3.11後の日本で「絆」や「がんばろう」とは違い、ちょっと冷めた目で復興を期待していた。それは正確に言うと「復興への期待」ではなく、あのような目に遭った人間も、全員が全員絶望の岸へとは向かわない、とそんな気がしたのだ。ホロコーストを経験した人間にとっては。
「フランクル『夜と霧』への旅」は、アウシュビッツやホロコーストに対する誤認と、同時にヴィクトール・フランクルに対する浅薄な理解を溶解してくれた。アウシュビッツに対する誤認とは、フランクルはアウシュビッツに3晩と4日しかいなかった。しかし、その3晩と4日で人の尊厳を奪う、そもそも「尊厳」を考えることを許さない経験としては十分であった。生きる意志を捨て去るには十分であったということだ。また、ホロコーストに至るユダヤ人の受難の象徴とも描かれるアンネ・フランクもアウシュビッツに送られ、落命したと勘違いされているが、アンネが亡くなったのはドイツ国内のベルゲン・ベルゼン収容所である。フランクルは戦後、ナチスの罪を(ドイツ人)全体として追及することに否定的であったため、ユダヤ人世界やナチスの戦争責任追及の側から攻撃されたともいう。「知っている振り」と「知っていること」とは明確に違うのだということを認識させてくれたのだ。さらにフランクルが言いたかったことは何か、それを探求し続けることが、フランクルの思い 意味への意志 につながるということも。
著者の河原理子さんがこだわるのは、フランクルの意思と同時にそれを自分なりに取り入れた人々と、フランクルを日本に紹介しようと苦心した人たち。フランクルがナチスからの頸木から逃れた1946年最初に刊行したのが『一心理学者の強制収容所体験』。これが『夜と霧』となって日本語訳、そして3年後英語訳となって世界的ベストセラーとなる。河原さんが特筆しているのは日本で『夜と霧』が読まれ続けているその事実である。
さまざまに語られるフランクルとの出会い。それは、『夜と霧』を初めて日本に紹介、翻訳した霜山徳爾にはじまり、その霜山の教え子たち、戦後の歴史学界、文学界をけん引した家永三郎、遠藤周作、吉行淳之介、詩人の石原吉郎…。もちろんたくさんの医療従事者。シベリア抑留の経験がある者はもちろん、現代では『悩む力』がベストセラーとなった姜尚中、自殺対策支援センター ライフリンクの清水康之など。ほかにも上記有名人ではなく市井の一人ひとりがフランクルの著作を読み、その生き方に触れ、「それでも人生にイエスと言」えるようになった数多の人たちがいる。
河原さんの取材はフランクルの出身地であるウィーンや、収容所があったチェコのテレージエンシュタット、ドイツ、ポーランドなどにまで伸びる。筆者自身も勘違いしていたのは、『夜と霧』初版に掲載されていたナチスによる収容所での蛮行を示すおどろおどろしい写真は、出版したみすず書房が独自に加えたものであったこと、そして『夜と霧』という書名も。ナチスによるホロコーストがまだそれほど明らかにされていなかった1956年当時の日本で、それら図版は衝撃をもって受け取られ、大ベストセラーとなったのだ。しかし、河原さんの取材によって、『夜と霧』やフランクルのその他の著作に胸うたれた人たちは、それらナチスの蛮行を示す図版ではなく、あくまでフランクルの言葉に人生の希望と生きる意味を見出したのだ。それはヨーロッパの地も日本も変わらない。
フランクルは大げさな言葉ではなく、繰り返し「生きる意味」を問うた。極限状態にある人間でも「生きる意味」を問い続けることができる存在として人間は、同時に自己に対する良心や責任をも問い続けるが、それは他者を否定することによって得られるものではないということを。
3.11によって日本は、日本人は変わったとの言説もある。しかし、1.17でもそう言われたのではないか。それにわずか16年ほどの間に人口密集地であるこの国に巨大地震が2度も襲ったというのに、原発再稼働の政権が圧倒的支持?のもとに誕生した。忘れやすい人間への天罰を待つのではなく、自らこの倒錯した世の中を変える術を自己の内面とそれを取り巻く状況の両方を見据える必要こそある。人間は社会的動物なのだから。
