホテルの前だったのでとても便利だったが、もともとオスロの街はそれほど大きくない。ぶらぶらするには交通費や食事など物価がとても高いが難点だ。
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