「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに期待することをやめない」
「フランクル『夜と霧』への旅」は、アウシュビッツやホロコーストに対する誤認と、同時にヴィクトール・フランクルに対する浅薄な理解を溶解してくれた。アウシュビッツに対する誤認とは、フランクルはアウシュビッツに3晩と4日しかいなかった。しかし、その3晩と4日で人の尊厳を奪う、そもそも「尊厳」を考えることを許さない経験としては十分であった。生きる意志を捨て去るには十分であったということだ。また、ホロコーストに至るユダヤ人の受難の象徴とも描かれるアンネ・フランクもアウシュビッツに送られ、落命したと勘違いされているが、アンネが亡くなったのはドイツ国内のベルゲン・ベルゼン収容所である。フランクルは戦後、ナチスの罪を(ドイツ人)全体として追及することに否定的であったため、ユダヤ人世界やナチスの戦争責任追及の側から攻撃されたともいう。「知っている振り」と「知っていること」とは明確に違うのだということを認識させてくれたのだ。さらにフランクルが言いたかったことは何か、それを探求し続けることが、フランクルの思い 意味への意志 につながるということも。
著者の河原理子さんがこだわるのは、フランクルの意思と同時にそれを自分なりに取り入れた人々と、フランクルを日本に紹介しようと苦心した人たち。フランクルがナチスからの頸木から逃れた1946年最初に刊行したのが『一心理学者の強制収容所体験』。これが『夜と霧』となって日本語訳、そして3年後英語訳となって世界的ベストセラーとなる。河原さんが特筆しているのは日本で『夜と霧』が読まれ続けているその事実である。
さまざまに語られるフランクルとの出会い。それは、『夜と霧』を初めて日本に紹介、翻訳した霜山徳爾にはじまり、その霜山の教え子たち、戦後の歴史学界、文学界をけん引した家永三郎、遠藤周作、吉行淳之介、詩人の石原吉郎…。もちろんたくさんの医療従事者。シベリア抑留の経験がある者はもちろん、現代では『悩む力』がベストセラーとなった姜尚中、自殺対策支援センター ライフリンクの清水康之など。ほかにも上記有名人ではなく市井の一人ひとりがフランクルの著作を読み、その生き方に触れ、「それでも人生にイエスと言」えるようになった数多の人たちがいる。
河原さんの取材はフランクルの出身地であるウィーンや、収容所があったチェコのテレージエンシュタット、ドイツ、ポーランドなどにまで伸びる。筆者自身も勘違いしていたのは、『夜と霧』初版に掲載されていたナチスによる収容所での蛮行を示すおどろおどろしい写真は、出版したみすず書房が独自に加えたものであったこと、そして『夜と霧』という書名も。ナチスによるホロコーストがまだそれほど明らかにされていなかった1956年当時の日本で、それら図版は衝撃をもって受け取られ、大ベストセラーとなったのだ。しかし、河原さんの取材によって、『夜と霧』やフランクルのその他の著作に胸うたれた人たちは、それらナチスの蛮行を示す図版ではなく、あくまでフランクルの言葉に人生の希望と生きる意味を見出したのだ。それはヨーロッパの地も日本も変わらない。
フランクルは大げさな言葉ではなく、繰り返し「生きる意味」を問うた。極限状態にある人間でも「生きる意味」を問い続けることができる存在として人間は、同時に自己に対する良心や責任をも問い続けるが、それは他者を否定することによって得られるものではないということを。
3.11によって日本は、日本人は変わったとの言説もある。しかし、1.17でもそう言われたのではないか。それにわずか16年ほどの間に人口密集地であるこの国に巨大地震が2度も襲ったというのに、原発再稼働の政権が圧倒的支持?のもとに誕生した。忘れやすい人間への天罰を待つのではなく、自らこの倒錯した世の中を変える術を自己の内面とそれを取り巻く状況の両方を見据える必要こそある。人間は社会的動物なのだから。
「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに期待することをやめない」